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雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

読書案内「雪沼とその周辺」 堀江敏行著

2020-12-17 06:30:00 | 読書案内

読書案内「雪沼とその周辺」 堀江敏行著
   時代に取り残された「雪沼」(架空の地域)で、
   ひっそりと生きている人たちの
生活を綴る連作短編集。

新潮文庫 平成19(2007)年8月 一刷  同年同月二刷

 「雪沼」というネーミングに魅かれて購入した本の一冊。
購入する本は、
 ① 特定の作家の本
 ② 題名に魅かれる(例えば、題名に「雪」とか『月』、『氷』『炎』などの文字が織り込んであるもの)
 ③ 本の装丁・表紙に魅かれるもの
 ④ 本の広告を読んで。
   ①以外は外れの確率が高いが、①~④の基準で選び、良い本にあたったときは嬉しい。

 「雪沼……」はどうか。
     ②の「雪沼…」という題名に魅かれた。
 東北か山陰の山間の地名・地区名かと思っていたが、架空の地名だった。
 私にとっては新しい作家の発見になった。
 雪の中に埋もれ、ひっそりと息づいている北の寂れた架空の町で、やっぱりひっそりと生きている人。
 雪沼とその周辺に住む人の日常が淡々と描かれている。
 ストーリーがあるわけでもなく、ヒーローやヒロインも登場しない。
 しかし、練に練られた文章は生半可な短編ではないことを思わせる。

 たとえば、「スタンス・ドット」の文章は次のように展開される。

  舞台は今日で廃業するボーリング場の閉店が迫った夜。客は一人も来ない。
  壁際の照明を落とすと、古びた自動販売機の冷却モーターの音が大きく聞こえる。

  
    ……それにしても、ビールやジュースを冷やすために熱が必要だなんて滅茶苦茶な理屈
       だ。冷やせば冷やすほど放熱し、部屋が暑くなる。それを冷やすためにエアコンを入れ
       ると今度は室外機が熱風を外に吹き出す。暑さは場所を移すだけで消えはしないのだ。
       このまま仕事を続けていたら、俺の人生も何かを冷やすために余計な熱を出すだけで終
       わりかねないぞ……(冒頭から引用)

   といった情景描写が、営業最後の日の照明を落としたボーリング場を舞台にして続く。
       冒頭の一文を引用したが、これから展開される長編小説の序幕のようだ。
  著者の言いたかったことは「このまま仕事を続けていたら、俺の人生も冷やすために余計な熱を出す
  だけで終わりかねないぞ……と長年想い続けていた自分の人生に対する
  忸怩(じくじ)
たる思いであったことが分かる。
  五レーンしかない小さなボーリング場。それでも、
  1970年代初頭のボーリングの人気が高かった時を思い出し、「あれは確かに異常だった」と思い、
  こんなブームがいつまで続くはずはないと予想していたことを、
  最後の営業日に思い出したりもしていた。

  閉鎖することになった最後の夜の閉店時間30分前に訪れた、
  文字通り最後の客となった若い行きずりの男女と、
  妻を失った若くはない経営者との短い振れ合いを描く。
  たったそれだけの短編なのだが、なぜか記憶に残り、
  
再読したくなるような雰囲気を持っている。

  ボーリングのことについても、かなり詳しい描写が続く。
  たとえば、ピンの倒し方、スペアを取る時の注意、マイボールと既製品の相違等
  その描写力には脱帽。
  特にタイトルにもなっている「スタンス・ドット」について。
  スタンス・ドットとはファールラインに沿って埋め込まれた立ち位置のこと。
  投げやすいようにと床に埋め込んだ小さな三角の目印のこと。
  スペアを狙う際には、残留ピンの形にしたがって立ち位置を変え、球の進入角度を調整してそのつど
  足の置き方をずらすこと。フォームさえ安定していればすべてはアプローチで決まる。
  だが、この基本をプロボーラーを目指した、ハイオクさんは守らなかった。
  どんなに難しい位置にボールが残ろうと、彼は自分の立ち位置を変えなかった。
  残留ピンの位置によっては、スタンスの位置を変えなければスペアを取ることは不可能である。
  でも、ハイオクさんは立ち位置を変えなかった。ここ一番というときに勝利できなかったのは
  そのせいではなかったかと思う。
  たった一つ、ハイオクさんの投げた球は、ピンをはじく瞬間に、
  何とも表現できないような音を醸し出すということだ。
  レーンの奥からせり出してくる音が拡散しないで、大きな空気のかたまりになってこちら側に
    匍匐(ほふく)してくるほんわりして、甘くて、攻撃的な匂いがまったくない、胎児の耳に響い
  ている母親の心音のような音。
  誰にも出すことのできないこの音ゆえに、ハイオクさんはプロになれなかったのではないかと
  読者の私は推測するが、「立ち位置を変えない」という意地は、
  そのまま彼の人生に対するかたくなな意地、
  言い換えれば「スタンス・ドット」ではないのかと思いをはせる。

  競争社会の中で生きていくむずかしさ、
  「立ち位置」を変えずに自分の思うように生きていくためには、
  ときにたくさんの犠牲を払わなければならない状況が訪れてくる。
  それでも生きるためのスタンスを変えない。
  生きることに不器用な人たちの生きる姿を、卓越した文章で淡々と描いている短編集。
  登場人物の多くが老いのきざしを漂わせているが、彼らの背負う人生の過去は、決して
  暗くはなく、背中に哀愁を感じるような魅力を持っている。
  抱えてきた過去から逃げずに、
  明日に向けて一歩を踏み出す静かな意志を感じさせられる登場人物だ。

  センテンスの短い読みやすく、かゆいところに手が届くようなサービス旺盛な文章に慣れてしまった
  読者にとっては、読みずらい小説かもしれない。
  描かれている物語は、どの物語も何の前触れもなく、
  緞帳を吊るワイヤーが突然に切れるように終わってしまう。
  読者は一瞬取り残されてしまうが、最後数行に込められた著者の思いをくみ取り、
  自分流に解釈するのも小説の楽しみである。

  「スタンス・ドット」:閉店最終日の閉店時間30分前に訪れた若いカップルとの交流を淡々と描く。
  「イラクサの庭」:雪沼の片田舎でフランス料理を人に教え、孤独のうちに生を閉じた老女の心の秘密
           を描く。臨終の間際に聴き取れぬ言葉を残して彼女は死んだ。
           彼女は何を言いたかったのだろう……
         「河岸段丘」:なけなしの金で河岸段丘にある安い土地を手に入れ、小さな製缶工場を営む田辺。
         つい十年前まで自分でできた作業も今は覚束なくなっている。重い製缶機が傾いてき
         たのは機械が老朽化したためか、それとも土地の地盤沈下のせいなのか田辺は悩む。
   「送り火」:私の好きな物語だ。大雨の日に川を見に行って流され、亡くなった
         一人息子を偲びながら庭でランプをともす老夫婦。
切ない情感が漂う。
   他に、「レンガを積む」 「ピラニア」「緩斜面」があり、いずれも過去に挫折をし、
   その重荷を背負いながら、生きる姿勢を崩さない人々の静かな生活を
   「雪沼とその周辺」という架空の土地に生きる人々を描いている。
  
