姉の認知症
姉の認知症に気づいたのは10年以上も前のこと。
ご主人(義兄)と二人暮らしの姉。訪れた玄関には宅配の弁当が二つ。
「んっ?」。料理が得意の姉がなぜ宅配の弁当をと、私は不思議に思う。
遠方から訪ねた私に、お茶を淹れようとする。だがどこかぎこちがない。
急須から出てきたものは白湯だった。
「ぼくがお茶入れるから、○○は座っていていいよ」
「あら、そうですか。すいません、お父さんお願いします」
私が姉の認知症に気づいた出来事でした。
それから2~3年たち、症状はどんどん進んで行った。
「財布が盗まれた」とパトカーを読んでしまう。
徘徊も始まり、泥だらけになって帰ってくる。
暴力的な行為も増えた。
でも、ご主人は姉を施設には入れたくないと姉を支えて頑張った。
もう、とっくに老老介護の限界を超えていた。
「〇〇さん(私のこと)、人間はあまりに長生きしてはいけなんだ。
生きてるだけで誰かに迷惑をかけてしまうから」。
哀しい述懐である。
義兄の母は
103歳まで生きた。気丈で死ぬまで毒舌は止まなかった。
その姑に姉は嫁としてよく仕えた。
姑が亡くなって、ほっと一息。
「お父さん、これから二人でゆっくりしようね」
夫婦に安らぎが訪れた。
しかし、ホッとしたのか間もなく姉は認知症を発症した。
嫁いだ娘の介助にも限界があり、施設入所をみんなで話し合った。
自分の妻の面倒を見ることに意地を張れば、娘たちにも迷惑をかける。
同時に介護の限界も感じた義兄は、渋々入所を承諾し、
自分の妻の面倒を見られなくなった自分が情けないと、目を潤ませた。
義兄はバスを乗り継ぎ、妻のホームへの訪問を欠かさなかった。
それから数年が過ぎ、義兄に癌が発見された。
末期がん。余命を宣告された。
だが、気丈な義兄は、体調のいい時には妻のいるホームを見舞っていた。
余命を生き抜き、文字どおり眠るように、
嫁いだ娘ふたりに看取られて、
妻と二人の思い出の残る自宅での静かな旅立ちだった。
私たち夫婦が見舞った翌朝のことだった。
家族葬が営まれ、
故人を送るのに、とても穏やかな野辺送りになった。
一時間半、高速道路を走って、今ではもう私の名前さえ忘れてしまった姉を見舞う。
娘たちの名前さえ記憶のかなたに埋もれてしまったのに、
「お父さんはどうしたのかね。このごろ全然来ないのよ」と何度もつぶやく姉は
今年、87歳になった。
コロナ禍のもと、面会禁止になっているホームで姉は今日も
「私のお父さん、どこへいったのかねぇ。お父さんはのんきだからねぇ」と、
一人呟いているのだろうか。
(2020.12.10) (つれづれに……心もよう№110)