goo blog サービス終了のお知らせ 

雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

『雪』① 北越雪譜

2022-01-23 10:32:40 | つれづれに……

『雪』 北越雪譜 雪道(ゆきみち)
  改訂版: 関連写真を添付しました。
   日本海側の雪が今年も猛威を振るっているようだ。
   毎年、もう10年も通い続けている秘湯も、今年はコロナのせいもあり、
   行くことを中止した。巨大なつららが軒先から下がり、
   どっぷりと雪に埋もれた一軒宿は、今年は更に雪が降り
   家も野も山も雪に埋もれているに違いない。
   
北越雪譜より  雪道

 冬の雪は脆(やはらか)なるゆゑ人の𨂻固(ふみかため)跡を行くはやすけれど、来往(ゆきき)の旅人一宿の夜大雪降らば踏み固めたる一条の雪道、雪に埋まり道を失うゆゑ、野原にいたりては方位をわかちがたし。

  一晩のうちにたくさんの雪が降って、道との境さえわからなくなる。
  野原にいたっては方向さえわからなくなってしまう。
  こんなときは、里人を幾十人雇って、
  里人がかんじきをはいて踏み固めた後を歩かざるを得ない。
  里人には幾ばくかの銭を払わなければならないので、
  懐具合の寂しい人は、誰かが踏み固めるのを待って、むなしく時を過ごすときもある。
  健脚の飛脚でさえ雪道を行くのは一日に、二三里しか進めない。
     

「かんじき」と「藁沓」(わらぐつ) ハツハキとは脛当てのこと。深沓を履いてハツハキをつけ、かんじきを履いて「雪を漕ぐ」
                     昔の雪国の生活が浮かんできます。

 (かんじき)にて足自在ならず、雪膝を越すゆゑ也。これ冬の雪中一ツの艱難(かんなん)なり。春は雪凍りて銕石(てっせき)のごとくなれば、雪舟(そり)を以て重きを乗す。里人は雪舟に物をのせ、おのれものりて雪上を行く事舟のごとくす。雪中は牛馬の足立たざるゆゑすべて雪舟を用ふ。春の雪中重(おも)きを負(おは)しむる事牛馬に勝る。雪国の便利第一の用具也。

       そりのことを「雪舟」とか「雪車」と表現したようですね。
           雪に埋もれ、雪と戦う里人の生活をいきいきと描いて、
     雪国を全く知らない江戸に生きる人々への旅行案内書として、ベストセラーになった本である。

    「しばれる冬」に雪が降り、秋田には「さんび」(寒いという意味)という言葉があり、
    これを新潟では「さーめ」(寒い)と言うそうです。

    雪が稀にしか降らない土地では、「雪払い」といい、すこし積もった雪は「雪かき」と言うが、
    雪で家が埋もれてしまうような大雪では、「雪堀り」という言葉があり、屋根から降ろした雪を道
    路のキワなどに積み上げる作業は「堀揚げ」と云うそうです。
    膝まで埋まるような雪の中をかんじきを履いて歩くことを「雪を漕ぐ」という。
    雪国独特の昔からの言葉ですね。

    天気予報によると寒波はまだ続くようです。
    オミクロン株も猛威を振るい、
    その感染力の強さに誰が感染しても不思議ではない状況が続いています。
    御身ご自愛を…

                         ブックデーター:北越雪譜
                            岩波文庫 1936年1月初版 2004年12月第59刷刊
                            鈴木牧之編撰 京山人百樹冊定

 

   北越雪譜についてはちょうど一年前に書いたので参考までに
   過去ログの掲載日とタイトルを挙げておきます。
    タイトル 北越雪譜 雪崩人に災いす
          ①栄村 十日町 津南町を思う  掲載日 2021.1.16
          ②あるじが帰ってこない         2021.1.21
          ③あるじは雪に喰われた         2021.1.27
          ④番外編 「雪国を江戸で読む」     2021.1.31
      (つれづれに……心もよう№123)     (2022.1.22記)

