雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

75年前の今日 東京下町大空襲

2020-03-10 22:09:35 | 語り継ぐ戦争の証言

 75年前の今日 東京下町大空襲

 

1945年(昭和20年)3月9日の夕刻、
マリアナの米軍基地を飛び立ったB29爆撃機は、
3月10日午前0時8分東京上空に現れました。

その数334機。

500ポンド(225㌕)の焼夷弾24個を搭載したB29爆撃機が
低空飛行で東京の街を襲いました。

 この無差別爆撃は、たった2時間で終了しました。
ご承知のように、東京の街は阿鼻叫喚
の地獄となったことを、
私たちは映画や文学
作品、絵画等で知ることができます

たった2時間ですよ。
空を覆うような334機の重爆撃機B29が、東京の下町を襲いました。
竹ヤリで敵兵を倒す訓練が何の役にも立たなかったことを、
隣組同士が協力して消火のためのバケツリレーを繰り返し
日本人としての結束を高め、
戦意高揚を計る消火活動も何の役にも立たなかったことを人々は知らされた。

逃げ場を失い、公園の空地に被災者が集まる。
焼け焦げ息もできないほどの猛火につつまれ、
多くの人が川へ向かって避難した。
避難路は逃げる人々で溢れ、その背中に猛火が襲いかかり、
業火につつまれ、あらゆるものを焼き尽くし、
火の通り道になった。
公園も川も空地も行き場を失った獣のように猛進する炎で充満し、
多くの人々が焼死した。
 
 3月10日の東京大空襲の被害が具体的にどのくらいのものだったのか
数字で示してみましょう。
 
一つでも多くの焼夷弾を積み込むために

4基の機関銃をすべて取り外してあったそうです。
その上、空中衝突を避けるために、
編隊を組まずに高度8500㍍以下の低空飛行で東京上空に現れたといわれています。
空襲の犠牲者は、
死者83,793名
負傷者40,918名
傷者合計124,711名
戦災家屋268,000戸。
   小さな地方の市が一つ消えてなくなってもまだ足りないぐらいの大きな被害です。
   3月10日は陸軍記念日で、334機のB29はまさにこの日を狙い、首都東京を襲ったのです。
   この時落とされた「焼夷弾」は、
 
 親爆弾に子爆弾19発が2段に、計38発が組込まれ、空中で分解して落下する。
    1機のB―29が1520発の子爆弾を投下した。爆発の威力は少ないが、燃焼力があり、水では消化できない。

   この時使用された爆弾は「M69焼夷弾」といわれる爆弾で、
  紙と木で出来た日本の家屋を効率よく燃焼させるにはどんな爆弾が良いのか。
  こうして「消えない火災」を引き起こすように兵器研究者が作りあげたのが「M69焼夷弾」でした。
  B29爆撃機から投下されたM69焼夷弾は上空約700㍍で分解し、屋根を突き破り中に落下する。
  爆弾一つひとつの爆発力は小さいが、散らばった無数の子爆弾が室内で爆発する。
  きわめて高温で燃えるゼリー状のガソリンを入れた爆弾の炸裂です。
  火の付いた油脂が壁や床にへばりついて燃え、水をかけても消えにくかったといいます。

  投下にあたっては、単に首都東京というだけでなく、
  住宅密集地や商業地などなるべくたくさんの被害を与えるような場所で、
  庶民に最も多くの壊滅的な被害を与えられるような場所が選ばれたようです。
  しかも、爆弾の数が少なければ消火され、被害の拡大が望めなくなるから、
  B29 334機の大編隊の攻撃が必要だったのです。

  つまり、無差別爆弾攻撃は目標を灰燼に帰し、
  壊滅的な打撃を与えるための練り尽くされた作戦だったのです。
  戦勝国としての傲慢さが今でも拭うことができない最近のアメリカです。 

  制空権を喪った国の当然と言えば当然の結果だったのではないでしょうか。
  冷静に戦局を判断する理性を欠いた軍部の考えは、
  「本土決戦」。本気で考えていたのでしょうか。。


 無差別に投下された焼夷弾はあまりにも非人道的ということで、
   1983年、「特定通常兵器使用禁止制限条約」により使用禁止されました。

   こんな爆弾を作り非戦闘員を無差別に攻撃し、
   核爆弾を広島、長崎に落とした非人道的行為について、
   その責任有無について、何ら問われていないのは、
   戦勝国とは言えおかしな話です。

 東京下町大空襲を体験した庶民の声の聞き書き掲載します。
   …熱くて川に大勢の人が飛び込んで死にました。炎がものすごく、水面をはうようにきたので、ほとんどの人は炎
   にあぶられて死んだそうです。消防車はひっくり返って焼けていたり、馬がところどころに死んでいたそうで
   す。(父や祖父母の話)

   …ほとんどの川には、死んだ人が重なるように浮かんでいたそうです。(名前の分からない)人は大きな穴をほって
   みんないっしょにうめられたそうです。…(お母さんは)戦争とは幸福をうばうもの、戦争とはしてはならない、
   やってはいけないものといっていました。(お母さんの話)

   爆げきのしかたは、さいしょにまわりから爆げきし、それから、なかをじゅうたん爆げきした。…そのために、人
   びとはにげ場をうしない、十万人ぐらいの人がなくなった。(父の話)

            …「もうすぎてしまったことはしょうがない」と、一言いってしまえばそれまでだ。でもそれでは「どろ人形」
   (焼死体)になった人たちはどうなるか。戦争はおたがいの国が、自分の方だけをよくすることばかり考え、相手の
   ことなど考えないから起こるのだと思う。(父から聞いた話に小学生の少女が考えた)

   …戦争なんてなんていやなことです。人と人とがいがみあい、ころしあう。…同じ地球の人間なんだから、みんな
   で手をつなぎあっていかなくてはなりません。
   世界を一つにする日も、もうすぐ、そこにきているのかもしれません。(小学男子)
                     掲載した手記は「新版 町は火の海 父・母から聞いた戦争体験記」
                     あゆみ出版 1985年3月刊 編者・東京都教職員組合江東支部による
                     ものです。

           あれから75年が過ぎました。
   私たちは、「世界を一つにする日」を作ることができたでしようか。
   「否」と即答できるほどに現実世界は、
   一発触発の危険と不安に満ちた世界であることに私は忸怩(じくじ)たる思いに己の
   無力さを嘆かざるを得ない。

   今日は、大切な一日です。
   忘れてはならない、「東京下町大空襲」を、新型コロナウイルスに陰にかくれ
   メディアにも関心の薄い75年前の悲しいできごとですが、そう遠くない時間の
   中で先人が体験したことを決して忘れてはいけないと思うのです。

            文中色字でしめしたものは、拙ブログ2018.8.22付、
            「墜ちたB29米兵を助けた日本人 」① 東京大空襲の夜 冒頭から引用

   (語り継ぐ戦争の証言№24)     (2020.3.10記)

   
 


 

 

 

 


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