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雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑩さらなる試練

2023-09-07 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑩さらなる試練

  太平洋戦争の末期、
 
本土の長崎港に向けて出港した学童疎開船・対馬丸は、
 吐噶喇列島の一つ、悪石島沖で米潜水艦・ボウフィン号の魚雷攻撃によって沈没した。

 対馬丸は沖縄から出向した最初の学童疎開船だった。
このことが公になってしまうと、
10万人の非戦闘員の疎開に支障をきたしてしまう。
もう一つ、この学童疎開船には別の目的がありました。

 前述したが、『本土防衛の要となる沖縄決戦』を敢行するために、
人口40万の沖縄に、各地の戦地から10万人の兵士たちが、
続々と沖縄に上陸してきました。
その食料調達には足手まどいになる児童を含む非戦闘員の本土輸送だったのだ。

 最初の学童疎開船対馬丸が撃沈されたことが島民に知れると、
輸送作戦に支障をきたすことを危惧し、
沈没の事実は『箝口令』によって、長い間隠されていました。

箝口令
 見たことは誰にも言うな
 聞いたことは胸にしまっておけ
 絶対に誰にも言うな

 おおよそ280名の人が助かりました。
このうち学童は59名という記録もあり、正確な人数は分かりません。
海の藻屑と消えた人たちの悲劇もさることながら、
助かった280名の人全員にさらなる試練が待ち受けていました。
友達を失い、親を失い、茫然自失の遭難者たちを追い詰めたのは、
箝口令でした。

「対馬丸のことは誰にも言うな」。
苦しく、辛い体験は人に話すことによって、和らいでいきます。
心のしこりを言えない辛さを抱かえ、
戦後沖縄に帰ってきた児童たちは、
対馬丸沈没の事実を親にも語ることはなかったという証言がある。
戦後のある時期を、
「箝口令」の呪縛に縛られたまま生きてきた生存者の苦しみはいかばかりだったでしょう。

  中学三年の夏休み、中野さんは祖父から対馬丸の話を聞いた。
その祖父の体験談。

 船から投げ出され、おぼれて顔をゆがめる人、人、人。沈み始めた船の底のほうから、悲鳴と船体のきしむ音が重なるように湧き上がってきた。
 海に飛び込んだ祖父はいかだで約三日間漂流。海軍の船に救助されたが、乗っていた人たちを救えなかった後悔にさいなまれた。
 事件後、沈没について話したら死刑だと憲兵から脅され、口を閉ざす。
 対馬丸の三十三回忌の慰霊祭に参加したとき、多くの人が体験を語っていることを知り、ようやく自らも語り始めた。(2023.8.22朝日新聞記事)

 中野さんの祖父が「箝口令」の呪縛から解かれ、体験談を人に語れるようになってから、33年の苦しい月日があったのだ。
那覇市にある対馬丸記念館によれば判明しているだけで、
 1778人が乗船、1484人の犠牲者を出し、そのうち学童784人がなくなった。
 当時、軍や警察によって箝口令が敷かれ、そのため被害の全容はわかっていない。 
    おおよそ280名の人が助かりました。
 このうち学童は59名という記録もあります。実に生存率6%でした。

  疎開先から来るはずの手紙が来ないことなどから、
  たちまち対馬丸の沈没は島民の知るところとなった。
  このため一時は疎開に対する反発があったが、
  1944(昭和19)年10月10日の那覇市への空襲があってからは疎開者が相次いだ。
  厚生省の調査では、
  1945(昭和20)年3月までの沖縄から187隻の疎開船のうち犠牲者を出したのは対馬丸が唯一の
  事例だ。(ウイキペディア)

   疎開した民間人の多くは疎開先の九州、鹿児島県や熊本県、宮崎県や台湾で終戦を迎えて
  いる。1950(昭和25)年10月、遺族会が発足し、
  当時占領下の沖縄で、対馬丸事件の悲劇を伝え始めた。
  1953(昭和28)年、「
小桜之塔」が建立された。
   