            

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

逝きて還らぬ人を詠う ⑥ 本当は誰かの胸で泣きじゃくり……

2022-01-16 06:30:00 | 人生を謳う

逝きて還らぬ人を詠う ⑥ 本当は誰かの胸で泣きじゃくり……

      『大切な人が逝ってしまう。
    
人の世の宿命とは言え、余りに辛い体験はいつまでたっても心が癒されない。       
    悲しいことではあるけれど、
人間(ひと)はいつかはこの試練を乗り越えて生きていかな
 ければならない。
死は予測された時間の中をゆっくり訪れる場合もあり、突然訪れる
 場合もある。
どちらの場合も、無常観と切り離すことはできない』

 〇 次々に録画されゆく番組は昨日逝きし妻の予約なり 
                     
…… 神蔵 勇 朝日歌壇  2020.9.27
             人の命は「今日一日」が何事もなく、過ぎてくれればそれでよしとしなければならない。
     その上で、一つぐらいほっこりするようなことに巡り会うことができたら、「幸せ」と
     思えれば、今日一日を生きられたことに感謝することができる。

      いまの一瞬を生きることができれば、
   「明日世界が滅亡することを知っていても、今日私はリンゴの木を植える」
     と言った偉人は誰だったか。
    決然と生きる覚悟がうかがえる。
      今日生きることができても、明日どう生きられるかは誰にもわからない。
      神蔵さんの句は、そのような一面を捉えている。おそらくは突然に逝ってしまった愛しい妻への
     鎮魂歌なのでしょう。故人が愛用した帽子を見ても、玄関に残されたお気に入りの靴をみても、
     愛しい妻の在りし日の姿を追い求めている自分がいる。
             おそらく故人は連ドラの録画予約をしておいたのでしよう。この故人の行為が、突然の死を読者に連想させ、
     残された者の悲しみが、読者に伝わってきます。
     

 〇 コロナ禍の世をコロナにも侵されず妻は己れが癌細胞に逝く 

                      …… (豊中市)  山本 孟 朝日歌壇 2020-8-09
     丈夫だった妻が癌に冒され逝ってしまった。元気だった妻を思うとき、
   「あんなに元気だった」妻の命を襲った癌細胞の非情さを、日々思うわが身を寂寥感が被っています。
 
 〇 お別れが悲しいのではないちゃんと愛されなかったことが悲しい 

                      …… (東京都)  上田結香 朝日歌壇 2020-07-05
   作者の人生にどのようなドラマがあったのか。
  「愛されなかったことが悲しい」と誰にも言えない胸のうちの煩悶を、自分にささやいてみる。
   最後のお別れの悲しみにも増して、「愛されなかった」ことへの悲しみが、胸のうちに広がって行く。
    もの言わぬ個人を前にして、無言のサヨウナラをつぶやく………
   

 

 〇 本当は誰かの胸で泣きじゃくり弱虫さらけ出せばあきらめつくかも 

                      …… (三鷹市)  山室咲子 朝日歌壇 2020-07-05

   「本当は」というところに、作者の理性と自制心を感じます。
  でも、かろうじて悲しみを胸のうちにしまい込むよりも、理性と自制心をかなぐり捨てて幼児のように
  声をあげて暖かくてやさしい胸のうちに飛び込めたらどんなに楽になれるだろうと
  わかっているのにそれができない自分がいる。
  「逝きて還らぬ人」の項目で取り上げたが、長い人生のどこかで、
  行き詰まりの土壇場に立たされ次の一歩が踏み出せなくて逡巡するときが一つや二つ誰にもある。
  試練を乗り越えて人は強くなっていく。

(人生を謳う)        (2021.01.15記)

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナ感染 米軍基地周辺の感染者

2022-01-11 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

コロナ感染 米軍基地周辺の感染者
  各地の在日米軍基地で新型コロナウイルスの大規模な感染が相次ぎ、
  その地元への住民の感染が拡大している。(朝日新聞1月6日朝刊)

