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エッセイとショートショートと―あちこち話が飛びますが

太陽系が寄ってたかって・・・

2006-09-24 09:38:57 | 科学/考察

 
 寄ってたかって、と書くと、いじめるとかバカにするとか、あまりいい意味で使われることはないが、ここではいい意味でのお話。なお、話題の冥王星についてではなく、この地球についての話。

 太陽系第3惑星がこの地球で、惑星の中では小さい方だ。外側には木星とか土星とか、質量で地球の何百倍もの惑星が控えているが、その木星や土星がなかったら、地球には大きな隕石がたくさん降り注いで、今のように生物は繁栄できなかったとのことだ。木星なんかは大きいぶん隕石が引き寄せられやすく、これらがなかったら、そこに落ちるはずだった巨大隕石のいくつかは地球へ、ということらしい。だから木星や土星は、「体を張って」地球を守っているのだと言える。
 これは、2001年のNHKスペシャル『宇宙 未知への大紀行』でやっていた話だ。

 ついでに言うと、地球の生命の元となる水や有機物も、隕石や彗星によってもたらされたものらしい。ということは、木星たちに大事に守られて育った地球に、有機物という“種”がまかれ、長い永い年月を経て育ったのが僕たち生命。(そのうち誰かが見に来るのかも。いや、もう見に来ているのかも)
 おっとその前に、我らが太陽との距離のことも書いておかなくては。ご承知のように、太陽からの距離が今より近くても遠くても、暑すぎたり寒すぎたりして、生命は発生しなかった。木星たちがいくら頑張ろうが、彗星で有機物がもたらされようが、極端な温湿度なら、生命は育たない。

 つまり、太陽系に意思があるのかどうかは知らないが、寄ってたかって地球に生命をもたらしているということになる。いがみ合いやら飲酒運転やら児童虐待やら、してる場合じゃないのだ。
 もちろん、生命が生息可能な惑星の外側を巨大なガス型惑星が回るような、いわゆる太陽系というのは必然的な形なのかもしれないが、地球みたいにはうまく行かなかった場合も、この宇宙にはゴマンとあるに違いない。こうして生命と太陽系について考察できるのも、すべてうまく行ってくれたおかげ。感謝感謝。ついでにここまで読んで下さった皆さまにも感謝。

 ところで、冥王星が惑星の定義から外れたのはついこの間のことだが、当の冥王星はそんなことお構いなしに、変わらず回り続けている。人間サマの定義なんか、どうでもいいことであるに違いない。
 周りの評価にいちいち左右されることなく悠々としている、というのは憧れる生き方だ。

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テロはなくならないか

2006-09-10 09:11:20 | 時事
 
 米国同時多発テロから5年。NYの世界貿易センタービルが崩れ落ちるさまは、おそらく僕らの人生の中でも最も衝撃的な光景の一つとなるだろう。

 オサマ・ビンラディンを首領とする国際テロ組織(アルカイダ)は、世界中に何千人といるようで、中東ではある程度の支持も得ているらしい。賛同者がそれだけ多いってことは、彼らにも彼らなりの理屈・言い分があるに違いない。たとえば「大国アメリカの横暴を阻止するのだ」とでもいった。それを聞けるだけ聞いてやれば、少しは気が収まるのではないか。少なくとも、話を聞いてもらえたことで、何かしら変化はあるはず。
 テロリストを捜し出したり手荷物検査を強化したりするより、気持ち自体を変えてやる方が確実だと思うから。ただ、それこそ奴らの思うツボなのかもしれないし、貧困や怨恨、武器のヤミ流通の存在やら、ことはそう単純でないのはもちろんわかっている。

 どこの職場にも不平屋・不満分子というのはいて、少しはマシになるかと思って話を聞いてあげることがあるが、何の何の、いい事は言うものの、身勝手な理屈であったり、真面目に働く人間たちへの文句になっていたりして、不愉快な思いをするはめになるのがオチなのだが。
 アメリカならアメリカの地位ある人間が、テロ組織の言い分を聞く。非公開の方がいいだろう。それはそれで危険なことだから、テレビ会議のような形でもいい(テロ組織の方だって、居場所を特定されるというリスクはある)。しかしおそらく頭に来るようなことも言われるので、強い精神力、そして受け流す余裕のある人間である必要がある。奴らにも「正しい」部分があり、自分たちにも「正しくない」部分があることに気付かされるのかも(聞きたくないことだろうが)。
 ひょっとしたら、すでにやったのかも・・・いや、ないだろうなあ。

