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エッセイとショートショートと―あちこち話が飛びますが

「厳格な宇宙人」

2010-05-30 08:22:38 | ショートショート
 空に銀色の円盤。音もなく、ふわりと降り立った。その中から現れた、いわゆる宇宙人ふたり。白っぽいスーツに身を包み、肌の色がひとりは青色、小ぶりなもうひとりは黄色。青がオスで、黄がメスらしい。
 彼らの目にも同じように見えているのかは不明ながら、人間にあるような性同一性障害というのはなく、男なら男、女なら女とはっきりしているとのこと。そういう点で、自分たちの方が地球人より優れていることを誇っているようでもあった。ただ、色が鮮やかすぎて、女の方に魅力は感じられなかったが。
 全体的にほっそりして背が高く、目が大きく耳がとがっているほかは、口が1つ、手足も2本ずつと、基本的な外観は地球人とさほど変わりはなかった。このことで、生物学者あるいは哲学者たちは、生命体というものの普遍性について深く興味を覚え、大いに議論が持ち上がったものである。

 ともあれ、遠いアドフ星からやって来たという彼らが言うには(翻訳機みたいなものが胸の前にあって、それを介して意思を通じることができた。それでも、考え方というか概念が根本的に異なるせいか、かなり苦労したのだが)、銀河系内の知的生命体は、かなり前から連携を取り合い、友好的な付き合いをしているという。
 その中で主導的な役割を果たしているのが彼らアドフ星人であり、それは、他の惑星よりも高度な文明を持っていたからであった。地球に来るのが遅れたのは、太陽系が銀河系の端っこだったからとのこと。

 彼らアドフ星人のお相手を務めることになったのが、国連職員のこの僕。国際会議の事務局を長いことやっていることから、接待役を任された次第。お相手にふさわしいと思われるもっと偉い方々は、みんな尻込みしてしまい、大勢出る会議に参列するだけ。まあうまく行きそうになったらホイホイ出てきて、自分の手柄みたいな顔をするのに違いない。
 まあそれはそれとして、地球を視察に来た彼らと、まずは会議。彼らの目的は、地球人が連合に加わるにふさわしい生物かどうかを見極めることだという。ふさわしくなければ交易しないというだけで、特に罰則なんかはないらしい。僕ら地球人、連合のために生きているわけではないのだが、宇宙で〈村八分〉になるのもイヤなので、彼らの視察を受け入れることにした。

 金融街や繁華街、住宅街を見て回る。高度な宇宙人のことだ、隠し立てせずありのままに見てもらうのがいいだろう。ただ、行く先々で野次馬が多くて困った。予め警備体制は敷いていたものの、車が立ち往生することもしばしば。そりゃそうだろう、宇宙人なんてめったに見られるもんじゃない。
 それが終わると少し足を伸ばして地方へ。駆け足だったものの、ひと通りは理解できたように思う。移動に彼らの乗り物を使うことも考えたが、せっかく地球に来てもらったのだ、チャーター機を使ってもらった。彼らにとっては原始的であろうが。

 気になったのは、ツアーの途中、時々首をひねっていること(宇宙人も同じらしい)。尋ねてみると「あれは男か女か」と言う。目の前には髪の長い、レゲエ風の男。体も細く、優しい顔をしているが、やはり男だ。
 するとアドフ星人は言った。
「先ほども男か女かよくわからないのがいた。男なら〈男〉、女なら〈女〉と表示するべきだ」
 それは見た目でほとんどわかること、体は男でも心は女という人たちもいること、それにいわゆるプライバシーの問題だ、ということも縷々説明したが、彼らは頑として聞こうとはしない。
「理由は理解できたが、それでもひとりの人間である限りどちらかであるはずだ。選択は本人の自由でいいから、きちんと表示すること。でないと、言い寄る時に困るであろう」と来た。
 いくら自分たちの性別がはっきりしているからって…。仕方なく「検討します」と答えたが、そのうち全員、〈男〉や〈女〉の名札を付けることになるのだろうか。