  米軍関係者は日米地位協定に基づき、日本側の権益の対象になっていない。
  極論を言えば、日本からの出国も日本への入国も
  日本側の水際対策を受けなくても、基地からの出入国は自由にできることになる。
  だから政府は在日米軍と、日本の水際対策に近い「整合的」な措置をとることを確認していたが、
  米側の対応はあまりにも杜撰であった。

米側の感染対策は、
  入国後5日目以降にPCR検査をするのみで、
  出国前や入国直後の検査は行っていなかった。

     入出国に、基地を出て、基地に帰って来る基地関係者に対して、
   なんと無防備な感染対策なのかと疑ってしまうほど、
   日本の感染防止対策とはかけ離れていることに、
   唖然とした。
    米軍側は、沖縄県の照会に対し、
   部隊の規模や人数や、詳しい感染状況などは
   「運用に関わる」として回答を避けている。
    
昨年12月中旬にキャンプ・ハンセンで、大規模クラスターが発生し、
   米軍関係者の感染は沖縄の9基地で、
   1月5日現在1001人に達しているが、その詳細は説明されていない。
   つまり、治外法権の基地内で発生したことは、
   「運用に関する」こととして、コロナウイルス感染に関することだけでなく
   基地関係者に起因するすべてのことが、秘匿されてしまう。
   
   日米地位協定9条第2項
    「合衆国軍隊の構成員及び軍属並びにそれらの家族は、外国人の登録及び管理に関する日本国の
    法令の適用から除外される」
   この「管理」に検疫も含まれると解釈され、我が国の空港での水際作戦に大きな「水漏れ」
   を起こす結果になってしまった。
    幕末に締結された諸外国との「通商条約」は「不平等条約」として、
   明治新政府がその改善に多大な苦労をせざるを得なかった歴史的事実が思い出される。
   苦い経験がありながら、第二次大戦の敗戦国日本は、勝者の論に屈服し、
   「日米地位協定」に合意せざるを得なかった。

    日米合同委員会の、「検疫の在り方」についての二つのとり決め。

      米軍人、軍属やその家族が、
      
①軍の飛行機や船で在日米軍基地に直接入国する場合は、米軍が責任を持つ。
         ②民間の飛行機や船で入国する場合は、日本側の検疫を受ける。 

         1996に合意した内容だが、①の合意により、日本は水際検疫ができなくなってしまった。
        「責任を持つ」という文言に日本は期待したのだが、今回この取り決めは、
        全くの絵に描いた餅になってしまった。
        基地内の感染者数は毎日伝えられるが、基地ごとの感染者は提供されても、
        感染者がどこに住んでいるのか、発症はいつなのかという情報が提供されないから、
        濃厚接触者が市中感染を広げているケースも予測されるのに、
        県は防疫対策をとれない現実がある。

    民間住宅を借りて基地の外に住んでいる米軍人の問題点。

        外国人が3カ月以上国内に滞在するときは、移住地などを登録する必要がある。
       更に住民基本台帳に記載されるのだが、地位協定9条に基ずく特権で、
       米軍人はこの対象から外さる。
       従って自治体では、
       自分の町にどれくらいの軍人軍属が住んでいるのかを把握できない。

       なんともお粗末な基地を抱える自治体に存在することが、
       コロナ禍の渦中で露呈された。
    
    (朝日新聞1月6日 在日米軍から国内に広がったとみられる構図)
   在日米軍の現在の感染対策。
    全国の基地で警戒レベルを一段階引き上げ、
    検査で陰性が確認されるまで、マスク着用を義務化する。
    (裏を返せば陰性が確認されれば、マスク着用の義務はないということか)
    軍用機で日本に来た場合の検査を実施する。
    基地外でのマスク着用の義務。
    (基地内では着用の義務はない)。
    コロナに対する姿勢の違いか、マスク文化の違いが感じられます。

