真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号 ①太平洋戦争の始まり
真珠湾攻撃について
開戦82年目の12月8日 あの日を振り返ってみよう。
1941年12月8日(現地時間7日)、日本海軍の航空機約350機と、空母六隻とからな
る機動部隊が、ハワイ・真珠湾にある米軍基地を奇襲攻撃した。米国は艦船6隻が
沈没するなどの損害を受け、約2400人が死亡。攻撃直前には日本陸軍もイギリス領
マレー半島へ上陸し、太平洋戦争が始まった。ただ、米国への最後通牒が攻撃の一
時間後に届けられたために、「宣戦布告なき戦争」として、後々まで批判された。
この奇襲作戦には、二人乗りの特殊潜航艇五艇が参加していたことはあまり知ら
れていない。
五艇の特殊潜航艇のうち、作戦通り湾内に侵入できたのは二艇、できなかったの
は二艇で、いずれも米軍の哨戒艇による爆撃で撃沈されている。ただ一艇、酒巻和
男少尉の乗った特殊潜航艇は艇の故障や米軍の爆雷の攻撃によって、湾外の砂浜に漂
着し、この奇襲攻撃で、太平洋戦争捕虜第一号となった。操縦員の稲垣 清二等兵曹は
行方不明になり、後に戦死したことが判明する。
酒巻和男氏は戦後日本に戻り手記を発表。また、我が国の経済活動に活躍の場を求
め、経済人としての功績を残した人でもあった。開戦の日に不幸にも捕虜第一号とな
ってしまった酒巻和男氏の悔恨の青春と、その後の人生を、酒巻氏の手記を参考に紹
介します。
太平洋戦争の始まり
1941(昭和16)年12月1日、午前会議において対米宣戦布告が決議され、
翌日(開戦7日前)機動部隊に「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号文が打電されます。
日本時間12月8日午前1時30分、
機動部隊から第一波攻撃隊として183機、午前2時45分には第二波攻撃として171機が発進。
第一波攻撃隊から起動艦隊に向けて「トラ・トラ・トラ」の暗号文が打電された。
「ワレ奇襲ニ成功セリ」。
日本側の空母6隻は無傷で帰艦。
損害は飛行機29機、戦死64名でした。
対する米国の損害戦艦4隻沈没、他4隻に大きな損傷を与えた。
戦死2345名。日本側の圧倒的勝利でした。
太平洋戦争(大東亜戦争)のはじまりです。
ただ、日本国から米国への最後通牒が攻撃の一時間後に届けられたために、
奇襲攻撃と称されるように、
「宣戦布告なき戦争」として後々まで批判されることになった。
エピソード
開戦日の朝の記憶は鮮明に胸に残っている。
1941年12月8日、中学2年生だった作家の吉村昭は
学校に行く途中、軍艦マーチの猛々しい音と共に、
大本営発表を伝えるラジオのニュースを耳にした。
「町全体が沸き立っているような感じであった」。
開戦の2日後、中国で戦死していた兄の遺骨が贈ら
れてきた。
ハワイでの戦果に「狂喜」する近所の目を気にし
て、家族は雨戸を閉めた。母親は発狂せんばかりに
激しく泣いたという。(吉村昭『白い道』)
(朝日新聞2023.12.8 天声人語から引用)
航空母艦の艦載機による、奇襲攻撃は前述のように華々しい戦果を挙げた。
しかし、この手記の酒巻和男が乗った「特殊潜航艇・甲標的」のことはあまり知られていない。
特殊潜航艇とはどのような潜航艇だったのでしょう。
(つづく)
(語り継ぐ戦争の証言№34)
参考文献 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号 酒巻和男の手記
朝日新聞2023.12.08 太平洋戦争開戦82年他
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