              碑文
               
昭和十九年八月二十二日夜半 学童疎開
                  船対馬丸は 米潜水艦の魚雷攻撃を受け
                  て 悪石島沖で轟沈し いたいけな学童
                  と付き添いの人・一四八四人の尊い生命が
                  ひと時に奪われてしまいました
                  これらのみたまを弔い慰め 世界の恒久
                  平和を念ずるために 多くの人々の善意
                  で 小桜の塔 は建立されました

           参考文献  対馬丸事件 沖縄の悲劇          石野啓一郎著 講談社文庫
        海に沈んだ対馬丸 子供たちの沖縄戦    早乙女 愛著 岩波ジュニア新書
          対馬丸                  大城立裕著  理論社
        対馬丸 さよなら沖縄(アニメ絵本)       大城立裕原作
        海なりのレクイエム(対馬丸遭難の友と生きる)  平良圭子著  民衆者
          私たちの戦争体験6 沖縄対馬丸の沈没
         他人の城(短編集「脱出」に収録)       吉村昭著   新潮文庫
                                おわり
           
       (語り継ぐ戦争の証言№34)         (2023.09.06記)


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海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑨ 小さな命が海に沈んだ

2023-08-29 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 小さな命が海に沈んだ
   

  沖縄出身の芥川賞作家・大城立裕は「対馬丸」の著書の中で、
  沈没を経て漂流者となった人たちの様子を次のように表現しています。
  「無数の叫び声が」、刻々ひとつづつ減っていく。

  死だ。
  いくつもの死。
  次々と無造作に作られていく屍体が、海面を次第に分厚く覆っていった。
  あがき、叫ぶ人たちは、流れていくうちに、それらの屍体に行き当たった。
  それらは、今さっきそこで筏を奪い合った相手かもしれないし、
  昨夜一緒に「さらば沖縄」を唄った仲間かもしれないし、
  ふとしたことで仲たがいした親友かもしれなかった。
  あるいは、わんぱくでてこずらせた恩師かもしれないし、
  よくできて可愛がった教え子かもしれなかった。
  ……生きている者は、
  漂っているそれらの屍体にぶつかると、反射的に屍体をはねのけた。
  運の良い者は、翌日の夕方には救助されが、
  10日間も漂流し、島に漂着した者もいる。
  
  何人の疎開者が乗っていたのか
  一体、何人の人が生存し、犠牲者は何人だったのでしょう。

  先に私は乗船者1661名、という数字をあげましたが、
  この数字もあてにならないことが分かってきました。
  1661名というのは疎開を希望し、登録された人数で、
  必ずしもこの数字が正しいと言い切れない状況があったのです。
  
  出航間際に辞退した者、または、無届で乗船した者があり、
  この沖縄から本土への集団学童疎開が、
  いかにあわただしく性急に進められたかがわかります。
  だから、正確な数字を把握しきれないまま、
  現在も研究者によって人数が異なるのです。

  吉村昭氏は1680名という数字をあげていますが、
  人によっては、1788名という人数をあげる人もいて、
  はっきりした人数は分かりません。

      (語り継ぐ戦争の証言№33)        (2023.8.26記)

 

 

   
  
  

 

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海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑦ 待っていたのは……

2023-08-13 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇  ⑦ 待っていたのは……
 付き添いの保護者や学校関係者の心配や不安をよそに、

