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エッセイとショートショートと―あちこち話が飛びますが

ショートショート解説

2008-07-27 09:34:41 | エッセイ
 
 小さい頃から空想好きで、それが嵩じてショートショートなんか書いています。
あまり解説するものではないとは思いつつも、特に前回のは予備知識がないと難しいと思われるので、ちょっと解説しておきます。

 『理科の実験』は、宇宙創成にまつわる作品である。宇宙創成というと、いかめしい神様か何かを想像するものだが、そうではなく、小学校低学年くらいの幼い子供がこの宇宙を創っちゃった、というもの。実験でたまたまうまく行ったのがこの宇宙、というわけ。
 話の中に出てくる〈黒い粉〉というのは、宇宙の95%以上を占めているダークマターやダークエネルギーと呼ばれるものを示している。ダークマターが多すぎると宇宙は収縮してしまい、ダークエネルギーが多すぎると膨張してしまう。僕らのいるこの宇宙は光の速さで膨張しているらしいが、微妙なバランスの上に成り立っている、ということを言いたかっただけ。
 〈黒い粉〉の多さ云々だけで、宇宙の形が決まるわけでもないだろう。ただ、単純化した方が分かりやすいというもの。

 またこれは、宇宙は一つではない、という現代物理学上の理論も参考にしている。この宇宙の他にも、宇宙というのは無数に存在しているらしい。それを異次元と呼ぶのかどうかは知らないが。また「137時間」というのも、宇宙の年齢「137億年」を意識したもの。大きさにしろ時間にしろ、相対的なものだから、宇宙を創った子供にしてみれば、ほんの短い時間なのかもしれない。
 そんな大きな子供たちが存在するはずがない、重すぎる、という意見あるかもしれない。しかしそれも相対的なものであって、それでちょうどいい世界、それが普通の物理法則である世界も、きっとあるに違いない。
 それと、137「時間」にするかどうかはちょっと悩んだところだが、ひょっとしたら137「分」くらいに修正するかも。その場合はご容赦を。

 もっと言うと、たとえば素粒子のような小さな世界にも、宇宙があるのかもしれない。そしてそこに、生命が存在している可能性も、ないとは言えない。まあこれは、空想好きにはたまらない考え方だが。

 もう一つ。2005年に発表した『愛の語らい』は自分でも気に入っている作品なのだが、ここのFはもちろんFemale(女)を表わし、MはMale(男)を表わしている。ただしこの場合、プログラム上の男と女という設定。
 特に恋愛初期の頃、女性って「私のこと好き?」って聞きたがることから思い付いたもの。また、その当時出始めた富士通のパソコン・FMシリーズにも引っ掛けてある。今じゃあまり聞かない〈OMエラー〉なんて、懐かしい言葉も出てくる。メモリーオーバーによるエラーのことだ。

 今回はちょっと手前味噌になってしまいました。たまには。
  

 〔写真は「日経サイエンス」より〕

P.S.
 全然関係ないけど、きのう富士山に登ってきました。詳しくはまた次回にでも。

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「理科の実験」

2008-07-20 09:14:39 | ショートショート
「はい、じゃあ次は、先週やった実験の結果を教えてもらおうかな」

「せんせい、ぼくのはつぶれてしまいました」
「そう。それは〈黒い粉A〉をちょっと入れ過ぎちゃったかな」

「せんせー、わたしのはおおきくなりすぎてこわれちゃってます」
「それはちょっと〈黒い粉B〉が多かったようね」

「あのー、ぼくのはすこしふくれているようですが、まだかたちのこっています」
「あそう、よくできたわね」
「137じかんは、しんきろくじゃないかなあ…」

「…やはり〈黒い粉〉のさじ加減が難しかったようだけど、幸いうまく行ったのもあるようね。じゃあ来週は、その中に何か出来ているか見てみることにしましょう。とーっても小さいから、よーく探すんですよ」
「はーい」
「それじゃ、きょうの〈時空間を作る〉授業は、これで終わります」


 Copyright(c) shinob_2005

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ブレの積み重ね

2008-07-13 07:56:30 | 時事
 
 大分の教員採用試験の不正がニュースになっていて、テレビのキャスターたちは、口々に「けしからん」と。
 このせいで不採用になった人には、お気の毒としか言いようがない。ただ、試験資料などはすでに廃棄されていて、誰が本来受かっていたのか、特定は難しいようだ。それもまた、残念なこと。

 とは言え、こういったものってえのは昔からあったことだし、これからもそうそうなくなることはないだろうと思う。もちろん不正はないに越したことはないのだが、県議や教育委員会などの権力構造というものがある限り、なくなることはないだろう。
 大学入試にしろ就職試験にしろ、議員が「口利き」をするというのは、ある意味当たり前なのかもしれない。権力者がいて、それを頼りにする庶民がいて、というのは、江戸時代の〈お代官さま〉の頃から変わっていないのだろう、と。