   富や名声や誇りという身に纏(まと)ってしまうと、
   これらに付随する世間的なしがらみがまとわりつき、
   この小説に登場する人びとにとっては、おそらく息苦しい場所になってしまう。
   「雪沼」は、一風変わった人々を温かく包んでくれる楽園なのかもしれない。

    川端康成文学賞 谷崎潤一郎賞 木山捷平賞を受賞

      (読書案内№161)      (2020.12.17記)

 

 
 
   

  

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読書案内「わたしを わすれないで-forget me not-」 角野栄子訳

2020-12-06 06:30:00 | 読書案内

読書案内「わたしを わすれないで-forget me not-」
                角野栄子訳 ナンシー・ヴァン・ラーン文
                2018.3.10初版 マイクロマガジン社


私のおばあちゃん。
やさしくて おりょうりやケーキづくりが とっても上手です。
わたしの だいすきなおばあちゃん。
おばあちゃんは ひとりでくらしています。


 

みんなで おばあちゃんの家にあそびに行くと わたしのだいすきな フライドチキンやサラダをつくってくれた。


                   おばあちゃんに えほんをよんでもらうのがすき。
                   おばあちゃんは シナモンとライラックのようないいにおいがする。

 でも、このごろおばあちゃんはちょっとへん
 とっても わすれんぼになってしまった おばあちゃん
 いっぱいいっぱいわすれて わたしたちのなまえまでわすれてしまつた

 おばあちゃん わたしのなまえは ジュリアよっていうと
 「おや まあ、うっかりしちゃった!」ってわらったおばあちゃん

 わたしといっしょに どうぶつえんにいったことも イチゴつみにいったことも
 どんどんわすれていく……

 認知症の症状がだんだん進んできて、大切なことを全部忘れてしまう。
 買い物に行ったおばあちゃんは迷子になってしまう。
 もう一人での生活は無理な段階にきている。
 やさしいジュリアは、
 「かあさん、おばあちゃんは どうしちやったの」とお母さんに聞いた。
 「ジュリア、としをとるとね、めや、みみが わるくなるのはしっているでしょ?
 なかには いろいろなこと おぼえていられなくなる ひともいるの。あなたのおばあちゃんのようにね。」

 悲しく辛い現実をジュリアに説明するおかあさんです。
 老人ホームにいったおばあちゃん。
 ジュリアのことも分からなくなってしまったおばあちゃんに、ジュリアは考えます。
 「かがやくような たのしいこと おもいださせてあげたいなあ」
 ジュリアは、おばあちゃんのために あることを計画します。
 
 春になったら……

     
    やさしい孫のジュリアちゃんの目を通して、
    認知症のおばあちゃんをみつめる姿がいじらしく、
    ほっこりする絵本です。
     
                (2020.12.5記)     (読書案内№160)
       

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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読書案内「JR上野駅公園口」  柳 美里著 ②

2020-11-30 06:30:00 | 読書案内

読書案内「JR上野駅公園口」柳 美里著 ②

    カズ が故郷に戻った7年後、カズは妻・節子を亡くした。
    雨の激しく降る夜だった。隣の布団に寝ていたカズが気づいたとき節子は
    すでに冷たい体になって、死後硬直が始まっていた。
    節子・享年65歳、カズ67歳。
    雨の夜だった。

    カズはわが身に降りかかる不幸に声をあげて泣いたに違いない、と思う反面
    働いて働いて、これから、というときに訪れたわが身の不幸に、泣くことさえ
    忘れてしまったのかもしれない。と、わたしは感情移入を膨らまし、
    この悲しい物語の先を読み進んだ。

    著者はカズの気持ちを次のように描写している。
「なんでこんな目にばっかり遭うんだべ」、と悲憤の怒りが胸底に沈められ、
 もう泣くことはできなかった。

「おめえはつくづく運がねぇどなあ」、浩一が死んだときお袋が言った言葉をかみしめ、
独りぼっちになってしまった男に、孫の麻里は優しく、足しげく訪ねてくれた。
しかし、年老いた自分のためにこの可愛い21歳になったばかりの孫を縛り付けるわけにはいかない。
いつ終わるかわからない人生を生きていることが、男には怖かった。

それは、浩一と妻が、
何の予告もなく眠ったまま死んでしまったための投影からくる不安でもあった。

 またしても、雨の朝、
 カズは小さなボストンバックに身の回りのものを詰め込み、家を出た。

〈突然いなくなって、すみません。おじいさんは東京へ行きます。
この家にはもう戻りません。探さないでください。……〉
あまりにも悲しい書置きを残して。
70近くなったカズは再び東京へと旅立つ。
家族のためにその生涯のほとんどを出稼ぎに費やし、
それでも一握りの小さな幸せさえ掴むことのできなかったカズ。

今度は、誰のために働くのでもなく、
カズが自分のために最後に選んだ人生の辿る道は、
JR上野駅公園口で下車することだった。

公園口を出て少し歩けば、都会の喧騒を逃れた上野の森が現れてくる。
ある人にとっては憩いの場であり、リフレッシュの場でもある。
しかし、男にとっては、上野の森に散開するホームレスへの人生最後の転落への哀しく辛い旅となる希望のない出発点だ。

 

家族のためにひたすら働き続け、
不器用にしか生きられなかった男の最後の選択がホームレスだなんてあまりに切なく悲しい。

『成りたくてホームレスになったものなんかいない。この公園で暮らしている大半は、もう誰かのために稼ぐ必要のない者だ』 
血縁を断ち切り、故郷を捨て、人によっては、過去や名前さえ喪って生きるホームレスの孤独。
だが作者はこれだけで物語を終わりにしない。

 東日本大震災、津波が人を押し流し、
   原発事故は故郷を汚染し男から帰る場所と過去を奪ってしまう。

最愛の孫・麻里はどうしたか。
今日もホームから聞こえてくる。いつもと変わらないアナウンス。
無常の声。

 「まもなく2番線に池袋・新宿方面行きの電車が参ります、
  危ないですから黄色い線までお下がりください」


 カズのように、ただひたすら働き、
それでも底辺から這い上がることができない人。
表現を変えれば、社会の構造がもたらす競争社会の中から必然的に生み出される格差という
奈落に落ちてしまって浮かび上がることができない人は、少なくない。
具体的な社会問題として浮かび上がってくるのは、
孤独死、ひきこもり、適応障害、貧困、教育格差等々数え上げるときりがない。
祝福されるべき誕生の時から、
もっと遡れば、母の胎内に命の芽が宿り始めた時から
容易ならざる環境を背負わざるを得ない苦しみや、不幸せな芽を宿してしまう場合もある。

  カズは福島から常磐線で上京し、帰郷し再び常磐線で「JR上野駅公園口」にたどり着いた。
  人生逆戻りの辛く、孤独の旅だ。
  高台になっている上野駅公園口から改札口前の道路を一本渡れば、美術館があり、
  博物館があり動物園があり、木々の森の緑の中に噴水のある憩いの水場もある。

  行き交う人々からひっそりと隠れるように「ホームレス」の段ボールハウスが、
  樹々のあいだに存在する。
  目を凝らせば、もう一人のカズがいつものベンチに座り、誰かが捨てていった
  三日前の新聞を読んでいる姿に出会うかもしれない。
                                                                                    (2014.05.31のブログ記事を大幅に改稿しました)