    現在は、日本への出発前、到着直後、
    その後の行動制限中の計3回以上の検査を義務付けている。
                                                                         
(朝日新聞1月7日)
              こうした状況に中国外務省は、
    「米軍は駐在国の高みに立ち、現地のルールを守らず、
     再三、ウイルスのスーパースプレッダー(拡散者)になっている」
    と米国を批判している。
      
       余談ですが、
       かって、100年前にスペイン風邪を全世界に広めてしまったのは、
       世界に派遣された米軍兵士によるウイルスの拡散だと言われている。
       この時、日本でのスペイン風邪による死者は、
       40万とも45万にとも言われている。
       にもかかわらず、前トランプ大統領はコロナウイルスの拡散は、
       中国のせいだと非難した。そのアメリカは現在6000万人を超える
       感染者を出し、世界をリードするアメリカの威信は衰えている。
       中国はアメリカの「スペイン風邪」「コロナウイルス」「米軍基地内の感染拡散」
       を捉えて、「再三」としたのだろう。

       それにしても、日本には米軍基地が多すぎる。
       特に沖縄は9施設、山口県岩国基地、長崎県佐世保基地、東京都横田基地、
       神奈川県横須賀基地及び厚木基地、静岡県キャンプ富士、青森県三沢基地。
       沖縄を初め、横田、横須賀、三沢基地周辺での感染者が増えている。
       はからずも、基地に依存する日本の平和は、
       どこかいびつな平和であることを露呈してしまったコロナ禍である。

       (昨日の風 今日の風№132)      (2020.110記)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年の年賀状 懐かしいチャルメラの音

2022-01-02 06:30:00 | つれづれに……

今年の年賀状 懐かしいチャルメラの音

謹賀新年 
 新しい年を迎えた元旦に、穏やかな朝が訪れました。
 小さな幸せの朝を迎える事ができました。

  (夜泣きそば屋の図)


  江戸の夜は陽が落ちると、人通りも途絶え漆黒の闇が街をつつみます。
 油皿のなかに立てた燈心の火が、行燈のなかに入り込む隙間風にチリリと小さな音を立てる。
 ほんのわずか辺りがぼんやりと明るくなる。
 灯りに誘われるように腹をすかした人たちが集まって来る。
 二八蕎麦、一杯十六文。
 夜泣きそば屋が、
 一杯の蕎麦といっしょに、
 行燈から漏れる灯りのゆらぎがかもしだす「暖」を提供していたのでしょう。

  チャルメラの音が暗い夜の町に流れてくる。
 もうそろそろ子どもたちが床に入る時間だ。
 何とも物哀しい音色が、記憶のヒダに刻まれ、
 今では全く聞かれなくなったチャルメラの音を懐かしく思い出します。

  30年近く前、熱海温泉に泊まった夜、
 あの懐かしいチャルメラの音が聞こえた。
 私は飛び起き、海岸通りのただ一軒の屋台に飛び込んだ。
 懐かしいチャルメラの音と昔
の鶏がらスープの中華そばを、
 潮騒の音を聞きながらフウフウ息を吹きかけて
胃袋に流し込んだ。
 小さな焼きのり1枚と薄く切ったナルト、
シナチク、輪切りにしたゆで卵。
 シンプルな具とさっぱりしたスープが絶品だった。

  まだ、スーパーもなく、コンビニもない時代、
 小さなラーメン屋が近くにあり、
 あまり流行らないラーメン屋の親父は
暇を持て余し、
 店の客用のテーブルに座り、ド近眼のメガネをかけて、
 いつも新聞をなめるように読んでいた。
 母に連れられて食べたラーメンの味を、
 私は熱海の屋台で味わうことができたのだ。

 いまよりは、時間がゆるやかに流れていた時代の懐かしい味だった。
 今は、「来々軒」のお店もない。

    めでたさも中ぐらいなりおらが春  一茶

      家庭や親族に恵まれなかった一茶が残した
      孤独の境涯の中で見つけた小さな幸せです。

(つれづれに……心もよう№121)       (2022.1.1記)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