 街を歩いている時、街路樹に興味を持ったようで、「何という植物か」と聞いてくる。ポプラだイチョウだと答えているうち、これまた名前を表示しろという。
 見りゃわかることだし、すべてに表示するのは大変な手間とコストがかかることを説明したが、やはり頑として聞かない。
「公園では名札付けているのもあるじゃないか。連合に加われば他の星からも客がやって来ることだし、分かるようにしておかないと」と言う。

 あと日本に寄った際、独自の文化を紹介したいってんで日本人がいろいろな焼き物をアドフ星人に見せたのはいいのだが、有田焼と九谷焼の区別が分かってもらえず、やはり〈有田焼〉などと表示するよう指示される始末。
 さらに有名な画家の絵を見せたはいいが、誰が描いたのか分からないので絵の中に〈Picasso〉や〈Gogh〉とデカデカと書くべし、と。やれやれ。
 そのほか「これは携帯電話なのかパソコンなのか」、「これは何の建物か」、「あれは何と言う山か、何と言う海か」、果ては「これは本物か贋物か」という質問まで。
 そのつど時間をかけて説明するのだが、最後はやはり「表示してください。でないとわからない」という返事。一体どれだけ表示すればいいのやら。

 そしてこれにも参ったのだが、スポーツにおけるユニフォームの胸のロゴ。
「あっちは〈unicef〉、そしてこっちは〈AIG〉というチームなのか」
「いやあれは、チームのスポンサーの名前でして、チームの名前ではありません」
「それではチーム名が〈unicef〉と勘違いされるではないか。チーム名を大きく表示すべきだ」
 ユニフォームの色なり、見る人が見ればわかることだし、広告のためのロゴなのだからそれは本末転倒だと、いくら口を酸っぱくして説明してもダメ。誰が見てもわかるように、バルセロナなら〈FC Barcelona〉、マンチェスターなら〈Manchester United〉とデカデカと表示すべし、と。

 かくして、地球のあちこちで無用の表示が氾濫し…

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考察(努力が必要な理由)

2010-05-23 07:46:03 | 女の子
 
 高校生向けの『テストの花道』という番組で、早稲田の教授が「恋愛と経済」についての模擬講義をやっていた。
 生徒に「自分は男として(女として)何点ですか」という質問をし、たとえば「30点」と答えた人に「付き合う異性も30点でいいですか」と聞くと、「それはイヤだ」と言う。
 だったらそれは相手も同じで、自分が30点ならせいぜい50点くらいの異性しか相手にしてくれない。自分を50点、70点、90点と高めることができたなら、それにつれて相手の質も上がっていく…。
 そりゃそうだろう。結局、30点の男には30点くらいの女が、80点の女には80点の男がくっ付くし、それが「お似合い」というもの。勉強なり運動なり芸術なり、努力して自分を磨けばそれだけの見返りはあるってこと。

 逆に何もしなけりゃ、何もしない相手しか見つからず、だんだんと落ちぶれていくことになる。言い方悪いけど、程度の低い人間にはやはり程度の低い人間しか寄ってこない。残念ながら、それが現実。
 幸いこの日本は、カースト制や奴隷制というものがなく、自分の努力次第でかなりのことができる。だから勉強しよう、努力しよう、ということになる。
 「世の中ね顔かお金かなのよ」という回文があるけれど、最後は品性とか人格だろうと思う。

 ところで自分はと言うと、60点くらいだと思っている。考えてみりゃ、その昔80点,90点クラスの女の子から相手にされなかったのも、当然と言えば当然か(今もそうだ)。
 この年になれば、好いたの惚れたのはもうほとんどないけれど、65点,70点を目指してはいるところ。

 ついでながら、これだけテレビやネットで、またはアニメでカッコいい男や素敵な女が拝めるようになった時代、お目が高くなってしまうのは当然のこと。家を守るため、あるいは親同士が結婚を決めた時代とは違い、婚姻率が低くなってしまうのも、熟年離婚が増えるのも、ある意味やむを得ないことだろうと思う。
 少子高齢化がますます進んでしまうのだが、もはや保育所待機どうのいう以前の話のような気もする。

