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エッセイとショートショートと―あちこち話が飛びますが

もうすぐワールドカップ

2006-05-28 09:10:52 | サッカー
 前回、ナマを含め30試合ほど見たし、もうそれほど“燃える”こともないと思うが、いざ始まれば、ついついまたテレビの前に座ってしまうのだろう。
 初出場のフランスではハラハラしながら見ていたが不完全燃焼、2度目の日韓は余裕持って見ることができて16強。3度目の今回ドイツ大会が、いわば本当の実力がわかる時、というのが大方の見方であろう。

 2002年、それまで1勝もできなかった日本と韓国がそれぞれ1次リーグ突破できたということは、やはりホームの利が大きかったのだろう。今回は、決勝トーナメント行けたら御の字ってところではないか。もちろん、期待を裏切ってベスト8以上に行ってもらえれば、それに越したことはないのだが。
 総当たりの勝敗表で、首位が全勝、最下位が全敗、ということは、サッカーの場合まずない。ボールを足で扱うせいで不確実性が高いからだが、それだけ番狂わせが多いということ。カウンター1発で勝利、なんてこともよくある話。実力的には下でも、必ずしも負けるわけではない、ということは、代表選手なら重々わかっているとは思う。

 選手では、それぞれ初出場のDF中澤、MF中村、FW巻、に期待したい。特に中村は、10番背負うほどの実力は付けてきており、中田英以上に期待できるのではないか。前回の無念を晴らすチャンスが与えられたのは幸運なことであり、ゴール向かって右側の直接フリーキックの場面があれば、最大の見せ場となろう。巻は途中出場が濃厚だが、点がどうしてもほしい場面で泥臭いゴールを決めてくれるといい。そして中澤には、ギリギリのところで体を張って失点を防いでほしい。
 もちろんそれ以外の選手も、それぞれの立場で頑張ってもらいたい。ただくれぐれも、ケガや体調には気を付けて。

 これまでのところ、日本代表にとって久保以外は大きなアクシデントはない。オーストラリアのキューエル、イングランドのルーニーも負傷のようだし、過去、ワールドカップでレギュラー級の選手が故障なく全員揃ったってことは少ないのではないか。「○○がいたら」というのはスポーツでは禁句のようで、現に居るメンバーでの戦いの結果だけが“歴史”となる。
 ここで勝手な予想をしておく。日本はベスト16止まりで優勝はアルゼンチン、準優勝はポルトガル。ブラジルは準決勝で敗れて3位、かな。

 ところで、コーナーキックやサイドからのフリーキックの際、逆サイドにボールが転々と抜けてしまう、というのを一流の試合でもよく目にする。ボールが行く確率は高いのだから、攻撃側は真ん中ばかりに集まるのではなく、逆サイドに1人でも控えていれば、こぼれ球からの連続攻撃が可能なのになあ、と思うのは僕だけだろうか。
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寝た子を起こすな

2006-05-21 09:41:30 | エッセイ
 映画『博士の愛した数式』で、寺尾聰扮する数学者は、離れの一室で物思いに耽るという生活をしており、家政婦(深津絵里)が部屋に入ろうとすると、「数字とたわむれているのにズカズカ入ってくるな」と怒るほどだ。確かABBAが、森の中の別荘で曲作りをしていたと思うが、こういう生活、うらやましい限りだ。
 彼のように、考えのおもむくまま頭をめぐらすことができるというのは、この時代、とても贅沢なことなのかもしれない。テレビにネットにケータイに、世の中退屈しのぎはたくさんあれど、一番の退屈しのぎは〈考え事〉あるいは〈物思い〉なのではないか。どこにいても、何も持っていなくても、できるのだから。それをたとえばケータイなんかに中断されるのは、何だかもったいない気がする。

 学生時代は、自由に物事を考えたものだ。丸一日誰とも口を利かずに本を読んで過ごしたこともある。見た目には寂しいものかもしれないけれど、それはそれで充実した時間だった。今じゃ、カミさんや子供たちがいるから、集中して何かをするというのはなかなか難しい。もちろん会社ではもっと集中できないから、家庭と職場の往復だと煮詰まってしまう。特に最近、思考を中断させられるのが非常にカンに障る。だから一人の時間というのは、とても貴重だ。
 そしてたまーに、一人で旅に出る。2日なら2日間、まったくのフリーだから、精神衛生上、とてもいい。いろいろとヒラメくのも、こういう時。

 話は少し変わる。授業中や仕事中に寝ている人を、マジメな先生や同級生、マジメな上司や同僚は起こそうとするけど、多少いびきをかいていようが、放っておいた方がいいと思う。もちろん居眠りはしない方がいいのだが、眠いまま1時間過ごすより、10分でもぐっすり寝てあとの50分シャキッとしている方がよほど効率的である。中途半端に起こされると、あとがたまらない。中には「たるんどる!」と怒り出す先生もいるかもしれないが、その考え方、おそらく間違いである。
 特に来月は、ワールドカップで夜更かしも多くなるだろうし。

 あと、寝入りばな。何を考えるともなく眠りに入っていけるというのは、当たり前と言えば当たり前なんだけど、とても贅沢なことなのだ。
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夕焼けと葉っぱの色と