 そしてこういうのは、教員採用試験に留まらない。
 たとえばスポーツであれば、「あのPKが決まっていたら」「あの誤審さえなければ」というのはあるだろうし、恋愛や出世だって「あの時電車が遅れなければ」「あいつさえいなかったら」というのもあるだろう。さらに大きいところでは「あの地震がなければ」とか「あの戦争がなければ」とかいうことにもなるのだろう。〈たられば〉というのは、どこにでもある話。
 そういう不慮の事態といった、ブレの積み重ねというのが、この世の中なのだろう思う。教員採用試験に受かって、充実した教員生活を送れるかもしれないし、モンスターペアレントなんかに捕まって大変な目に遭うのかもしれない。ひょっとしたら、受からなかったことで、思いもよらぬチャンスにめぐり合うことだってあるのかもしれない。

 つまりは、不正だの事故だのってのは、この世の中付き物だってこと。うまく行かなかったおかげで、その後うまく行く場合だって、多々あること。
 もしも、ということを考え出すとキリがない。正しいかそうでないかはともかく、起きたことは起きたこと、と認めるところから出発しないと始まらない。

 …とまあ、キャスターではないので、勝手なことが言えるわけですが。

 ところで、先日「もしも時間が止まったら」という小文を載せたところ、同じタイトルのエッチビデオがあるらしく、その方面のサイトに混じって僕のサイトが検索で引っかかっているようです。いやらしい中にクソまじめなのがポンと出てきて、すごく違和感あるだろうなあ。
 ついでながら、発表したショートショート(例えば『メシア再臨』)、題名そのまま検索すると上位に出てくるようです。一時的なものかもしれませんが、ありがたいこってす。

 〔写真は、時事ドットコムより〕

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それぞれの役割

2008-07-06 10:28:55 | こころ
 
 特別ファンということでもないし、持ち歌も『時間よ止まれ』くらいしか知らないのだが、きょうは矢沢永吉の話から始めよう。

 朝日新聞求人欄の〈仕事力〉というコーナーで、4回にわたって永ちゃんの談話「信じろよ、自分を」が取り上げられていた(ひょっとしたら写真くらい目にした人もいるかもしれない)。その中の3回目(6月22日付け)で、10年ほど前、オーストラリアでの事業で現地を任せていた2人に裏切られ、30億もの借金を負ったというのがあった。(テレビやビールのCMからは想像できない、というか、そんなの全然知らなかった)
 どうしようもなくなったその時、永ちゃんは「この人生、俺はたまたま成り上がったあと大きな借金を背負う〈矢沢永吉〉という役になっただけなんだ」と考えるようにしたんだそうだ。そしてライブをやりまくって、借金すべて返すことができたそうだ。

 ある意味の開き直りであるが、たまたま矢沢だった、と考えるところが面白い。
 そう、何回何十回生まれ変わるのか、それとも1回こっきりなのかはともかく、僕もあなたも、たまたま〈僕:何の何某〉、〈あなた:何の何某〉であるに過ぎない。ひょっとしたら、それは別の人の人生であったかもしれないけれど、僕の人生は僕の人生だし、あなたの人生はあなたの人生。
 世界的な大スターであったかもしれないし、町の顔役であったかもしれないし、はたまた小さなお店のお手伝いであったかもしれない。それが幸せなものであるにせよ、そうでないにせよ、それを引き受けて生きるしかない。他人の人生を引き受けることは、親子であれ、不可能なこと。そして60億人いれば、60億通りの人生がある。

 その中には、不幸(?)な身の上から、何人もの人間を殺傷してしまう人生や、重い病で寝たきりの生活を余儀なくされる人生もあるだろう。
 それはそれで、ツラいかもしれないけど自分で引き受けるしかない。自分では決めきれない面はもちろんあるけれども、自分で決めることができる面がかなりあるのも事実。確か斎藤一人さんも、「あなたの人生は、あなたにふさわしいよう、お釈迦様が決めてくれたもの」というようなことを言っている。
 すべての人がスターになれるわけはないし、すべての人が社長になれるわけではない。それぞれの人が、それぞれの人生において、それぞれの役割を果たすしかないのだろうと思う。

 かくいう僕は、今は普通の会社員としてそこそこに過ごしているんだけれど、学生時代、あるいは社会人になってから、「もう終わりだ」と追い詰められたことも、一度や二度ならず。まあその辺のことについては、またいつの日かお話したいと。

 なお、永ちゃんのこの談話は、ネットでも少し読めます。
 

 〔写真は「矢沢永吉公式サイト」より〕

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