 ところで少子高齢化だって、悪いことばかりでもない。一番いいことは、車が少なくなること。今の若い子たちは、クルマよりもケータイらしいし。
 国土交通省の試算によれば、あと20年もすれば今の交通量より2%以上減るという。交通量数%の減少で渋滞がなくなるらしいから、当然排気ガスは少なくなり、従って地球温暖化が緩和されるというわけ。
 いびつになると言われる人口ピラミッドだって、何十年かすれば、まともな形になるのではないかと思っている。長い目で見りゃいいのでは、と。

 …話がまた大きくなりました。ともかく、生きてる間は何かしら頑張るべし。
 (ただしひどく疲れている時は、ゆっくり休むこと)
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W杯あれこれ

2010-05-16 07:57:54 | サッカー
 
 1993年。都並がケガしてなければ〈ドーハの悲劇〉はなかったかもしれない。
 1998年。カズがメンバーに残っていれば、チームの士気はまた違っていただろう。
 2002年。決勝トーナメントに進んだことで気を抜かなければ、ベスト4くらい行けたかも。
 2006年。加地が直前のドイツ戦でシュバインシュタイガーに削られていなければ、初戦は落とさなかったように思う。

 スポーツに「たられば」は禁句であるが、今回も、イングランドのベッカムやルーニー、スペインのフェルナンドトーレスなど、ケガの情報が入ってきている。現実の世界では、どのチームも万全というのはありえない。だからどの国の代表にも、それぞれに「○○がいたら」という物語はあるのだろう。
 いずれにせよ、僕らは〈ドーハの悲劇〉や〈ジョホールバルの歓喜〉の存在した世界に住んでいる。この6月には、どういう世界が待っているのか。

 現実的には前回と同じく「2敗1分け」が妥当なところだが、何の根拠もなしに「やったー! カメルーンに勝った!」という感激のイメージを、先日から味わっているところ。僕のイメージだから僕の勝手なんだけど、同じようなイメージを選手や監督、サポーターが共有すれば、かなりの力になるだろうと思っている。
 あそうそう、どういうわけか、日本代表としてドイツなんかと戦う夢を見たりする。これまた僕の(脳の)勝手なのだが、結構いいプレーをしたりも。

 さて、あと26日。美しく勝つか、みっともなく負けるか。代表に小野も入れてほしかったが、優勝は、メッシのいるアルゼンチン、か。
 ところで体格の差もよく言われるところだが、メキシコ人やスペイン人も日本人とそう変わらないらしいから、戦い方参考にしているという話もある。
 まあ勝ったの負けたの、平和だからこそ楽しめること…。

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必要なのは想像力

2010-05-09 09:37:22 | エッセイ
 
 一度紹介したことがあるが、八幡俊という人の『自分を強くする本』を座右の書としている(46年前に発行されたもので、残念ながら今は絶版)。その中に、頭の働きのうち何が重要か、という箇所があって、記憶力・推理力・想像力、の順で重要になるのだという。記憶力に悩んでいた学生時代に読み、心強く思ったものだ。
 言われてみれば、記憶力やら推理力は、コンピュータでも難なく出来そうだけど、想像力となると、そう容易ではなかろう。そしてこれは、創造力にも繋がっていくのだと。

 で、ここからは卑近な話題になっていく。
 鳩山さん。自分の発した言葉で責められてはいるが、本人が一番苦しんでいるだろうと思う。為政者に好き勝手されたら困るんで、褒められることはないにせよ、普通だったら〈イジメ〉もいいところ。「しっかりせい!」という意味合いもあるんだろうけど。(しかし今の世の中、政治家はやりにくかろう)
 小沢さん。影の実力者ということでこれまた非難されているけれども、ひょっとしたら日本のことを真剣に考えているのかもしれないし、私生活ではとてもいいおじいちゃんなのかもしれない。
 さらには、もの凄く真面目なお笑い芸人がいたり、お調子者のエリートだっているかもしれない。沢尻エリカしかり、岡田監督しかり。
 …かように、世間で思われているイメージと逆のことを考えるというのは、アタマの柔軟性にはいいことだと思う。