          (2020.11.29記)    (読書案内№159)

 

 

 

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読書案内「JR上野駅公園口」  柳 美里著 ①

2020-11-27 06:30:00 | 読書案内

読書案内「JR上野駅公園口」 柳 美里著 ①
米国で
最も権威のある文学賞「全米図書賞」が18日夜(日本時間19日午前)発表され、
翻訳文学部門で福島県在住の作家、柳美里さんの小説「JR上野駅公園口」の英訳版が選ばれた。
     
河出文庫
2017.2.7刊(写真)  単行本初出は2014年

  哀しくて、切なくて、どうにもならない人生の孤独が、ひしひしと胸に迫ってくる。

 2014年にリアルタイムで読んだ小説です。
 当時のブログにも読後感を掲載しましたが、格差社会の中でどこにも身の置き所を失く
 し、社会の底辺にうずもれて行ってしまう男の人生の孤独が感じられ、
 いたたまれない気持ちになった記憶が残っています。
 受賞を機会に再読しました。
 以下の記事は過去記事(2014.05.31記)を訂正・加筆して再掲しました。
 

カズは福島の貧しい農家の長男として、
  1933(昭和8)年に福島県相馬郡の寒村に生まれる。  

  妻と節子との間に娘・洋子と息子の浩一を授かる。
  家計を維持し、子どもたちを育てるために大都市に出稼ぎに出るということは、
  当時の貧しい寒村で生活をする者にとって特別のことではなかった。
  カズもまた例にもれず30歳になって東京に出稼ぎに出る。


1963(昭和38)年、
  翌年に東京オリンピックを控えたその年、カズはJR上野駅公園口に下り立つ。
  カズ30歳。
  街には三波春夫の「東京五輪音頭」が流れ、建設ラッシュはピークを迎え、
  地方からの出稼ぎ者たちは、
  オリンピック競技場の建設現場の土方として働き始めます。

  カズは酒を飲むこともなく、博打や女遊びをするわけでもなく、
  月々の稼ぎの中から一人暮らしの生活費を除いた金を故郷の妻子に送り続ける。

故郷へ帰るのは一年のうち盆と年末年始の数日だけだった。
  当時の出稼ぎ労働者の多くが歩んだであろう人生をカズも、
  経済成長の波に押し流されない様に必死で頑張ったに違いない。
  長い出稼ぎの連続で、盆暮れに時々帰る男に、
  たとえ短い間だけでも、「幸せ」と感じる時を過ごせた時期があったのだろうか。
  だが、作者は、
  男のささやかな心の平穏には一切触れず、
  淡々と、「老いていく」男の生涯を記述していく。

長男の浩一が死んだ。
  東京のアパートの部屋で誰にも看取られずに、突然の死が浩一を襲う。
  
レントゲンの国家試験に合格しこれからというときの孤独な死だった。
  享年21歳。
  1981(昭和56)年3月。春浅い季節だった。
    福島の生まれ故郷にはところどころ残雪が融けずに、黒い肌を見せていた。
  カズ、48歳。
  

家に戻ったのは60歳になってからだった。
  出稼ぎの労働で肉体を酷使し、
  思うように体が動かなくなってしまったための帰郷であった。
  老いた体を労わりながら、妻と二人ささやかな暮らしを迎えたいと
  カズは小さな希望を持っていたに違いない。

結婚して37年、
  ずっと出稼ぎで妻の節子と一緒に暮らした日は全部合わせても一年もなかった。
  だが、カズに、
貧乏の中で生きてきた家族の不幸が重くのしかかってくる。

カズの妻が死んだ。
  カズが帰郷してから7年後の
激しく雨の降る夜だった。
  
隣の布団に寝ていたカズが、
  冷たくなっている妻に気づいたときにはもう死後硬直が始まっていた。
  
働き者で体が丈夫だったことが取り柄だった節子、享年65歳。
  カズ、67歳の雨の夜。

 「なんでこんな目にばっかり遭うんだべ」、と悲憤の怒りが胸底に沈められ、
 もう泣くことはできなかった。
                             (つづく)

   (2020.11.26記)                    (読書案内№158)

 

 

 

 

 

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読書案内「黒澤止幾子伝と渾沌」 -時代に創られた偉人- ③

2020-11-03 06:30:00 | 読書案内

読書案内「黒澤止幾子伝と渾沌」 -時代に創られた偉人- ③
   止幾子江戸に護送、そして故郷の錫高野へ

    
黒澤止幾子への容疑は、水戸の殿様・徳川斉昭九代将軍(十五代将軍・徳川慶喜の実父)の
    無実を訴えるための『長歌』を献上し、その下書きが露見したことに起因する。
    その長歌の内容はどんな内容だったのだろうか。
    長歌の冒頭を見てみよう。                           
      千早振る 神代の昔 神々の しつめ玉ひし 秋津島 実にも貴き
      日の本の 清き光は 古も 今も千歳の 末までも かはらぬ君が
      御代なるを…

    雰囲気を味わうために原文を載せましたが、理解するのに苦労を要します。
    現代文に直すと次のようになります。
      神代の昔、神々がお鎮めなさった、まことに気高いこの日本
      の国は、昔も今も更に千年の後の世までも、変わることのな
      い君が御代であるはずなのに、こんな有様では、まことに訳
      の分からないご時世だ… 
    (長歌の冒頭は次のように続いています)  
      白波が寄せ来るように外国の問題な舟がやって来て、異人らが
      強いる無理な要求を早々に引き受けたあの過ちは、井伊直弼と
      いう士が日本の俸禄を食んでいるくせに立派なことだとはとても
      思われない。
      なんの分別もない間部詮勝に命令して、手柄こそあれ何の罪科も
      ない我が主君を幽閉し多くのお金で買収して恐れ多くも皇室の方
      がたを言葉巧みに引きつけたことはあさましいことだ。知恵の浅
      い井伊掃部の頭のこんなからくりは、自然と世間の人々の言葉に
      上がり、こんな悪事を云え聞いてみれば、私は下賤の身であって
      も、神代の神の御子孫である勲功高かった藤原氏の末流の私であ
      るから、これを聞き捨てるわけにはいかない。

      この日記は安政6(1859)年の止幾子の日記(京都捕之文・茨城県立歴史観蔵)の要約です。
      この資料は、京都で止幾子が「水戸藩の間諜」容疑で捕縛された時から16年後の明治8(1875)
      年頃に70歳の止幾子が書いた文書を、止幾子の曾孫(峰三郎)が昭和になって原文を判読し、
      清書し、現代口語文にしたものです。これを郷土史家の所价二氏が桂村史談会発行の『黒澤
      止幾子特集』(平成16年)に発表したものをもとに作成されています。
                                 (「黒沢止幾子伝と渾沌」より引用)。
 止幾子が京都に上った安政6(1859)年前後の時代背景
      止幾子は斉昭の無実を願って「長歌」を献上し、勇気ある行動を讃え、錫高野の郷里では
     「幕末の女傑」と語り伝えられてきた。
     徳川の幕藩封建体制が、音を立てて崩壊し始めた「幕末」とは、何時の頃だったのだろう。
     ペリーが浦賀に、蒸気船2隻を含む艦船4隻で来航した嘉永6(1853)年を幕末の始まりとし、
     この時から明治元(1868)年の直前までが通例になっている。
ペリー(ウィキペディアより)