季節の物売り 江戸情緒 ④ 新しい年

2021-12-26 06:30:00 | 季節の香り

季節の物売り 江戸情緒 ④ 新しい年
  子供の頃の年末から新年にかけての風物詩は、凧あげや羽根突きでした。
  稲刈りの終わった田んぼなどが凧あげの場所でした。
  主流は奴だこや長方形の武者絵だこでした。
  
というよりも、これ以外の凧はなかったように思います。
  買ってきた凧に凧の足はついていないので、新聞紙を切って糊付けします。
  上空に高く舞いあがれば、風が強いのでしょうか、凧の尻尾(足ではなく、尻尾といってました)
  がちぎれ、凧はバランスを崩し、グルグル回って落下ししてしまいます。
  昭和20年代の凧の値段は、10円ぐらいと記憶しています。
  ちなみに、江戸の凧は16文でした。側いっぱいの値段16文が凧の値段でした。
  現代の凧は500~800円ぐらいしているようです。
  今では、装飾用の飾り凧が4~5000円ぐらいで売ってるようです。
  

 でした。

(凧の卸売り)                     (絵馬売り)

凧は11月半ばごろから売り出され、12月下旬から正月の20日ごろまでがよく売れたと言います。
 図の『凧の卸売り』は、生産者が、大きな渋紙張りの籠を天秤でかっぎ、

 寒風が吹くようになる頃に
 江戸の町の往来を問屋に納めに行く「振り売り」の姿がよく見られたようです。

 幕末頃には凧の問屋は七店あり、凧の種類も豊富にあったようです。
  極彩色の武者絵凧は寛政(1789年)頃には売り出されたようですが、
  高価だったために文化(1804年)ごろには、安価な凧が16文ぐらいで売られたようです。
  屋台の蕎麦一杯の値段でした。 

 

   (桜草売り)                      (武者絵だこ) 
元朝詣りに神社に行けば、おみくじで吉凶を占ったり、
縁起物のお札や破魔矢を購入する人が多くいます。
絵馬もその一つですが、
現代では絵馬に「合格祈願」、「家内安全」、「無病息災」等の願いごとを書いて奉納します。
元々、絵馬は、「神仏へ馬を献ずる」という意味があった。額に馬を書いて奉納し、
「代わりに神仏に願いごとをお願いする」というのが本来の意味のようです。
おおきな絵馬では、一件以上もある絵馬が奉納される場合があります。
これを「額絵馬」といい、拝殿の長押(なげし)には、
埃をかぶり、色あせた額絵馬を見ることができます。
たいていは、事業に成功した人等大願成就した人が奉納します。
また、権勢を誇示する手段とも考えられます。
 
江戸時代には、絵馬を専門に扱う「絵馬屋」が何軒もあったというから、
絵馬文化は、現代よりもはるかに大切な年中行事の一つだったのでしょう。
「振り売り」のほとんどは、絵馬屋おかかえの売り子で、
売り声は、「ゑまや、がくや
がくや」でした。

春になれば、
「エー桜草や桜草」と桜草売りが往来を歩きます。
「土焼きの小鉢に植え付けて、ふさふさと薄紅ゐの花なりしも、姿やさしく士女のめずるより買うこと多し」(江戸内府絵本風俗往来)とあるように、早春の人気商品でよく売れたようです。

 4回に渡り、江戸情緒豊かな「振り売り」を紹介しながら、
 少年時代の懐かしい想い出を書いてみました。
 まだまだたくさんの物売りがあります。
 今後は、風物詩として折に触れて紹介したいと思います。

(季節の香り№36)     (2012.12.25記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



  

