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エッセイとショートショートと―あちこち話が飛びますが

新・誰が一番偉いのか

2011-11-27 09:35:31 | こころ
 
 4年前の7月に「誰が一番偉いのか」という一文を載せたことがある。トランプみたいに、キング(首相)よりもエース(庶民)の方が偉いのかも、てなことを書いたかと思うが、今回は全然別の面からの話。
 深夜にラーメンを黙々と作っているラーメン屋さんは偉い、社会のヒーローというのはテレビの中に居るんじゃなくそこらに居て世の中のために働いている、という趣旨の文章をどこかで読んだのがきっかけ。

 先日、県内のとある温泉旅館で大学時代の同窓会があり、8人が集まった。全員50代、20年以上会っていないメンバーもいて、それなりに年をとっていた。当然昔話やら何やら出て、だいぶリフレッシュさせてもらった。
 それぞれ老眼が出ていたり頭が薄くなったり白くなったり、部長だったり課長だったりと、みな似たようなもの。そう大きな差はないように見えた。ただ話好きだった奴は営業やっているし、勉強好きだった奴は研究や教授やっている。僕自身含め、うまい具合に適職に就いているなあ、という印象を受けた。そして営業の奴はおそらく、教授は勤まらないだろう、とも。
 会社も違うし職種も体型(スポーツやっているのは、やはり中年太りはなし)も別ながら、ひと晩話をしただけで、みんな人生うまく行っている様子が(うまく行っていない人は同窓会も出づらいかも)何となくわかったような気もする。
 同窓会に出るのは、昔を懐かしむことももちろんながら、自分の現在の立ち位置を確認することに意味があるのだと思う。そういう意味じゃ、自分もまあそこそこであろうと。

 これらは薬関係の仕事なんだけど、その他のたとえば、弁当屋、焼肉屋、居酒屋、クリーニング屋、花屋、文房具屋、本屋、電気屋、バイク屋、職人、主婦……数限りなく仕事はあれど、それぞれの立場で、その役目を一所懸命やっている人が、一番偉いのではないかと思う。
 それは世界中どこも同じ。役目を一心に果たしている人たちのおかげで、この世は成り立っているはず。
(僕もこの秋大きな仕事を終えて、少々息切れしている面もあるけれど、頑張らなくては)

 …てなことをブログに書こうと思っていたら、雑誌の『プレジデント』で新井満さんのお母さん(産婆さんだった)の言葉として「天才には天才の、凡才には凡才の役割があるわさ。オギャアと生まれてきた赤ちゃんに、役割のない子なんて一人もいない」というのを読んだ。やはりね、と思った次第。

 そうそう、皆で一緒に露天風呂にも入ったんだけど、ゴルフは別として、スポーツやっている人間はやはりいい体型を保っているし体のキレが違う。僕も「お前は学生の時から体型変わらんなあ」と言われ、朝食を軽くし合気道も続けている成果がこんなところにも現れて、それはそれで嬉しいことなのでした。
 

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何が正しいのか

2011-11-20 16:31:52 | 時事
 
 TPPってよく分からないんだけど、APECハワイでのその協議において、日米首脳の言い分が異なるらしい。「言った」「言わない」は世間でもよくある話ながら、現時点で日本側が否定しているのならアメリカも譲ればいいものを、やはりしたたかだから、そこは譲歩することはないのだろう。(こういう強引なところ、イスラム社会から嫌われる原因なのかも)
 TPPについては国内でも賛否あるようだけど、それぞれの立場から物言っているわけだから、公平中立な立場でないと、正しいところは言えないだろうと思う。いずれにしても、その思惑に沿わない結果となった立場の人たちが文句言うことは間違いない。
 それぞれ主張する人たちに「じゃああなたたちが決めてください」と言うと、おそらく「いやそれは私たちの仕事ではない」と答えるだろう。だから、言いたいこと言えるってのは幸せなことであるのだが、それは決定権のない立場でもあるということ。

 読売巨人軍の清武(元)球団代表と球団会長(ナベツネ)との確執も、よく分からない。いずれも自分の正当性を主張するのは当たり前ながら、新聞や雑誌のコメントもまちまち。
 所変わって大阪では、橋本氏が革新的なことをやろうとしているようだ。既成政党vs.維新の会の構図となっているが、どちらが正しいんだか。勝てば官軍、か。ただ「大阪都」なんて、首都じゃないんだから、変は変。

 TPPにしろ何にしろ、何かを主張する人が、どっかから資金の提供を受けていないかどうか、あるいはどういう団体と親しいか、というのは重要なこと。たとえば放射能の有害性を否定する研究者が、電力会社から研究費を賄っていたとすれば、主張が偏るのは当然のこと。
(もちろん僕は、このブログに書く事項についてお金はもらっていません。皆さんからのアクセスがあるだけ)