「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」という狂歌にも歌われ、
     幕藩の武士を中心とする太平の夢が崩れ去ろうとするきっかけになった「黒船来港」です。

     嘉永6(1853)年  ペリー浦賀に来航
     安政元(1854)年   ペリー、軍艦7隻を率いて江戸湾に進出 
                                                日米和親条約(神奈川条約)を締結。
              この条約締結は、朝廷の勅許を得ずに締結されたために、
              幕府に対する非難が湧き上り、社会不安が増大。討幕運動の魁となる。
(嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航)

     安政5(1858)年 井伊直弼大老となる。
           ~安政6(1859)年 大老井伊直弼による一橋派や尊王攘夷派への弾圧が始まり、
             安政の大獄と称され、幕政に批判的な者(橋本左内 吉田松陰等)を捕縛し、
             刑死や獄死とした。
             また、手柄こそあれ何の罪科もない我が主君と長歌で謳った前水戸藩主・徳
             川斉昭は永蟄居とされた。
 
              止幾子の長歌は、
これを事実無根であると朝廷に訴えようとした。
             「幕末の女傑」と謳われた所以である。
             安政5年井伊直弼が大老に就任して間もなく「安政の大獄」が始まり、
             幕末の日本は、攘夷か開国かで多くの人々が血を流した時代でもありまし
             た。
             安政6年には止幾子が自作の長歌を携えて「京」に上った年です。
             止幾子にとっては命がけの旅だったに違いない。
             安政7年3月3日、水戸浪士等による井伊大老暗殺事件が起こります。
             後に「桜田門外の変」と言われた大きな事件でした。
(映画・桜田門外の変より)
             幕府の最高幕閣が浪士たちに暗殺され、
             幕府の権威はますます地に落ちていきます。

             長歌に登場するなんの分別もない間部詮勝(あきかつ)とは、大老井伊直弼の下で
             首座老中を勤め、日米修好通商条約調印の勅許を朝廷から得るとともに、安
             安政の大獄での弾圧を進めた一人である。

             100人以上にもわたる受刑者の中に、黒澤止幾子の名も見える。
         中追放   とき……………宝寿院修験者
                      (止幾子は修験者の家に生まれた) 
                  ※ 中追放……江戸10里四方外に追放(10里四方立ち入り禁止)。 

        止幾子の長歌には、斉昭を擁護し、
        大老井伊直弼や首座家老の間部詮勝などを真っ向から批判している。
        安政の大獄の推進者である大老井伊に対しては、知恵の浅い掃部
        こき下ろし、大老井伊直弼も首座老中間部も敬称をはぶいた呼び捨てです。

         捉えられた止幾子は「水戸の女間諜(かんちょう)」ではないかと疑われたのでしょう。
         
しかし、どんなに詮議しても止幾子は水戸藩内に住む修験者の娘という意外に、水戸
         藩との繋がりは見つけることができなかった。
         大阪から
江戸送りになり、引き続きここでも詮議されたが、
         間諜としての罪状は発見できずに、故郷へ帰ることになります。

        余談ですが、NHKの大河ドラマ第一作は船橋聖一原作の「花の生涯」でした。
   
              開国か攘夷か!激動の幕末を舞台に、攘夷論に反対し、後に「安政の大獄」
              と恐れられた思想弾圧を強引に展開し、開国を主張した大老・井伊直弼
              だったが、安政7年3月3日、桜田門外で水戸浪士等の襲撃を受け暗殺され
              た。1963年、今から57年も前のドラマでした。
              このドラマに鶴江という偽名を使って黒沢トキ子が水戸の女間諜(スパイ)
              として、井伊の屋敷に女中として雇われる話が出ています。もちろんこれ
              は船橋聖一の全くの創作です。トキ子役には、山岡久乃という女優が演じ
              ていました。(NHKホームページ ウィキペディア参照) 
     一時の義憤を抑えることなく、果敢に行動を起こした止幾子であったが、
    その行動はあまりにも無謀で無節操な行動だったのではないか。
    処罰(中追放)を受けて、常陸国(止幾子の生誕地・錫高野)への立ち入りは禁じられていたのだが、
    密かに錫高野に戻り、私塾を開催する。
    
     明治5(1872)年に明治政府は学制を発布、止幾子の私塾は錫高野小学校の教場となり、
    止幾子は小学校教師に任命される。
    「日本における最初の女性教師」と言われる所以です。
    しかし、これにも疑問の点があるようです。
    時間はかかりますが、後日に稿を進めたいと思います。
                                  (つづく)
     (読書案内)№157                  (2020.11.2記)
    

          

             

         

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読書案内「黒澤止幾子伝と渾沌」-時代に創られた偉人- ②

2020-10-03 06:00:00 | 読書案内

公開前の下書き記事を一部の皆さんに提供してしまいました。お詫びします。
完全版をアップしましたので、よろしくお願いします。

読書案内「黒澤止幾子」-時代に創られた偉人- 
②軍鶏駕籠(かご)に載せられ大阪から江戸へ
                               

(数少ない止幾子の写真)

(黒澤止幾子の生家)
随分前の頃の写真です。2013年頃の写真を見ると茅葺(かやぶき)屋根は一部朽ち、特に屋根のてっぺん・「ぐし」は崩れています。

 出入口(正面右)は当時の面影を残していますが、居室等部屋の方はアルミサッシになっていました。
20数年前に訪れた時はアルミサッシではなかったように思います。
(2016年頃の様子)
近年の動き
  茨城新聞2006年10.19及び毎日新聞2007年3.28の記事から抜粋。
   生家は築400年とも云われています。茅葺屋根の日本家屋で、止幾子が活躍した寺子屋の机や
  土間、機織り機、民具などが展示されている。平成9(1997)年には、敷地内に止幾子資料館もできた。
      
顕彰碑敷地内にある。
   だが、残念なことにこの土地を所有する6代目の子孫の経営する印刷機製造会社の資金繰りが悪化
  し、工場をはじめとする止幾の生家の土地が競売に掛けざるを得なかった。物件は10件に分かれ、う
  ち一つが生家にかかっているとみられる。生家の修復や保存に関わって来た。隣接の「とき蕎麦」店
  主の大沢さんは、「伝記だけではなく生家があれば、実感をもって止幾を知ることができる」とはな
  す。(茨城新聞)(毎日新聞)
   住民の一部は、生家を町の文化財に指定するよう求めて著名運動を始めた(毎日新聞)。

   私が調べた「近年の動き」は、ここまでで、現在の状況については後日の調査を待ってほしい。

止幾子、軍鶏駕籠で江戸へ護送
  献上「長歌」を座田右兵衛之大尉に依頼し、その結果も待たずに、翌日早朝大阪に出立したのは
 なぜか。以下前回に続いて京都捕之文にそって止幾子の行動を追ってみましょう(要約)。