学童たちは初めての航海に興奮し、

まるで修学旅行の夜のようになかなか寝付くことができなかった。

 ちょうどその頃、

米国潜水艦ボウフィン号は学童疎開船団の進行方向の海域20㌔先で、

船団が近づくのを待ち構えていた。

船団から発信された暗号は、米国軍によって解析され、

航路や到着時刻まで正確に把握されていた。

 夜10時監視員の交代があって間もなく、

左舷の遠くに五本の白い線の動きを発見。

次の瞬間彼は、

伝声管に向かって叫んでいた。

「雷跡発見! 距離500! 本線に向かって失踪中」

第一魚雷は船首前方を掠め、

第二魚雷も船倉左舷を通過した。

運命の第三魚雷は左舷船倉の第一船倉、

第四魚雷も同じ左舷の第二船倉に命中。

いずれも学童を収容した船倉の真下です。

最後の魚雷は左舷第七船倉の一般疎開者の入る真下に牙をむいた。

時刻は22時12分をさしていた。


 船体は中央から裂け、

泡立った海水が甲板にせりあがってきた。

 1944(昭和19)年8月22日22時23分頃、

吐噶喇(とから)列島の悪石島付近の海域にて沈没。

最初の魚雷攻撃から船が沈没するまで、

わずか12分の出来事だった。
 (對馬丸の沈没地点 毎日新聞2018.8.16)
 攻撃を受けた船団は、海軍佐世保基地に遭難の緊急信号を打電する。
しかし、この緊急発進も米軍は把握していた。
 沖縄 奄美大島等の西南諸島海域は米軍の制海権下にあり、
日本側の情報は筒抜けであったと言われている。

 
過日、顎鬚仙人様から次のような短歌を紹介していただきましたので掲載します。

   いつまでも消ゆることなき少女らの声
              「宮城先生」と細りゆく声

                           新崎美津子
  紹介者の長谷川櫂の解説
     對馬丸に乗っていた教師の短歌。作者は筏で漂流して生き残った先生で「宮城」は作者の旧姓。
                       (読売新聞2023.7.13 長谷川櫂の「四季の歌」より)
   ※短歌の作者・新崎美津子さんは、2011年2月に90歳で逝去され、たくさんの短歌を残されました。
    「對馬丸番外編」として後日紹介したいと思います。
  

                       (つづく)

(語り継ぐ戦争の証言№31)  (2023.8.12記)

 

 

 

 

 

 

 



 
 
  

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海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ⑥悲劇の夜が近づいてくる

2023-08-05 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 
                ⑥ 悲劇の夜が近づいてくる
   834人の学童を含む1661人の疎開者たちと、

 
船舶砲兵隊員41人、船員86人、合計1788人を乗せた対馬丸は

 他の疎開船和浦(わうら)丸、暁空丸(ぎょうくう)と共に砲艦「宇治」と駆逐艦(護衛艦)「蓮」に護られて、

 1944(昭和19)年8月21日午後6時35分那覇港を出港した。

  ドラを鳴らし、テープを投げ合う旅立ちを祝福するセレモニーはなかった。

鹿児島までの3日間の航海です。

8月22日の朝、周辺海域は台風の影響で風が強く、

老朽船の對馬丸は船団の速度についていけず、

しだいに遅れはじめ、これを見守るように護衛艦「蓮」が対馬丸の後ろをついていきます。

 こうして、22日も無事に終わろうとしていました。

後、2日たったら本土鹿児島に到着する。

親たちとの別れは悲しかったが、

児童たちはまるで修学旅行気分でなかなか寝付かれない旅を、

暗くて、汗臭い異臭の立ち込める船倉で過ごしていた。

 航海一日目、学校関係者や親たちの心配と不安とは別に、

児童たちの興奮でなかなか眠れない夜が訪れる。

 老朽船對馬丸は、先行する「和浦丸」や「暁空丸」の速度についていけず、

船団の最後尾を、不規則なエンジンの音を響かせながら

護衛艦「蓮」に護られ、台風の接近に伴う風の影響を受けながら、

夜の海を目的地の「博多港」に向かって航行していた。
                                                                    (つづく)
 (語り継ぐ戦争の証言№30)                           (2023.8.4記)

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海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ⑤

2023-07-30 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇  通達文書に示された隠された疎開の理由