2006-05-14 09:03:08 | 科学/考察

 去年の今ごろ、なぜ葉緑体が緑色なのかについての記事を載せたが、その後いろいろと考えてまた少しわかったので、再度まとめておく。

 太陽光のスペクトルを上に示す(「太陽地球人」HPより引用。虹の7色として、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫とよく言われるが、等間隔になっているわけではないのは意外であった)。
 紫の外側には、見えないけれども紫外線というのがあり、物を褪色させたり細胞を傷めたりする。だから、できるだけそこには近付きたくはない。
 そこで、紫とは逆側の光を利用することになるのだが、パッと見てわかるように、赤系統の色が半分近くを占めているため、そこらの光を光合成に利用すると、自然その補色である緑色が反射される。従って、葉っぱは緑色となる。
 また、朝焼けや夕焼けが赤いことでわかるように、太陽からの可視光線のうち、最も早く地上に届くのも、最も遅くまで地上に届いているのも、波長の長い赤系統の光である。それを利用しない手はない。つまり、夕焼けと葉っぱの色とは、密接な関係があるということだ。(ついでに言うと、夕焼けというのは図のスペクトルを逆さにしたものであるらしい)
 そしておそらく、赤のすぐ外側の赤外線も少しは利用しているに違いない。赤外線は熱線とも言われており、光合成という、温度が高めの方がいい化学反応にはもって来いなのである。
 これらを総合すると、植物が赤系統の光を利用し、そのためその補色である緑が目に映るというのは、至極当然のことなのである。

 …というようなことを、科学雑誌でも見たことがない。子供の「どうして葉っぱは緑色なの?」という質問に対し、「葉っぱには葉緑素という緑の色素があり、光合成を行なっているからです」なんてのは、答になっていない。もちろん光合成を説明することは大事なことであるが、根本的なところから考えないと、子供の素朴な疑問には答えたことにはならないのではないか。どなたか、ご意見戴きたいものだが。
 まあこれは葉っぱの色に限らず、何かの生理現象に対し、それを引き起こす化学物質をいくら特定しても、それが〈何ゆえ〉起きるのかの説明とはなり得ないのではないか。一生懸命研究している人には悪いのだが、特に生き物の場合、何らかの〈意思〉が働いているはずなのだから。

 さらに、葉っぱは赤い光を中心に利用することはわかったが、生き物が利用するのは別に可視光線だけとは限らない。波長が違うだけの同じ電磁波なのだから、X線あるいは電波を利用して成長する生き物がどこかの惑星にいても、何らおかしくはない。

 ついでながら、紫の「外側」に紫外線、赤の「外側」に赤外線、という言い方をしたが、それぞれ英語ではUltraviolet(UV),Infrared(IR)と、直訳すれば「紫を超えた」「赤より下の」となる。
 これは、日本語が可視光線という範囲の内側から見て表現しているのに対し、英語では波長の逆数である周波数の小さい所(極端に言うと周波数ゼロの原点)、上下逆であるが、図では上の方から見て表現しているからである。

 あと、なぜ重力はあるのか、なぜ光はあるのか、といったことも考えているが、こいつはなかなか難しい。
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松田聖子がいなかったら

2006-05-07 09:25:54 | エッセイ
 先日、松田聖子のコンサートの模様を深夜のテレビでやっていた(TBS系列,静岡では4月25日)。
 もう40過ぎだと思うが、フリフリの服を着て歌えるとこなんて、やはり聖子ちゃんはスゴい。いくつになっても女の子はかわいらしくあっていい、と世の女性陣に思わせるところ、彼女の功績と言っていいだろう。

 彼女がいなかったら、『青い珊瑚礁』も『白いパラソル』も『赤いスイートピー』も『ピンクのモーツァルト』も、そして『小麦色のマーメイド』も『瑠璃色も地球』も生まれなかっただろう。たとえ生まれていたとしても、同じ歌詞、同じメロディにはならなかったに違いない。歌はやはり、歌い手の雰囲気・音域・心意気に左右されるものだから。
 そしてまた思う。『瞳はダイアモンド』や『SWEET MEMORIES』を口ずさみながら、僕らはサントリー〈樹氷〉をあんなには飲まなかったろう、と。

 彼女がいなかったら、1980年代の歌謡シーンはまた違ったものになっていただろう。あるいは、別の女の子が同じような地位に付き、国民的アイドルになっていたのかもしれないが、それは聖子ちゃんの作り出した世界とはだいぶ異なったものになっていただろう。
 さらに、どういう女の子かは想像できないが、聖子ちゃん以上の別の国民的アイドルが存在していたのかもしれない(どこかで歌手になる夢を諦めてしまった…)。そのアイドルがいない世界を、僕らは生きているのかもしれない。まるでパラレルワールドの話みたいだが。

 どうしてこんなことを考えたのかというと、悲しいことであるが、子供が犠牲になる事件が目に付くからだ。将来の夢として「歌手になりたい」「ピアニストになりたい」なんてのを見ると、その子が本当に歌手になった世界があったのかもしれない、とも思う。国民的アイドルとまでは行かなくても、ファンを楽しませる歌手にはなれたのかも。あるいは、聞く人を感動させるようなピアニストにはなれたのかも。
 人を殺めてはいけない理由の一つが、ここにある。

 またこれは、何も芸能界に限らない。スポーツや科学、芸術の世界でも、同じことは言える。
 話が少し深刻になってしまいました。
 ともあれ、松田聖子のいる世界で良かった。聖子ちゃん、いつまでもお元気で。
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