 小さい頃、世界が一つになればいいと思っていた。国境もなく、みんなが同じ言葉で会話できるといいな、と。しかしそれは、それ以外の言葉・宗教・文化が消えていくということにもつながる。自分たちの文化が否定される、と彼らは思っているのではないか。悪意を以ってやっているのではないにせよ、世界一の国となってしまったアメリカが強い影響力を持つのは、必然的なこと。ただ、京都議定書にサインしないなど、わがままなところはもちろんある。まあそれはそれで、アメリカの「言い分」なのだが。
 去年のカトリーナ被害でも報道されたように、世界一とは言っても、アメリカにも貧しい人たちがいる。ハリケーンが接近していることさえ知らなかった人たちが。戦場の最前線でテロ組織が戦っているのは、おそらくアメリカでも貧しい人たちに違いない。国は違えど、同じような立場同士なのかもしれないのに。

 いずれにせよ、どんな世界でも「全員賛成」ということはあり得ない。それを呑むかどうかはともかく、反対者の言い分をどれだけ聞けるかってことだろうと思う。
 で、僕らは何をすべきか。ひとつ言うと、世界中にできるだけ友達・知り合いを作ることだ。スペインならスペイン、インドならインドに知り合いがいれば、その国で何か事件・事故があったとき、「あの人は大丈夫かな」と一瞬でも想うことができる。そういう想いは、微力だけれどテロの抑制にきっとつながるはず。
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電車の中の相対性理論

2006-09-03 08:43:42 | エッセイ
 
 これは、光速で走る電車から光を発射するだの、その光を鏡で反射させるだの、そういった超ムズカシイ話ではない。極めて簡単な話・・・。

 電車の連結部分近くに立っていると、隣の車両が大きく揺れるのが見えるかと思う。乗り物酔いするんじゃないかと思えるほどだ。
 しかし考えればすぐわかることだが、動いているのは隣の車両だけではない。自分の立っている車両も、当然ながら動いている。自分のいる車両がたとえば上に10cmしか動いていなくても、隣の車両が下に10cm動いていたら、相対的に相手の車両が20cm下に動いているように見えるのだ。
 ここで隣の車両に移ったならば、今まで居た車両が大きく揺れ動くのが見えることになる。そして移ってきた車両は動いていないように。今まで揺れに揺れていたのに。

 進学とか就職とか異動とか、生きる場所が変わるというのは、見る目が変わって、いいものだ。
 去年の『五月病の季節』にも書いたように、一ヶ所にずっといると、それはそれで過ごしやすいのかもしれないが世間が狭くなってしまう。立場を変えれば見方も変わるし、それが人間の幅を拡げるのだとしたら、あちこち動くほうが、人生面白いかもしれない。

 僕らは今、21世紀の日本に生きているわけだが、たとえば中世に生まれていたなら、あるいは中東に生まれていたなら、また違った考え方になっていたことだろう。それはそれで、その場所を基点としてモノを考えるわけだから、今現在の考えとは大いに異なっているに違いない。
 その場合、何が正しくて何が間違っているなんてのは、そう簡単に決められるものでもなくなってくる。アフガニスタンならアフガニスタンの、戦国時代なら戦国時代の、それぞれ“論理”というのがあるのだから。
 今考える“正義”なんてのも、本当に正しいのかどうかはわからない。何十年後かには“間違い”とされているのかも。いや、“本当に正しい”なんてものがあるのかどうかってことさえ、不確かな気がする。

 とは言え、どこかに足場がないと人は生きづらいから、今現在の何かを自分の拠り所にするしかない。それがたとえ、電車の連結部のすぐこちら側だとしても。
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