 安政6(1859)年3月29日 大阪へ下り、八軒屋の枡屋市兵衛の宿に入る。
                                 30日    雨。……近所に住む俳諧師に「長らくご逗留ください」などと云われたが、
             いずれ四国巡りの予定もあるので、その戻りに又お邪魔いたしますと云って、
             その夜はゆっくり休みました。
                              4月1日   風が激しく外出もできない。大塩平八郎の本を繰り返し読んで涙を流した。
             銭湯の帰り、京都からの使いだがお尋ねの件でと云って袂から取縄を出し……
             しばられて連行された。時に五十四歳お国のために生まれて初めて逮捕され、
              ……。
             ※【大塩平八郎の乱】江戸時代末ごろの陽明学者。大坂町奉行の与力であったが、
                引退後、家塾で陽明学を教えた。天保の飢饉で苦しむ人々を救おうと、たびたび
                奉行所へ訴えたが取り上ちげられず、農民300人を集めて「救民」の旗を立て、反
                乱を起こした(大塩平八郎の乱)。
                反乱は一日で鎮圧され、平八郎は自殺した。平八郎らの反乱は、幕府が直接におさめる都
                市で、幕府の元役人が起こした反乱であったので、幕府を驚かせた。
                またこのあと、この乱に影響され、各地で一揆や打ちこわしがおこった。
        止幾子は漢学や国学に長じていたので、この時読んでいた本は、「大塩平八郎の乱」
      の関連本なのかもしれません。大塩の著書では『洗心洞劄記(せんしんどうさつき
)
      などもあるが、これは大塩の陽明学に基ずく読書ノートである。
      いずれにしろ、安政6年のこの時期は、井伊直弼の思想弾圧と言われる「安政の大獄」
      の真っ只中で、反幕府の大塩平八郎の本を読めば探索側に疑いを掛けられてもおかしく
      
ないと思われる。
        
                 .
                 
4月2日 調べられているうちに旅道具の中から長歌の下書きを見つけられました。
              明け方の四時頃になって牢屋敷の未決囚部屋に連れていかれ、衣服、
                                             帯それに絹物はえり袖口まではぎ取られ、髪もこわして櫛、かんざしも
                   取り上げられました。
        4月11日   大阪奉行所の白砂に座らされて遠慮はいらぬから細かく申せというので、
              申し上げるのも恐れ多いことながら、水戸様のご謹慎は無実の罪に陥れら
                                             れたと聞いて、この事を陛下に言上奉るために上京して参ったと話しました。

         容疑者(幕府方の女間諜)としての本格的な取り調べが始まる。大阪奉行所の取り調べ
         は5月7日ごろまで続き、15日には軍鶏駕籠に乗せられ江戸送りになり、引き続き取
         り調べが行われた。

         さて、黒澤止幾子への容疑は、水戸の殿様・徳川斉昭九代将軍(十五代将軍・徳川慶
         喜の実父)の無実を訴えるための『長歌』を奏上し、その下書きが露見したことに起
         因する。
         その長歌の内容はどんな内容だったのだろうか。
         次回は長歌の内容に触れながら、止幾子の行動についてもう少し詳しく触れてみた
         いと思います。
                                        (つづく)
                
            (読書案内№156)    (2020.10.2記)


        

 

               
                     

 

 

 

 

 


 
              

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読書案内「黒澤止幾子伝と渾沌」 時代に創られた偉人 ①

2020-09-23 14:12:40 | 読書案内

読書案内「黒澤止幾子伝と渾沌」湯浅由三著
          時代に創られた偉人 ① 錫高野から京都まで……

   
(幻冬舎文庫 2020.6第1刷)     (黒澤止幾子 ウィキペディアより)

 黒澤止幾子
  文化3(1807)年生 明治23(1890)年死去 85歳
  名前 登幾子、とき子、時子、止幾、李恭(りきょう) 止幾子
            墓碑銘には「止幾子」と刻んであり、一般の呼び名もこれを使用している。
    茨城郡高野村(城里町錫高野)の修験道場・宝寿院に生まれるも、
    幼い頃に父と離別、祖父や養父から漢学、国学などを学び、
    後年「日本初の女性教師」と言われる素地はこの時に養われた。
    死後17年たった1907年明治政府から従五位を追贈される。

    26歳。夫と死別し錫高野の実家に戻る。
    その後20年間、櫛(くし)や簪(かんざし)の行商で生計を立てていが、
    漢学や国学の豊かな知識を見込まれ、地元子弟たちの教育にもあたった。
    行商をしながら得た各地の文人たちとの交流もあり、
    俳諧、漢詩、和歌などにも通暁するようになった。

    安政元(1854)年 養父の私塾を受け継ぐ。
    止幾子47歳。
    
    ここまでの止幾子の生活に「勤皇の女傑」「初の女教師」という活動は見当たらない。
    働き者で当時としては、教養のある女性という以外、
    後年語り継がれる偉人としての形跡は見当たらない。
    まして、明治40(1907)
年(止幾子死去後17年を経て)従五位を追贈されるような痕跡はない。
    しかし、私塾を任(まか)され平穏な日々を送ったのはわずか4年であった。

    安政5年(1858)年 安政の大獄
    大老井伊直弼による、当時の幕政に反対、批判的な人物を捉え、徹底的な弾圧を加えた事件で連
    座したものは100名以上に上る。
    例を挙げれば、橋本左内、吉田松陰、頼幹三郎等斬罪、獄死、切腹したもの14名。
    隠居・謹慎 一橋慶喜、松平春嶽、徳川慶篤、山内容堂等15名
    永蟄居 前水戸藩主・徳川斉昭等3名
     斉昭は天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を調印した大老・井伊直弼を詰問するため不時登
     城したことを理由に謹慎・永蟄居に処せられた。
     安政の大獄の始まりです。
     
     尊皇攘夷の世論の急先鋒でもあった水戸の殿様を初め多くの水戸藩士が弾圧され、
     罪に問われた。
     
     黒澤止幾子は殿様の幽閉を悲しみ、斉昭らの無実を訴えるために単身京へ上り、
     君主の無実を訴える思いを「長歌」にしたため朝廷に献上しようとしました。
     安政6年2月22日、茨城・錫高野の故郷の地を単身出立します。
     止幾子54歳。
    
     当時、東海道は取り締まりが非常に厳重なため、
     錫高野から笠間を経て下館を通り群馬の桐生から草津に到着したのは3月2日だった。
     更に、信州路から長野、松本、塩尻をへて、関ヶ原をぬけ大津から京都に入る。
     安政6(1859)年3月25日 念願の京都に到着。
     24日を費やした老年女の一人旅でした。

     幕末の勤皇攘夷の風が世間を騒がせ、世情穏やかならざるあの時代に
     なんの後ろ盾もなく、「長歌」を懐中にして、
     水戸の殿様(この時点で斉昭はすでに隠居の身)の無実を訴えるべく、
     単身京都を目指した止幾子の行動に後年「勤皇の女傑」と言われた所以があったのでしょう。
     しかし、これだけの行動で「勤皇の女傑」と称されるのはどうなのか、
     という疑問が残ります。

