Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗

モダンジャズ、ボーカルを流しています。営業日水木金土祝の13時〜19時
横浜市中区麦田町1-5

カザルスとの対話

2012-08-10 16:21:09 | 
今年の夏は梅雨明けの10日くらいが猛暑だったのだろう?休みの日は居間の横にある小部屋が避暑地になっている。日向薬師の参道に面して竹林があって、その隙間からここ数日、北東からの乾いた微風が高窓を通してそよそよと吹き込んでくる。夏に翳りが出始めていると思う瞬間だ。今朝は熱い煎茶を飲んでみたい気分になって朝食の冷麦・トマトサラダの後は鹿児島は知覧産の煎茶を南蛮手の急須に入れて呑んでみた。煎茶を体が欲しがるのもやはり秋の兆しなのかもしれない。

パブロ・カザルスといえばいわずと知れた20世紀を代表する最高のチェロ奏者だ。そのカザルスに秘書的に仕えていたホセ・マリア・コレドールが纏め上げたカザルスの回顧記が「カザルスとの対話」(白水社1962年刊 増補再版)で1950年代前半にこの本は発行されたらしい。旧盆にあたる来週は勤務先が一斉の休暇になる。24時間おきに当直仕事をするわけだが、その隙間に読む候補をこれに決める。この本はカザルスの本職話(音楽家自伝)は無論のこと、無類のユマニストだったカザルスが戦争や圧制・暴力のはびこる20世紀を音楽表現によってどのように処したかを豊かに証言した歴史書としても読めるから面白い。加えてピレネ山脈沿いのスペインの風光地誌も官能に溢れた述懐が感得できるという一挙両得が含まれている。

拾い読みをしていたら、後半のページでカザルスがオーディオについての面白い発言をしている箇所があった(257P)
この対話の時期は多分、戦後の10年以内だったのだろう?秘書のコレドールがレコードにパッケージされたカザルスの演奏を先生はどのように聴いているのか?と水を向けている。これはちょうどSPからLPへの移行時期と重なっていたと思われる発言だ。

カザルスの答えは「いや いつもではない。ときどきこれは私の音ではない、と思う。
私の考えでは、機械を通すことによって、芸術家の演奏の精気が失われるのだと思う。
そしてそうなることはどうにも致し方がないのかもしれない。」

これに対して秘書は「けれど録音技術の進歩は驚くべきものがあります。」とジャブを放つ。

これにも「そう考えるのは自由だが、私は三、四十年前の録音のほうがまだ好きだ。
音色の輝かしさは少ないが、もっと忠実だ。私が1937年から39年にかけて、一年以上も準備してから吹き込んだバッハの組曲のレコードが与えてくれるようなものを、長時間レコードで聴きたいものだね。ゆるい楽章が機械化によっていっそうよくなったか、また機械を通したパッセージが演奏者の活力と個性の特徴をさらに生かしているか、などが見られて興味深いだろう」

さらに「一般に録音された作品を聞くとき、私はレコードの回転を速くする方が好きだ。私のバッハの組曲の録音では、一音も一音半も高くして聞く必要を覚える。」とも付け加えている。

じつに興味深い会話で生音とオーディオ再生の超えられない溝についての経験と叡智に裏づけられた発言だ。この端的な会話以上にはその後、さらに60年を経た現在も、この問題の呪縛からは解放されていないことを痛感せざるをえない。そう思いながら、モノラルLP時代それも10インチ時代にカザルスに嘆かれている対象の一つでもあるベートーベンのイ長調ソナタにしばし耳を傾けてみることにした。








忘れもの

2011-06-23 13:03:58 | 
30歳くらいの働きざかりに結核で夭折してしまった八木重吉
という詩人がいる。昭和2年に神奈川の茅ヶ崎で亡くなった人
だ。この詩人については若い頃読んだ筑摩書房版の「現代日本
文学全集」の「現代詩集」の中に納められた彼の詩が心の渇
きを癒してくれて小品の叙情画をみるような思いで、時々読む
ことにしている。病苦のせいで死というものが常に横で控えて
いる為、八木重吉はキリスト教への信仰を反映したような作品
も多い。これ以上は素直になれないというシンプルな詩句を、
誰にでも染み透るような短いフレーズとして彫啄する業が八木
重吉の持ち味でこの辺が難渋なる形式主義の迷路に陥った現代
詩の世界で彼の詩が時を越えて残る理由ではなかろうか?
数ヶ月前に横浜の伊勢佐木町界隈には、昔風の古本屋が何件か
あって冷やかし歩きをしていた。そのとき路地裏で映画の古い
パンフなどをマニアックに売っている古本屋に寄った。
この店の空気は神保町や横浜の古書店とも空気が違う。強いて
いえば下北沢やその隣の池の上、三軒茶屋付近に散見する差異
を志向するレトロモダンな新型古本屋と共通する古書店である。
ここの均一本の棚で見つけたのが、写真の二巻本である。
若い店主の見切りをつけた値段が各100円、ブックオフなら
箱は堅牢でも本文の色焼け、退色具合からして引き取ることも
多分しない書物だろう。八木重吉のオリジナル詩集でもなく、
ただの再版全集だ。しかしこれは収穫だ。早めに目が醒めた時
などの寝床本にはぴったりな言葉の雫(しずく)集である。
しかしこれを帰りに友人の車に置き忘れてしまった。
ちょうど昨晩横浜の海浜部であったトランペットの金井豊さん
のデュオライブがあった。そこへこの忘れものを届けてくれて
ようやく八木重吉の有り難味を味わう朝のひとときを迎える
ことができた。

水や草はいい方方である       八木重吉

はつ夏の
さむいひかげに田圃がある
そのまはりに
ちさい ながれがある
草が 木のそばにはえている
みいんな いいかたがたばかりだ
わたしみたいなものは
顔がなくなるようなきがした


春よこい

2011-02-20 15:16:22 | 
曇った空が続く一日。引き篭ってお茶を飲んだり、本をめくる昼下がり。
昨日、伊勢佐木町の場末を散歩して見つけた「日本の名山別巻2 高尾山」(博品社)200円。
少し前まで600円をつけていたらしいが、店主が気弱になって値を下げた鉛筆の形跡がある。

作っておいた金柑のシロップ煮を茶請けに南蛮手の急須で煎茶を楽しむ。

明治から現代に及ぶ著名人が東京の至近的楽園、高尾山について書いたアンソロジー、気まぐれに飛ばし読みできるから気分も楽である。
澤聡さん?が書いた「南高尾山陵の四季」という短文に滋味を感じる。
沢野ひとしさん、みなみらんぼうさんなどの文章も「安・近・短」な話がカジュアルでお洒落である。
春はまだまだという空気に浸りながら、西山峠付近の春先に咲くという「シュンラン」「エビネ」「ニリンソウ」「スミレ」などの群生する模様をぜひとも拝みたいものである。