 県から各学校や役場等に届いた『学童集団疎開準備に関する件』という

通達文書に示された集団疎開の目的として、

『戦時中といえども少国民の教育に差し支えないようにするため』という他に、

『県内食糧事情の調節を図るため』とあった。

 つまり、急激に増員された10万人の兵隊の食料確保のために、

10万人の学童や学校関係者及び保護者を県外に疎開させるという、

帳尻合わせの学童疎開でもあった。

 あまりに急な要求に、学校関係者や保護者達は戸惑うばかりで、

希望者はなかなか集まらなかった。

『残っているより行ったほうがよい、たとえ敵が上陸してこなくても、空襲はあるでしょう。

空襲されたら、那覇なんか吹っ飛んでしまうだろう』

 さまざまな噂がささやかれたが、

『これは国策ですぞ』という一言に、学童疎開時の募集には、

有無を言わせない強制力が潜んでいた。

  もう一つ隠された目的として、なるべく成績優秀な児童と引率の教師にも

優秀な者を選ぶという不文律がありました。

もし、沖縄が全滅したとしても、優秀な沖縄(日本)の血すじを残すという、

沖縄が激闘の戦場として民間人をも巻き込んでしまうことを暗に認めた事例です。

 
  戦争とはかくも人を狂わし、ばかばかしい計画を作戦と称して大真面目に実践に移してしまう。

 戦争という非日常の中で、人間の中に潜む『狂気』が、

 無限に拡散され、無力の民が犠牲になっていく。
                                      (つづく)

        (語り継ぐ戦争の証言№29)             (2023.07.29記)











 

 

 

 

 

 

 

 

 

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海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ④

2023-07-23 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ④

     学童疎開船『対馬丸』 撃沈に至る経緯 ②
   真珠湾奇襲攻撃          1941(昭和16)年12月
   ミッドウェイ海戦    1942(昭和17)年6月 この海戦で日本は多くの犠牲を余儀なくされ、戦況は
                    劣勢になっていく
   サイパン陥落    1944(昭和19)年7月 (学童疎開船「對馬丸」出港・撃沈まで1年)

 1944(昭和19)年7月7日、サイパンの日本軍が陥落した。
本土防衛の「防波堤」である絶対防空圏の一つであるサイパンが米軍の手に落ち、
日本本土はB29・重爆撃機の爆撃圏内に入った。
 サイパンが陥落すると各地に派兵された兵隊が、米軍上陸に備え沖縄に進駐してきた。
当時、人口49万人の沖縄に10万の兵隊が集まってきた。

 59万人に膨れ上がった沖縄の人々にとって不足するものは何か?
小さな島では食料の生産性も極めて低く、本土からの食料の移送もままならず、
沖縄決戦を推進するにはあまりにも脆弱な食料体制だ。
 本土防衛のための最後の砦となる沖縄に集められた兵隊たちの食料確保は、
何としても実現しなければならない最重要事項であった。

 以上の戦況のもとで、
日本政府はこれから戦場になる沖縄から、九州に8万人、台湾に2万人の疎開が計画された。
命を守るための疎開政策の裏に、
食糧難の状況を打破するために計画された「学童集団疎開」計画が立案された。
  ※ 台湾疎開について
     台湾は1683~1895年までは清国の支配下にあったが、1895年日清戦争に勝利した日

     本が台湾の統治権を得た。以後約50年間(1895~1945)、台湾は日本の支配下にあっ
     た。日本の支配下で、道路、鉄道、上下水道、電気などのインフラ整備も行われ、
     教育は日本語で行われた。植民地の台湾への疎開が計画されたわけです。
     植民地支配は第二次世界大戦で日本は敗戦国となり、統治権を放棄した。
                          (つづく)

 (語り継ぐ戦争の証言№28)          (2023.7.22記)

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海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ③

2023-07-18 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ③
  学童疎開船『対馬丸』 撃沈に至る経緯

 1941(昭和16)年12月8日未明、日本は真珠湾を奇襲した。

 第二次世界大戦の始まりだ。

 日本軍の真珠湾攻撃から数時間後、アメリカ海軍省は、

 無制限潜水艦戦の命令を出した。

 当時、潜水艦や飛行機で無差別に商船を攻撃することは、国際法で禁止されていた。

 しかし、命と命のやり取りの戦争が始まれば、

 国際法や条約は戦争を前にして無視されてしまった。

 結果として、宣戦布告なしの『奇襲』という攻撃になってしまったことに対し、

 アメリカはその報復として、「無制限潜水艦戦」を発令したと思われる。

 「パールハーバー リメンバー」をスローガンに、

 ミッドウェイ開戦でアメリカは劣勢を回復していった。

 