                  さて、京都に着いた止幾子は、水戸の人がよく利用する扇屋に泊まる。
     京都到着3日後の3月28日、朝廷に差し出す献上の長歌を座田右兵衛之大尉に依頼する。
          ※ 座田右兵衛之大尉は、幕末のころ、実務にたけた官人でありながら、儒学と国学を兼ねた学者にして、
                尊皇思想の実践家として重要な働きをした。その立場上、表立って指導していくことはなかったが、
                時の関白や大臣、または公卿の間を取り持ち、時には利用し、事を処理していく実務面に能力を発揮した。
                (京都産業大学 学術リポジトリ 「座田右兵右衛門維貞」の冒頭より引用)
      その日の日記(京都捕之文)に、止幾子は下記のように記している。
       いとまを告げて烏丸(扇屋)の旅館に帰りました。その夜は一睡もできずに考えました。
       あの長歌をそのまま預け置けば、天朝へ届くか或いは幕府へ届くか二つに一つ、これは
       大変なことになると。(引用)
    「これは大変なことになる」と夜も眠れぬほど心配した割には、その結果も待たずに、
    止幾子は翌朝早朝に宿を出て清水寺や伏見稲荷を詣で、
    淀船に乗って大阪へ下って行ってしまいます。なぜ、郷里の錫高野に向かわず、
    大阪に向かったのでしょう。
    ちょと違和感を感じる止幾子の行動です。
    推測される理由は二つ。
      ① 京都以外に目的地があった。
      ② 探索の追及が厳しくなった。しかし、これは郷里の錫高野と反対の方向に足を向けた
       ことを考えれば、除外してもいい。
                                    (つづく)
      (読書紹介№155)       (2020.9.23記)

     次回 献上「長歌」の結末と「日本最初の女教師」にっいて。                             
     
 


              


    
  

 

 

 

 

 

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読書案内「星と祭」井上靖著

2020-09-14 06:00:00 | 読書案内

読書案内「星と祭」井上靖著
     愛する娘の突然の死、父の哀しみは深い……
(1971年から約1年 朝日新聞に連載)
( 能美舎 2019.10 第1刷 復刻版 )        (1972発行 絶版で入手困難)
 
生きることは、喪失の連続?
   人生とは意気に感じれば、楽しみも多い。生きがいも感じられる。
   だが、人生行路は楽しみや喜びだけではない。
   仏教の教えは、「生老病死」といい、4っつの苦しみを挙げている。
   「生」きることそのものが「苦」であると、老いることも、病も、やがて訪れる死も
   すべて「苦」という概念でとらえようとしている。

   長い人生行路の過程では、突然襲い来る「悲しみ」がある。

   小説「星と祭」では、わが娘を突然の事故で失くした親の
   苦しみや悲しみを、淡々とつづり、喪失の悲しみを、
   わが子の突然の死を通じて描いている。

   離婚して母の下で育てられた高校生のみはるが、大学生の青年と琵琶湖でボート
   転覆という思いがけない事件で短い一生を終える。
   父親の架山が全く知らない大学生の青年とボートの転覆事故。
   二人の遺体が上がらないまま7年の歳月が流れ、癒されることのない時間が流れる。
   この7年間は、法的には「行方不明」ということになる。葬儀もできずにいるから、
   心のよりどころもないままの辛い七年であったろう。
   72歳になった架山は、7年を経てやっとあの日の事故現場を、
   事故以来初めて訪れることになる。

   
少女みはるの父「架山」…… 堅実な発展をしている貿易会社の経営者
   大学生の青年の父「大三浦」…… 従業員数十名の町工場の経営者
   子を喪った悲しみは深いが、それぞれの喪った子どもへの思いは異なっている。
   架山はヒマラヤの山中で輝く星と対峙し、娘を失くした哀しみを「永劫」、
   つまり果てのない長い時間の中でとらえようとする。

   私は14歳の孫を喪ったとき
   哀しみは癒されることなく、果てのない時間の中で
   一日が始まり、終わった。
   窓辺から眺める月や星、そして風。
   全てのものが喪った人への思いへと繋がっていき、
   いったいいつになったらこの哀しみを越えて生きられる時が来るのだろうか。
   「旅人になりたい」と言っていた孫のことを思い、
   天空を仰げば孫の翔が、空の高みから舞い降りてくるような錯覚におちいり、
   「じいちゃん、ぼく元気だからね」という声が聞こえてきたり、
   深夜に階下を走る幼児の足音を、何度も聞き、翔が還って来たと、
   ベッドの中で枕を濡らす日々が幾夜もつづいた。

   哀しみに繋がる思い出は今でも消えることなく、
   おそらくは、生涯消えることのない哀しみとして残っていくのだろうと思っている。

   話を本題に戻します。
   架山や大三浦がたどり着いた悲しみの弔いは、琵琶湖周辺に点在する観音堂に祀られている
   観音様に対面することだった。
   二人にとって観音様との対面は、不思議な安堵感をもたらし、
   自分の内面に沈んだ深い悲しみを浄化していく行為でもあった。

   湖底に沈んだ二つの遺体はついに姿を現すことがなかった。
   葬儀もできず、戸籍から抜くこともできない中途半端な現実が
   7年の時間を経て死亡届を出すという現実的な時間となって架山と大三浦に訪れる。
   7年の長い時間は、「子どもたちの死」を認め、哀しみを乗り越えて生きていくための
   試練の道でもあったのでしょう。
    架山は娘の死を「運命」と捉え、何とか哀しみを乗り越えようとしているが、
    大三浦は何時までも哀しみを抱き続けている。
    そうした二人がたどり着いたのが、琵琶湖畔に点在する十一面観音を巡って手を合わせ、
    湖底に沈んだそれぞれの子どもたちの霊を祀って、
    鎮魂を願うことで互いの哀しみを乗り越えようとする。
    小説ではこの期間を「殯(もがり)」のための長い時間だったと架山に言わせている。

                (もがり)とは、日本の古代に行われていた葬送儀礼。 死者を埋葬するまでの長い期間、
                     遺体を納棺して仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつ
                     も遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認す
                     ること。 その柩を安置する場所をも指すことがある。】(ウィキペディア)

  著者・井上靖は「自作解題」で次のように述べている。
   私は一番の問題は子供の死という事実をいかに納得するかということではないかと思います。
   運命だと観じることによって諦めへの道をとるか、あきらめることはできないで、永遠に悲しみを
   懐いて、祀ることによって不幸な死者の鎮魂を願うか、この二つのうちのいずれかではないかとい
   う見方をしています。(引用)
 
 かけがえのない大切な人を喪い、悲嘆にくれ、
 生きる力を失くすような深い哀しみに襲われるが、
 長い時間をかけて、人は生きる力を取りもどしていく。
 だが、哀しみが癒されることはない。
 14歳の私の孫・翔はいつまでも14歳で、
 私だけが歳を取っていく。
 今、私はやっと天に昇った14歳の翔と一緒に、
 日々を生きていくことができるようになった。
 こういう心境が「祀る」ということであり、
 「魂の鎮魂」ということなのかと、
 コロナの夏を元気に生きることができました。

 小説「星と祭」の「星」は運命を現し、
 祭りは鎮魂を意味しているようです。

    「翔」のことは「翔の哀歌」というタイトル(カテゴリー)で
    15回に分けて当時の心境をまとめています。

 (読書案内№154)       (2020.9.13記)

 