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

季節の物売り 江戸情緒 ③ 夜泣きそば

2021-12-19 06:30:00 | 季節の香り

季節の物売り 江戸情緒 ③ 夜泣きそば

  チャルメラの音が暗い夜の町を流れてくる。
  もうそろそろ子どもたちが床に入る時間だ。
  なんとも物悲しい音色が、記憶のヒダに刻まれ、
  今では全く聞かれなくなったチャルメラの音を懐かしく思う。

  20年近く前、熱海温泉に泊まった夜、宴会のどんちゃん騒ぎが終り
  それぞれの部屋に引き上げたころ、
  あのなつかしいチャルメラの音が聞こえた。
  私は飛び起き、海岸通りのただ一軒の屋台に飛び込んだ。
  懐かしい音と昔風の鶏がらスープの中華そばを、
  潮騒の音を聞きながら、フウフウ言いながら疲れた胃袋に流し込んだ。
  小さな焼きのり一枚と、薄く切ったナルト、シナチク、輪切りにしたゆで卵。
  シンプルな具とさっぱりしたスープが絶品だった。

  夜泣きそば 夜鷹そば
   
   
            (図1)                   (図2)
   江戸初期には、煮売り屋という商売があったようです。
   火を使って煮た食べ物を売る商売です。
   商売には店構えによって格があり、「店売り」といって店を構えて商売をする店、
   縁日など人の集まる場所に出かける「辻売り」で、
   現在では香具師がとりしきる「屋台」という形態で残っています。
   てんびん棒の両端に商品をのせ、街々を流して売り歩く、「振り売り」などがありました。
   「振り売り」はやがて、「棒手振り(ぼてふり)」と呼ばれるようになりました。
   文献によると、「振り売り」という商売の形態は、室町時代ごろからあったようですが
   本格的になったのは江戸時代になってからです。
   
    江戸に幕府を築いた徳川氏は、政権安定を計るために、親藩、譜代、外様を問わず参勤交代
   という制度のもと藩主とその妻を江戸に住まわせました。
   藩主の務めを支えるために、たくさんの家臣たちも江戸住まいを余儀なくされ、
   上屋敷、中屋敷、下屋敷に分散された広大な敷地の中に、
   藩主をはじめ江戸詰めと言われる家臣たちも、
   国もとから召集されますから江戸の人口は一気に増加します。
   こうして、大江戸八百八町といわれる都市が、形成されていきます。
   建築に携わるたくさんの職人たちも国もとから招かれます。
   インフラ整備もしなければなりません。
    しかし、何よりも必要なのは食糧であり、生活必需品でした。
         幕府が開かれ、人為的に多くの非生産階級の武士たちが増えてきました。
   たくさんの職人が流入し、商人たちも江戸の都に集まってきました。
   年季奉公もなければ、商売の開店資金もほんのわずかで済む「振り売り」は、
   日銭を稼ぐには格好の商売だったと思われます。
   特に、食糧に関する「振り売り」が、その走りと思います。
     
  (図3)                               (図4)        (図5)         (図6)

 こうした訳で、江戸時代以前から続いていた「振り売り」文化が、
 江戸時代に一気に花開いたのです。(図1、2)
 (この絵にはどちらにも犬が描かれています。おそらく、そばの匂いに
  腹をすかした犬たちが、おこぼれを求めてやって来たのではないでしょうか)
 しかし、二度この「振り売り」、特に火を使う「ソバ屋」などが
 禁止された時がありました。
 1661(寛文元)年には、御触書によると「夜泣きそば」や「夜鷹そば」類の商いが禁止されました。
  「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるほど、火事は頻繁に起こったようです。
  1657(明暦3)年の火事は江戸三代火事の一つで、「振袖火事」とも言われ、
  この時の死者は3万か
ら10万人の死者が出たようです。
  この時の火事で江戸城の天守閣が焼け落ち、以後天守閣は再建されなかった。
  この大火事の教訓を踏まえて、
  火を使用し夜に営業する「夜泣きそば」等の営業が禁止されました。
  火事の多い密集地帯の多く存在する江戸で禁止されたのも当然のことと思います。
 1686(貞享3)年の御触書では、火を持ち歩く一切の「振り売り」が禁止されています。
  1682(天和2)年の12月に起こった「八百屋お七の火事」は、
  800から3000人の犠牲者が出たと言われています。
  この火事の教訓としての御触書だったのでしょう。