 日本軍の暗号はアメリカ軍によって解読されていた

  戦争が終わるまでに撃沈された日本の商船は、全部で890万総トン、2534隻になる。

 記録によれば、商船を最も多く沈めたのは空母艦載機等の飛行機ではなく、潜水艦だった。

 広い太平洋の海域を、敵の船を求めて潜行しても発見することはなかなかできない。

  アメリカ潜水艦は自分の担当の海域をパトロールしながら、ハワイに拠点を置く「太平洋艦隊

 潜水艦司令部」の指示を受け、攻撃目標を決めていた。

  潜水艦によって一番必要なのは、敵の船がどんな船団を組んで、何時、

 何処の海域を通過し、何処へ向かうかということだ。

 圧倒的な資源に基づく戦力を有効に実践に結びつけるために、

 アメリカには暗号を解読する通信解析部隊があります。

 当時、ハワイの潜水艦司令部には、

 1000人を超えるスタッフが、

 傍受した日本海軍や商船の暗号を解読・翻訳していたと言われている。

  1943(昭和18)年の春、戦況を左右することが起きた。

 沈没した日本輸送船から、船舶暗号書を米軍がひきあげ、

 暗号解読に成功すると、

 沈められる船の数が急増したと言われている。

                   (つづく)
 
 (語り継ぐ戦争の証言№27)   (2020.7.12記)

 

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海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ②

2023-07-11 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ②
  海底に横たわる対馬丸
  1997(平成9)年冬。
 深海探査機が海底の沈んでいる船を探し当てた。
 場所は鹿児島県トカラ列島の悪石島(あくせきじま)沖。 
 水深870㍍の光のない暗黒の世界。
 探査機のサーチライトの光に黒く大きな物体が徐々に浮かび上がってくる。
 やがて、光にとらえられた物体がその正体を現してくる。
 穴の開いた船が永い眠りから覚める瞬間である。
 探査機が近づく。
 暗くよどんだ海底のなかで光がとらえたものは三つの文字だった。
 濁った海水を通して浮かび上がる文字。
 『對馬丸』。
 カメラは海底に横たわる船をとらえる。
 腐食が進み魚の住み家になっている船。

  1944(昭和19)年8月22日22時23分、
 悪石島沖にて沖縄の学童疎開船「對馬丸」が撃沈から53年ぶりに姿を現した瞬間であった。
 船は那覇から長崎へ向かう途中、
 鹿児島県・悪石島の北西約10㌖の地点を航行中、
 米潜水艦ボウフィン号の魚雷攻撃により、沈没した。

                                  (つづく)

(語り継ぐ戦争の証言№26)  (2023.7.9記)

 

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海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ①

2023-07-08 18:28:29 | 語り継ぐ戦争の証言

       海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ①
  戦後78年が過ぎた。
 本土では一般的に、太平洋戦争の終戦記念日は8月15日と言われている。
 そのせいかどうか、沖縄の「慰霊祭」の記事は、全国紙を含め、記事の扱いが小さく、関
 心の薄さを如実に感じさせる紙面構成である。
 
 沖縄では昨日6月23日を「慰霊の日」とさだめ、太平洋戦争末期の沖縄戦犠牲者を悼む式
典が沖縄県糸満市の平和記念公園で開かれた。
 日本全土にある米軍基地の70%が沖縄に集中している。
本土決戦を前にして、日本軍は
10万人の兵士を沖縄に送った。
小さな島に10万の
兵士が送り込まれる。
兵士たちの食料や宿舎はどのように確保されたのか。
不安と混乱の中、不平や不安を口にすれば、
「これは、国策ですぞ!!