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読書案内「風にそよぐ墓標」 父と息子の日航機墜落事故

2020-08-17 17:40:28 | 読書案内

読書案内「風にそよぐ墓標」
       父と息子の日航機墜落事故
 
             ブックデータ: 集英社2010年8月12日刊 第1刷 門田隆将 著

35年前の8月12日午後6時56分、羽田発伊丹行きの日本空港123便(ボーイング747ジャンボジェット機)が、群馬県上野村御巣鷹の尾根に墜落した。
 乗員乗客524人の内520人が犠牲となった。
 単独機としては、史上最大の事故だった。
 標高1500メートルの尾根筋の急斜面に、樹々をなぎ倒し、ボーイング747はほぼバラバラになり長い帯
 のように残骸をさらし、人の原型をとどめぬほど損壊の激しい遺体も事故現場を埋め尽くしていた。

  灼熱灼熱の太陽にさらさらた愛する者の肉体は、みるみる変質し、異臭を放って腐敗を始めた。日が
 経つにつれ、それは耐えがたきものになった。しかし、家族は、肉親を家に連れて帰るために、その中
 で気も狂わんばかりの身元確認作業をおこなった。

 「風にそよぐ墓標」冒頭に描写された、事故現場の状況であ。(この記事を書くにあたり、他のルポル
 タージュにも目を通してみたが、あまりにも悲惨な現場の状況を一切の感情を抑えて、燦燦たる状況を
 描写したものもあったが、ここではそれが目的ではないので、紹介を控えた)

  息子、娘、夫、妻、父親、母親……何の予兆もなく突然、愛するものを奪われた家族たちは、うろた
 え、動揺し、泣き叫び、茫然となった。(略)
 極限の哀しみの中に放り込まれた時、人はどんな行動に出て、どうその絶望を克服していくのか、また
 哀しみの「時」というのは、いつまでその針を刻み続けるのだろうか。
                                                                  
   「はじめに」で述べた著者の言葉が、このルポルタージュの目的だ。
   今から25年前に、遺族に会い、書かれた本である。
   事故に遭い、それぞれの哀しみを背負った遺族たちが、重い口を開いて語り始めた。
   心の整理が進み、あの時の哀しみを語るには、25年という長い時間が必要だったのだろう。
   哀しみに沈み、成す術もなく暮らした最初の10年。
   次の10年は生活の立て直しと、生きる気力をを立て直すための10年。
   時が流れ、遺族たちの子供たちが成長し、子供を亡くした親は年を重ね、
   苦労の重みで白髪も増えてきた。
   何年たとうとも、「哀しみ」は浄化されることはないだろう。
   あるとすれば、時の流れの中で、鮮烈な記憶が少しずつ遠ざかっていくことだろう。

  「風にそよぐ墓標」は、ブックデーターにも示しましたが、今から10年前の2010年、
つまり、事故から25年目に書かれたノンフィクションです。
6人の遺族に焦点を当て、辛い25年を振りかえり、
その辛さを乗り越えていく「強さ」を描いていく著者の優しい思いがある。

 第一章「風にそよぐ墓標」
   舘寛敬(ひろゆき)さんが、御巣鷹山で父を亡くしたのは15歳の夏だった。
   あれから25年。40歳になり、結婚もした。
   だが、この25年間8月が近づいてくると、きまって悪夢にうなされる。
   あの日、御巣鷹の事故現場に向かうバスの中で、日航の職員に食ってかかった。
   「(パパを)返してください! 今すぐ!」
           夜になると、弁当が運び込まれてきたが、母は相変わらず食べようとしない。
   「食べんと死ぬぞ」15歳の少年・舘寛敬は母を諭すように告げる。
   「パパは食べてないやん。私もいらん」
   常軌を喪った母に15歳の少年は、無理に即席のうどんを食べさせた。

   現場に行きたい、現場に行ったら、あの人に会える……
   現実と夢や妄想の区別が、
   この時の須美子には、つかなくなっていたのかもしれないと著者は記録する。

   事故現場へつづく道は、森と藪を切り開いて作られていた。
   今でこそ、麓の駐車場から30~40分で到着できる道が整備されているが、
   上野村側のルートは閉鎖され、
   当時は自衛隊や地元の消防隊員が切り開いた岨道を行くしかなかった。

          歩いても歩いても先が見えない道。
     森や林を縫うようにして歩く。いったい、どれだけ歩けば事故現場にたどり
つけるのか。
     突然、道が開け、想像もしなかった景色が飛び込んできた。
     目の前に広がるお花畑。
     憔悴してぼろぼろになった母。
    「ああ、きれい…」「親父は(死ぬ)直前にこのきれいな景色が見れたんだ…」
          そう思うことで、一瞬哀しみで一杯になった心が癒された。
    
     もう引き返さなければ部分遺体の公開に間に合わない。
           「親父、行きたいけど、これ以上は行けない……」
   背負っていったリュックから紙を出し、須美子は次のように書いた。
   舘 征夫 昭和十七年九月十三日生
   ここはとってもお花のきれいな所です。
   やすらかにねむって下さい。
   もう苦しくありません
    それを、木の枝に差し込み、持って行った果物をその前に置いた。
    須美子はその「紙の墓標」に手を合わせ、
    寛敬は詩文の靴の靴ひもを抜き出し、紙の前に置いた。
    「親父、ここまでしか来れなかったよ。もう引き返さないといけない。ごめんね」
    四十歳になった寛敬は、この時のことをはっきり記憶しているという。

    母子が残したお花畑の「紙の墓標」は、ここを通りかかった新聞記者の手によって、
    八月十八日、読売新聞朝刊に報じられた。
    墜落現場に通じる三国峠近くの登山口から約一キロ歩いた急斜面のお花畑に十七日、
    犠牲者の家族らが供えた「紙の墓標」が建てられた。ヤマユリ、アザミ、リンドウなどに囲まれ 
    た、はがきほどの大きさの白い墓標は吹き渡る風に静かに揺れていた。
    記事は写真入りで紹介された。

    この後、親子にとっては、損傷が激しくぼろぼろに千切れた遺体の確認作業が待っていた。
    哀しく、辛い地獄を彷徨うような作業を、母に代わって十五歳の少年は果敢に挑むのだが、
    私の拙い表現力では、とても紹介できるものではない。
    墜落事故から25年を経た時間の経過が、その過酷な作業を母子は丁寧に語り、筆者はそれを
    感情を抑えて冷静に受け止め、淡々と文章にしている。
    
    この章の最後に筆者は次のように書いて章を閉じる。
    寛敬が、とてつもなく大きかった父という存在を客観的に捉えることができるまでには、四半世
    紀という気の遠くなるような歳月が必要だったのである。と。

    PS: 「風にそよぐ墓標」を紹介するにあたり、六章に分けられた家族の「父と子」の物語を全部紹
      介するつもりだったが、それは非常辛い作業だつた。
      結局私は、表題にもなっている第一章「風にそよぐ墓標」のみの紹介になってしまった。
      このノンフィクションに流れているものは、
      「どんなに辛く、悲しい体験をしても、人間は時間の経過とともに立ち直っていく強い力を
      持っている」という著者の心なのかもしれない。
      この本の扉の裏に引用された明治の文豪・田山花袋の詞を引用して、
      このブログを閉じます。