〔写真は毎日jpより〕
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僕らは未来に生きている

2011-11-13 09:11:44 | エッセイ
 
 愛・地球博記念公園(モリコロパーク)にある「サツキとメイの家」に行ってきた。昭和の匂いのする家構えや家具や台所に、懐かしい思いがしたものだ。
 その見学の前、係員から「舞台が昭和ですから、ケータイの着信音は似合いません。スイッチ切るかマナーモードでお願いします」という注意があった。
 確かにトトロの時代には、ケータイもデジカメも薄型テレビもなかった。かの家のかまどやお風呂はマキを燃やすタイプだったし、トイレは汲み取り式。不便だったけど、それはそれで良かったと、今は思える。

 たとえば新幹線に乗ってカロリーメイト食べながらワンセグ見るなんて、昔は考えられなかったこと(当たり前ながら、江戸時代の殿様だってできなかった)。その頃からすれば、僕らは〈未来〉に生きていることになる。
 ただ、たとえば大阪万博で感じられたような〈未来〉とは、どこか違うような気がしている。もっとバラ色だったような。でもそれは僕が子供だったから、あるいは未来はいつもバラ色に見えるからなのかもしれない。
 こうしてネットで自由に情報発信できるし、メールで海外の友人ともすぐに連絡をとることができる。これは非常に便利なことだけど、その分僕ら幸せになったのだろうか、というとどうも…。メールにはすぐ返事出さないといけないような気がするし、ケータイでいつも誰かに縛られているような気になる。機械化・貿易自由化が進んだせいか、失業率が高くなって自殺者も増えている。ゲーム機ばかりで子供は外で遊ばなくなり、体力低下しているようだし。
 もう充分便利なのだから、これ以上便利にならなくていいようにも、思う。

 この先、さらに情報化・国際化・高齢化が進んで行くことになる。いろんなことが変わってますます便利になっていくんだろうが、ストレスの多い、イヤな社会になりはしないかと危惧しているところ。これから年寄りになっていく者として、生きづらい社会でなければいいのにな、と。
 …うちの実家も、昔はマキや“オガライト”で風呂沸かしていたんだけど、炎見ながらボーッと考え事していた子供時代、良かったなあ。

〔冒頭のイラストは、愛知県のHPより〕

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この世とあの世と

2011-11-06 18:22:29 | 科学/考察
 
 『人は死なない』は、東大附属病院で救急医として働く矢作直樹という人が書いた本。救急医療の現場や登山時の自身の体験などから、タイトルのような結論に至ったというもの。
 友人の霊能力を借りて、亡くなった母親と話をしたことも書かれている。あの世というのが、非常に近い所にあるような感じだ。なお、この友人というのはごくまっとうな社会人で、その霊力を公言することもなく、それを使って金品を要求するわけでもないとのこと(そんな人、多いんじゃないか)。

 あの世があるとするなら、この宇宙とは別の所であるに違いない。しかし137億光年先の宇宙の果ての向こうだとすれば、あまりにも遠い。だからあの世というのは、僕らのすぐそばにあると考えた方が理にかなっており、前回話をしたように、空間というか次元というか、宇宙は重なっていると考えられる。(でないと、別の惑星に生まれ変わったりしてしまう)
 違うところはもちろんあれど、あの世でもこの世と似たような生活をしているのだ、という話はよく聞くところ。前世、現世、来世、そのまた来世、というのが延々続いているのではないか。

 次元は違えど、死んだ人はすぐそばにいるに違いない。目には見えないけれども、近くに〈居る〉と考えていいだろう(植物どころの比ではない)。「お天道様が見ているよ」あるいは「お釈迦様が見ているよ」というのは、案外本当なのかもしれない。
 だから、宗教は何でもいい。念ずる心や祈る姿というのは、近くで〈誰か〉が見ているはずだから。

 ところで、宇宙が膨張していることは今や常識となっていて今年のノーベル物理学賞もその関係だったけど、あくまでも星と星、あるいは銀河と銀河との距離が広がっているだけであって、僕らの地球含め、星々自体は膨張していないってことでいいんだよね。(これ基本的な所なんだけど、説明あまり聞いたことがない)
 それから、クォークの種類が3対6種というのと、この世が3次元空間であるのと、何か関係があるような気もしている。それぞれの対が、x,y,z軸を形成しているような。

 こういうことばかり言ってると、特に子供の場合、親が非常に心配するものだ。「この子は取りとめのないことばかり言って、まともな大人にならないんじゃないか」と。僕も小さい頃からそのケがあって親に心配掛けたクチなのだが、大丈夫。今じゃ家庭持ちながら普通のサラリーマン(管理職)やっているし、取りとめのないこと考えながらも“まっとう”に生きてはいる。
 前回からの記事読んで、ひょっとしたらいかがわしく思っている人もいるかもしれないけど、ごく普通に生活している者です(あるいはこんな人も、意外と多いんじゃないか)。

 ギリシャの財政破綻だのタイの洪水被害だの、地球規模での困難は多々あれど、宇宙の根源に関わるおーっきな話、あるいは不可思議なことには、いつまでも興味を持っていたい。これはまた「僕はなぜ/どう生きるのか」ということにもつながるのだが、その話はまた改めて。
 

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