と有無を言わさぬ強引さで本土防衛のための「沖縄決戦」が進められた。
 太平洋戦争で唯一、地上戦が展開されたされ、
多くの民間人が戦闘に巻き込まれた。
制海権も制空権も失われ、孤立無援の沖縄。
無数の米戦艦からの艦砲射撃が行われた。
「鉄の雨」とも「鉄の暴風」とも言われた艦砲射撃で多くの沖縄県民が
犠牲になった。

 お年寄りや子ども、女性を沖縄から本土に8万人、台湾に2万人疎開させることを政府や軍が決めたのは敗戦濃厚になった1944年7月だった。
 米軍上陸が迫るなか、この学童疎開船『対馬丸』の計画の隠された目的は、
軍の10万の兵士の食料確保であった。
戦況は切迫し、近海ではすでに多くの船が沈められていた。
 1944年8月21日18時35分、対馬丸は、台風接近による激しい風雨のなか、那覇を出港した。


 対馬丸の乗客の多くは、日本郵船の貨物船を軍隊輸送船として改装されていた船倉に居住することになった。船倉への出入り口は階段一つと緊急用の縄梯子があるだけの
出入り困難な状態であり、後にこの構造が、犠牲者を多くした原因の一つともいわれている。(ウィキペディア参照)
                                        (つづく)

 (語り継ぐ戦勝の証言№25)       (2023.7.4記)

 

 

 

 

 

 


 
 

 

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75年前の今日 東京下町大空襲

2020-03-10 22:09:35 | 語り継ぐ戦争の証言

 75年前の今日 東京下町大空襲

 

1945年(昭和20年)3月9日の夕刻、
マリアナの米軍基地を飛び立ったB29爆撃機は、
3月10日午前0時8分東京上空に現れました。

その数334機。

500ポンド(225㌕)の焼夷弾24個を搭載したB29爆撃機が
低空飛行で東京の街を襲いました。

 この無差別爆撃は、たった2時間で終了しました。
ご承知のように、東京の街は阿鼻叫喚
の地獄となったことを、
私たちは映画や文学
作品、絵画等で知ることができます

たった2時間ですよ。
空を覆うような334機の重爆撃機B29が、東京の下町を襲いました。
竹ヤリで敵兵を倒す訓練が何の役にも立たなかったことを、
隣組同士が協力して消火のためのバケツリレーを繰り返し
日本人としての結束を高め、
戦意高揚を計る消火活動も何の役にも立たなかったことを人々は知らされた。

逃げ場を失い、公園の空地に被災者が集まる。
焼け焦げ息もできないほどの猛火につつまれ、
多くの人が川へ向かって避難した。
避難路は逃げる人々で溢れ、その背中に猛火が襲いかかり、
業火につつまれ、あらゆるものを焼き尽くし、
火の通り道になった。
公園も川も空地も行き場を失った獣のように猛進する炎で充満し、
多くの人々が焼死した。
 
 3月10日の東京大空襲の被害が具体的にどのくらいのものだったのか
数字で示してみましょう。
 
一つでも多くの焼夷弾を積み込むために

4基の機関銃をすべて取り外してあったそうです。
その上、空中衝突を避けるために、
編隊を組まずに高度8500㍍以下の低空飛行で東京上空に現れたといわれています。
空襲の犠牲者は、
死者83,793名
負傷者40,918名
傷者合計124,711名
戦災家屋268,000戸。
   小さな地方の市が一つ消えてなくなってもまだ足りないぐらいの大きな被害です。
   3月10日は陸軍記念日で、334機のB29はまさにこの日を狙い、首都東京を襲ったのです。
   この時落とされた「焼夷弾」は、
 
 親爆弾に子爆弾19発が2段に、計38発が組込まれ、空中で分解して落下する。
    1機のB―29が1520発の子爆弾を投下した。爆発の威力は少ないが、燃焼力があり、水では消化できない。

   この時使用された爆弾は「M69焼夷弾」といわれる爆弾で、
  紙と木で出来た日本の家屋を効率よく燃焼させるにはどんな爆弾が良いのか。
  こうして「消えない火災」を引き起こすように兵器研究者が作りあげたのが「M69焼夷弾」でした。
  B29爆撃機から投下されたM69焼夷弾は上空約700㍍で分解し、屋根を突き破り中に落下する。
  爆弾一つひとつの爆発力は小さいが、散らばった無数の子爆弾が室内で爆発する。
  きわめて高温で燃えるゼリー状のガソリンを入れた爆弾の炸裂です。
  火の付いた油脂が壁や床にへばりついて燃え、水をかけても消えにくかったといいます。