      絶望と悲哀と寂寞とに堪へ得らるるごとき勇者たれ
                    運命に従ふものを勇者といふ
                               田山花袋
     この本の内容にふさわしい含蓄のある詞である。
     日航機墜落35年目の夏、コロナ禍の影響や高齢で御巣鷹山登山に参加できなかった
     遺族も多いと聞きます。
     尾根は、1500メートルを超える急斜面にある。登山道の整備が進んだとはいえ、
     急な階段がいくつもあり、入口の駐車場から40分ほどかかる険しい道だ。
     35年の時の経過は、人々の記憶を少しずつ忘却の彼方へと押しやってしまう。
     私たちは、人知れず風にそよいでいた「紙の墓標」のことを、忘れてはいけない。
     お花畑を渡る高原の風が、今日も「紙の墓標」を人知れず揺らしているのでしょうか……

     全ての遺族の方々に奉げたい言葉である。


    (読書紹介№153)         (2020.08.17記)


    

    

   
   
   


 


  



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安楽死か、嘱託殺人か 小説 『ドクター・デスの遺産』から考える

2020-07-25 18:00:00 | 読書案内

安楽死か 嘱託殺人か
 小説「ドクター・デスの遺産」から考える。(2017.12.26記事・改訂版)
    
 衝撃的な事件である。
 朝日新聞一面トップ4段ぬきと、社会面の全面を使っで次のタイトルが躍る。
 嘱託殺人容疑 医師2人逮捕 ALS
患者に薬投与 SNSで接触か(朝日7/24)
    更に社会面でより具体的に事件を伝えている。
 逮捕の医師「安楽死」肯定か 
   ALS患者嘱託殺人容疑ネットで主張 被害女性、難病の苦悩投稿か
 一面の補足記事として
   「生きる権利、守る社会に」(同病)患者ら訴え
   「積極的安楽死」日本では認めず
紙面を占める割合から、この事件が容易ならざる問題を含んでいることが分かります。
 翌7/25の記事は社会面約3/2を割(さ)いて、事件に至るまでの経過を載せている。
 初対面 10分で殺害か 知人装い訪問
 容疑者が被害女性とツイッター
   「追訴されないならお手伝い」「自然な最後まで導きます」
 事件の詳細をお知らせするブログではないので、新聞タイトルだけを挙げてみました。
 概要は理解できると思います。
   筋萎縮性側索硬化症(ALS)の一人暮らしの介護が24時間必要な患者が、SNSで
   「こんな姿で生きたくないよ」「安楽死させてほしい」という訴えに、2人の医師が
   反応した。
   安楽死は古くて新しい問題だ。ターミナルケアの技術が発展し、
   静かに苦痛なく最期を迎えたいと願うのは万人の希望だろう。

 

安楽死について考えてみよう。
 「命の尊厳」と「死ぬ権利」の狭間で、二者択一ではなく、
 人間として最後に迎える死を「命の尊厳」を保ちながら
 穏やかな死を迎えるためには、「医の倫理」をふまえ、
 安楽死の問題を考えなければならない。

 かって末期がん患者に塩化カリウムを投与し、殺人罪に問われた医師への判決(1995年)で、
 例外的に延命中止が認められる4つの指針がしめされた。
 この指針は、下記の「ドクター・デスの遺産」の中で書きましたが、
 大切なことなので述べておきます。
  ① 死が避けられず死期が迫っている。
  ② 堪えがたい肉体的苦痛がある。
  ③ 苦痛を除く方法を尽くした。
  ④ 安楽死を望む意志が明らか。
 今回の事件は①~④のどれにも該当しない。
  ④はどうか。
   SNSで、「安楽死させてほしい』と明確に意思表示しているではないか。
   主治医が長いかかわりの中で①~④の指針を当てはめ、①~③に該当するとしても、
   ④の意志が本当にあるのかどうか、長い時間をかけて、本人の意思を確認する必要があり、
   家族など親しい人に見守られて、延命中止を行うことが望ましい。
   
   とすれば、今回の事件は、現金が振り込まれた後に、患者宅を訪れ、
   10分ぐらいで実行している。
   余りにも「医の倫理」から逸脱した無謀な行為といわざるを得ない。

   日本では、安楽死は認めていないから、嘱託殺人になるのでしょう
   それにしても、余りに無謀な、医師としての倫理に欠けた行為に、憤りを感じます。
   自ら望んだ「死」であっても、肉親や親しい人や優しい人も誰一人立ち会うことのない
   臨終の場に心無い初対面の医師だけという荒涼とした風景を思うと、
   こころが痛みます。
        (昨日の風 今日の風№112)   (2020.7.25)

   
  
 
ドクター・デスの遺産 中山七里著 角川書店 2017.6再販

 
 警視庁にひとりの少年から「悪いお医者さんがうちに来てお父さんを殺した」との通報が入る。
当初はいたずら電話かと思われたが、
捜査一課の高千穂明日香は少年の声からその真剣さを感じ取り、
犬養隼人刑事とともに少年の自宅を訪ねる。
すると、少年の父親の通夜が行われていた。
少年に事情を聞くと、見知らぬ医者と思われる男がやってきて父親に注射を打ったという。
日本では認められていない安楽死を請け負う医師の存在が浮上するが、少年の母親はそれを断固否定した。次第に少年と母親の発言の食い違いが明らかになる。そんななか、同じような第二の事件が起こる――。
                                    ( ブックデーターから引用)
 次々に起こる安楽死事件は、近親者の依頼を受けた「ドクター・デス」が関わりを持つ事件だ。
現行法では殺人事件として警察の追求を受ける。
「ドクター・デス」とは何者か。
安楽死の要請があった家や病室を影のように訪れ、
苦しむ患者に安楽死の施術をしていく。
難病の娘を持つ犬養刑事はこの娘を使い、
囮捜査でドクターデスをおびき寄せる。
サスペンスにとんだミステリーを「安楽死問題」という重いテーマを絡めた作品だが、
テーマが重いわりには、読者の心に響いてくるものがない。

 医療とは、安楽死とは、尊厳死とは。
この辺の問題をもう少し掘り下げて表現できれば、
味わい深い作品になるのだが……。
ドクター・デスが法を犯してまでも進めていこうとした安楽死、
表題の「ドクター・デスの遺産」とは何だったのだろう。
作者が読者に投げ掛けた課題でもある。

「犯人は捕まえたが罪を捕まえられなかった」という犬養刑事の言葉が
このミステリーの全てを語っているように思えます。

 安楽死を扱った小説に森鴎外の「高瀬舟」という短編があります。
 興味のある方は是非一読をお勧めします。
安楽死について
 安楽死について次のような判例があります。
患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいること、
死が避けられず死期が迫っていること、
患者の苦痛を除去・緩和する他の手段がないこと、
生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示のあること。

 この条件が必要であり、医師による末期患者に対する積極的安楽死が許される。
としているが、現実にはこれらの条件が満たされていても、
現役の医師が安楽死を遂行することはまずありません。

この小説のように、
塩化カリウム製剤を注射し心筋にショックを与えれば、
やがて患者は心肺停止し、
死にいたるような医療行為は、
日本の現行法では立派な犯罪になります。
現実には、延命治療を拒否し、ターミナルケアを受け、
消極的な安楽死を望む患者も多い。
命の尊厳という視点から考えれは、
日本人の生死観に沿っているように思います。
ちなみに、日本尊厳死協会では、
尊厳死とは患者が「不治かつ末期」になったとき、
自分の意思で延命治療をやめてもらい安らかに、
人間らしい死をとげること、と定義しています。
    (読書案内№117)

 
コメント (2)
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