こまんたれぶ~下福田小学校

当時の同級生との交流場所
(ここ数年は模型三昧)

キックの鬼

2008-01-18 16:06:02 | Weblog
立ち技系は、ここで一度終了しますね。
最後は最も好きなキックボクシングの事を書きます。

昭和40年代、日本で生まれたオリジナル格闘技
キックボクシングは空前の人気を博しました。

信じられない事に、キック中継は4つのTV局で放映されていたそうです。
帝王・沢村忠が所属していた日本キックボクシング連盟はTBS(6CH)でした。
(4つの団体が、それぞれのTV局で試合を放映をしていたと言う事です)

早々に解散した団体もあり、淘汰され残ったのが
沢村を要する日本系、藤原の居た全日本系です。

沢村の居た目黒ジムは練習生が500名を越えていたと聞くし、
彼が練習していると付近の道路が交通渋滞を起こしていたそうです。
(目黒ジムは雅叙園の近くにあります。現在は名称を藤本ジムに変えてます)

極真空手も早くから極真ジムを立ち上げ、山崎照朝、添野義二らが
キックのリングで闘っています。(この連盟のTV放映は短期間で終了したと思う)

変わった所では、”ホタテマン”安岡力也氏もリングに上がってます。

日本と全日本、沢村と藤原が居たからかも知れないけど、
最も層が厚く充実していたのはライト級だったと思う。
(前後のフェザー、ウエルター級にも凄い選手が大勢いました)

日本系には、富山勝治、伊原信一、亀谷長保、樫尾茂、飛馬拳二、稲毛忠治・・・ 
沢村は日本人とは2回対決した以外、怪しげなタイ人との試合が多かったのも事実だけど、
キックを人気スポーツにする為に毎週リングに上がらざるを得なかった事を考えると、
ある意味、納得の結果だと思う。
(なにしろ公式で241試合、本人談では500試合を超えてるそうな)

中にはガチの凄い試合があって、これを見ると沢村の強さが半端じゃない事が良く判る。
パンチは上手くなかったし、ガードも甘い印象を受けるが、ローキックの破壊力は驚異的だよ。
ライト級の蹴りとは思えない位、凄まじい威力だ。
そして沢村自身はローキックで倒された事が一度も無い。
コーラ瓶で彼の脛を叩くと、瓶の方が割れたエピソードが残ってる。

前述の様に、人気を牽引して行く使命を持つが故、派手な技を駆使していた為に
沢村の本当の強さが見え難いのは間違いないと思う。

どこが真空なのかは不明だが、体力を消耗した試合後半に、
あれだけの跳躍技(真空飛び膝蹴り)を連発出来るスタミナは尋常じゃない。
助走なしで垂直に飛び上がり、落下の重量+捻りを加えた飛び膝は芸術でした。
スターとして輝き続ける事を義務として背負った事で、
良くも悪くも、キック=沢村になってしまったのは残念です。

全日本系には、島三雄、岡尾国光、鈴木勝幸、長江国政、玉城良光、越川豊・・・
国際戦の相手も現役ムエタイの王者やランカーが多く、
特に藤原敏男の対戦相手は物凄い選手ばかりでした。

チャランポン・ソータイ、シリモンコン・ルークシリパット、ジャイディ・ピサヌラチャン、
モンサワン・ルークチェンマイ、シープレー・ギャティソンポップとの激闘は伝説的な試合です。
(幾つかは今でも映像を見る事が出来ると思います)

500年の伝統を持つムエタイのベルトを最初に海外へ流失させ、
ラジャダムナン、ルンピニーの両スタジアムで試合をし、
タイの国賓に認定される程、実力を評価された選手です。

沢村の日本系か藤原の全日本系、どちらが強かった?

そんな疑問に答えるが如く、両団体の交流戦は確か2回程行われています。

看板選手の沢村を温存した日本系に対し、藤原を筆頭に全力勝負した全日本系でしたが、
全ての結果を総合すると日本系の圧勝で幕を閉じています。
(藤原は勝ったけど、島は亀谷に負けている)

この時期、日本のキック界は間違いなくタイのランカーと五分に戦っていたのです。

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1 コメント

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Unknown (宮本博史)
2022-02-06 17:32:47
亀谷長保さん。キックの大先輩でガッツある選手でした。アメリカに行ってまだ帰国してなくアメリカ移住されるのかな?と思います
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