  投下にあたっては、単に首都東京というだけでなく、
  住宅密集地や商業地などなるべくたくさんの被害を与えるような場所で、
  庶民に最も多くの壊滅的な被害を与えられるような場所が選ばれたようです。
  しかも、爆弾の数が少なければ消火され、被害の拡大が望めなくなるから、
  B29 334機の大編隊の攻撃が必要だったのです。

  つまり、無差別爆弾攻撃は目標を灰燼に帰し、
  壊滅的な打撃を与えるための練り尽くされた作戦だったのです。
  戦勝国としての傲慢さが今でも拭うことができない最近のアメリカです。 

  制空権を喪った国の当然と言えば当然の結果だったのではないでしょうか。
  冷静に戦局を判断する理性を欠いた軍部の考えは、
  「本土決戦」。本気で考えていたのでしょうか。。


 無差別に投下された焼夷弾はあまりにも非人道的ということで、
   1983年、「特定通常兵器使用禁止制限条約」により使用禁止されました。

   こんな爆弾を作り非戦闘員を無差別に攻撃し、
   核爆弾を広島、長崎に落とした非人道的行為について、
   その責任有無について、何ら問われていないのは、
   戦勝国とは言えおかしな話です。

 東京下町大空襲を体験した庶民の声の聞き書き掲載します。
   …熱くて川に大勢の人が飛び込んで死にました。炎がものすごく、水面をはうようにきたので、ほとんどの人は炎
   にあぶられて死んだそうです。消防車はひっくり返って焼けていたり、馬がところどころに死んでいたそうで
   す。(父や祖父母の話)

   …ほとんどの川には、死んだ人が重なるように浮かんでいたそうです。(名前の分からない)人は大きな穴をほって
   みんないっしょにうめられたそうです。…(お母さんは)戦争とは幸福をうばうもの、戦争とはしてはならない、
   やってはいけないものといっていました。(お母さんの話)

   爆げきのしかたは、さいしょにまわりから爆げきし、それから、なかをじゅうたん爆げきした。…そのために、人
   びとはにげ場をうしない、十万人ぐらいの人がなくなった。(父の話)

            …「もうすぎてしまったことはしょうがない」と、一言いってしまえばそれまでだ。でもそれでは「どろ人形」
   (焼死体)になった人たちはどうなるか。戦争はおたがいの国が、自分の方だけをよくすることばかり考え、相手の
   ことなど考えないから起こるのだと思う。(父から聞いた話に小学生の少女が考えた)

   …戦争なんてなんていやなことです。人と人とがいがみあい、ころしあう。…同じ地球の人間なんだから、みんな
   で手をつなぎあっていかなくてはなりません。
   世界を一つにする日も、もうすぐ、そこにきているのかもしれません。(小学男子)
                     掲載した手記は「新版 町は火の海 父・母から聞いた戦争体験記」
                     あゆみ出版 1985年3月刊 編者・東京都教職員組合江東支部による
                     ものです。

           あれから75年が過ぎました。
   私たちは、「世界を一つにする日」を作ることができたでしようか。
   「否」と即答できるほどに現実世界は、
   一発触発の危険と不安に満ちた世界であることに私は忸怩(じくじ)たる思いに己の
   無力さを嘆かざるを得ない。

   今日は、大切な一日です。
   忘れてはならない、「東京下町大空襲」を、新型コロナウイルスに陰にかくれ
   メディアにも関心の薄い75年前の悲しいできごとですが、そう遠くない時間の
   中で先人が体験したことを決して忘れてはいけないと思うのです。

            文中色字でしめしたものは、拙ブログ2018.8.22付、
            「墜ちたB29米兵を助けた日本人 」① 東京大空襲の夜 冒頭から引用

   (語り継ぐ戦争の証言№24)     (2020.3.10記)

   
 


 

 

 

 

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