 また、本社(中央)と支社(地方)とでも、同じことは言える。本社は「支社は好き勝手なことやってる」と思っているだろうし、支社は支社で「現場も知らないで勝手なこと言っている」と思っているだろうが、逆の立場になれば、そうとばかりも言えないことがわかるはず。
 あるいは、イヤな上司だって、家に帰れば子煩悩なお父さんなのかもしれない。

 週刊誌をはじめとするマスコミ。見てもらえない、読んでもらえない、じゃあ商売にならないから、ある程度センセーショナルにするのは当然といえば当然。NHKより民放の方がその傾向が強いのも頷ける話(同じスポーツ中継でも、NHKの方が淡々としている)。いかな大新聞だって、売れなきゃしょうがないんだし。
 どうでもいいことを大きく取り上げるのも、仕方のないこと。だから、マスコミから距離を置くほど精神的に強くなれるものらしい。(確かこれも『自分を強くする本』に書いてあった)

 まあ想像力だから事実とは違っているかもしれないが、それはそれで人間の特質として、創造力・発想力と併せて充分活用するのがいいのだろう。
 ただ、不安や恐怖といったネガティブな思いを倍増させてしまうこともあるので、使い方には一定の注意も必要。
 たとえば44年前、ビートルズが来日した時、世の大人たちは「不良の親玉が来る!」とでもいったイメージを持ってたらしい(今考えるとバカバカしいくらい)。

 さて、あなたのそばにいる人は、あなたの持っているイメージとはまた全然違う人なのかもしれない。「え、昔そんなに凄かったの?」とか「いや実は立派な血筋だった」なんてことは、よくある話。(僕がこんな文章書いていることなんて、おそらく誰も知らないはず)
 そもそも、いくら親しいからって、その人のことを100%理解することは不可能。知らない側面もあった方が、面白いに違いない。
 

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もしもコーヒーがなかったら

2010-05-02 09:54:01 | エッセイ
 
 正確に言うと、一部は生き残って鳥に進化したらしいが、6500万年前の恐竜の絶滅の原因は、やはり今のメキシコ・ユカタン半島に落ちた小惑星だったということだ。
 4月20日の朝日新聞・科学面によれば、分かっているだけでもこれまでに5回、生物絶滅の危機があったそうだ。

 その記事でも動物のことしか取り上げられていなかったが、植物、たとえばコーヒーの木やカカオの木が絶滅していたら、僕らはコーヒーもチョコレートも味わうことはできなかった。いやあるいは、別の嗜好品があり得たのかもしれないが。
 たとえばトマトがなければ、イタリア料理はまったく違ったものになっていただろうし、ワサビがなければお刺身の味わいも半減しただろう。ネギがなければ熱さましに苦労しただろうし、アオカビがなければ抗生物質の発見は遅れたことだろう。
 いや、ひょっとしたら人間の味覚や感覚自体、今とはだいぶ異なったものになっていたかも。

 さらに言うと、地球という星にもし石炭や石油がなければ、文明の発展というのは著しく遅れていたに違いない。宇宙へ進出するのも、かなりあとになっていたかも。石油のない地球だって可能性としてあっただろうに、これは実に幸運なことである。僕ら人類のために、誰か/何かが仕組んでくれたようにも思える。(いや、石炭や石油なんかなかった方が、人類は幸せだったかも)
 ただそもそも、地球の歴史において、仮にそれだけの変更があったなら、僕もそしてあなたも存在しなかっただろうし、こういう文書が書かれ、読まれることもなかったろう。不思議と言えば不思議。(いやいや、また別の“僕”が同じようなことを書き、そしてまた別の“あなた”が読んでいるの、かも)

 …大型連休の穏やかな午後、コーヒー飲みながらこんなことを考えていました。
 そうそう、スーパーで買う粉のコーヒー豆より、専門店で挽いてもらったものの方がウマいんで、知り合いの店に頼んで送ってもらっているところ。
 

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