清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

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壁にぶつかって(日晨上人 ある角度より)

2015年03月21日 | 常住寺のご信者さんへ

【本文拝見】(3月22日 常住寺の門祖会・春季彼岸会総回向の中でも拝見しました。)

「生死の二法は一心の妙用」という言葉があります。生死とは何か、一心とは、妙用とは何かと一つ一つ深く詮索すると人生の一大事を説いたものなので解明がちょっとむずかしくなりますから、ここでは一般向きに説明しますと、万事、生かすも殺すも、人聞の心の働かせ方いかんによるということです。少々こみいった問題になると、すぐ悲観的な見方をして、駄目だというだけで、何んとかその中から妙案は生まれぬものかと努めないで、投げだすことしかいわぬ人がよくあります。

ところが、物事は窮すれば通ずる活路が必ずあるもので、あきらめずにその活路を見出す手段をこうずれば、不可能に見えたことも可能に変わるから、希望的な考え方を放棄してはならぬと教えた言葉です。
しかし、実際問題になると、どうにもならぬことはたくさんあります。また甲にはできても乙には出来ないこともあります。独力では駄目でも、他の協力でできることもあるし、短時間では出来ないが時間をかければ可能なこともあります。ですから、自分のカの限界を忘れて、何んでも可能というのは、あやまりだと思いますが、だから駄目というのもあやまりで、協力者如何によっては、可能と考えるのが人生観として大事だと思います。

法律相談所の仕事をしている先生の話ですが、相談所へ相談に来る前に二年も三年も思い悩んでいたことが 一ぺんに埒があいて有難いという人がときどきあるそうです。つまり、自分では活路が見出せなかったのが、専門家に教えられたら、すぐわかったということで、商売上のことも、病気などについても、そういうことがあるはずですから、悲観的になるのは、どうかと思います。多くの人は教えも乞わず、ちょっと考えて、あるいはやってみて、うまく行かぬと、すぐ、駄目だというのです。生かすも殺すも心の働きによるということを、モッと考えて貰わねばなりません。

中には、凡夫だから、素質がないから、学校を出ていないからと、自分を見くびる考え方ばかりする自虐性に富んだ人もあります。事実、人間の心を深くみつめれば、煩悩充満の荒凡夫であることは間違いはありませんが、また反面には、仏に近い聖い心もあるのです。ですから、宗教上の達人は、みなロをそろえて人間は悪人だと指摘しますが、だから駄目だとはいいません。好い気になって独走するのは、危険だと警告して、善道に心をむけさせようとなさるのです。悪人としての自覚のないものに、人生の活路を説いた教えを善聴するものはないからです。従って各自の知恵とか力量とかが、あるところで限定されていることを知ることはよいことですが、では、それ以上は駄目と考えることは間違っています。けわしい人生行路ではあっても、必ず活路ありという信念を失ってはなりません。

生死の二法の、生は始め、死は終りです。朝起きたときは一日の初めで、夜寝るときは、一日の終り、旅行に出発したときは生で、帰宅したときは死です。仕事にも勉強にも部分的な生死もあれば、総合的な生死もあります。 そして、成功者も不成功者も、若人も老人も臨終で、万事の終りとなります。

仏立開導日扇聖人のご教歌に
「生きているつもりの中のけふにでも しぬにうらみのなきつもりせよ」と仰せられてありますが、生に対する見つもりをたて、いろいろ考える人はいても、万事の終りと思う死に対しては、つもりをたてる人は少ない。それからさきどうなるかわからぬことには手がでないのでしょう。気のきいた人は死後のことをアレコレ心配する人はあっても、自分の死そのもののツモリを考える人はない 。死を生かす術がわからないからでしょう。ところが信心の世界では、その死の生かし方を考えるのです。それを一心の妙用といわれたのです。そういう不可思議な働きが人間の心にはあると教えたのが、妙法の信心です。死は永遠の終りでなく、次の生への出発と観ずるのです。信によって、そういう考え方を養成し確立し、あらうれしやうれしやと唱え死をすべく努力するのが、私どもの信心です。その信心を得たときに、生きているつもりの仕方までがよく転換できることは申すまでもありません。


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