 明治になると、車輪付きの効率の良い「引き売り」がでてきました。
 経済の発展と物流形態の発達は、徐々に江戸情緒の残る「振り売り」文化を
 駆逐し、昭和に入ると一部の「商い」を除いて、ほとんど姿を消していきます。
 一部残った「納豆売り」や「豆腐売り」も昭和20年代には姿を消していきます。

 暗くて、寒く、人通りの絶えた夜道での、「夜泣きそば」や「おでん屋」は、
 江戸庶民のささやかな楽しみの一つだったのでしょう。

 「時そば」の落語も、振り売りの売り声も遠い遠い昔のできごとになり、
 今はただ郷愁の中の思い出話になってしまったことがちょっと寂しい気がします。
     (季節の香り№35)       (2021.12.18記)
 


   

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

季節の物売り 江戸情緒 ② お飾り売り

2021-12-13 06:30:00 | 季節の香り

季節の物売り 江戸情緒 ② お飾り売り

季節の物売り

「きんぎょぇ~きんぎょッ」金魚屋さんがくると、一斉に物売りの声に魅かれて外に飛び出す。
夏が来たことを教えてくれる金魚売の声だ。往来に面しているけれど、私の家は道路から少し引っ込んだところに立っており、間口も広かったので金魚売りはいつも私のうちの前に店を広げた。
 巾着のかたちをした金魚鉢は、縁を水色に染めてありその中で、数匹の金魚が泳いでいた。涼し気な鉢の中で泳ぐ金魚の器がほしかったが、兄弟5人の母子家庭で育つ私は、とうとうそのことを母に言えなかった思い出がある。風鈴売りは、色鮮やかな江戸風鈴をたくさん吊るして、賑やかにやってくる。売り声がなくても、風に乗って聞こえてくる音色ですぐにそれが来たことが分かる。チリンチリンと澄んだ音を流す、南部鉄でできた風鈴は値が張ったのだろうあまり売ってなかった記憶がある。飴細工屋も私の家の軒先を商いの場所とした。冬はこんにゃくの味噌おでん売りを懐かしく思い出す。リンゴ箱に炭火を起こした七輪を載せ、その脇にカメに入った甘く煮詰めたみそだれが入っていた。売り声はなく、そのみそだれの臭いで人が集まって来る。私たち悪ガキはこのおでん屋を「墓場おでん」と陰口をたたいた。味噌の入ったカメは、墓場の骨壺を利用していると誰かが云いはじめたのが由来である。豆腐売り、納豆売り、パン売りなど、子どもたちが眼を輝かすような物売りが来た。
 時代と共に、物売りの姿は消え、私の実家も亡くなり、私も歳をとった。
 江戸時代、日常生活に必要なほとんどすべてのものが、「ぼて振り」と言われたてんびん棒の両端に売り物を載せて歩く姿は、庶民の生活に密着していた。そんな物売りを紹介します。

お飾り売り
  師走になると何となくせわしくなるのは、今も江戸の昔も同じようです。
  大掃除をしたり、年賀状を書いたりしているうちに、大みそかを迎えることになります。
  百八つの煩悩を打払うように、江戸の町のお寺さんの除夜の鐘が響いてきます。
  一夜明ければ、正月の初詣りが季節の行事だったように思います。

  こうした行事も、
  都会のマンション暮らしや、
  自然から隔絶された都会の雑踏の中に行き交う人々にとっては、
  縁の薄いものになってしまっているようです。
  餅つきの風景は田舎でも見られなくなったし、
  年越しそばの風習も少しづつ姿を消しているようです。
  豪華なおせち料理が幅を利かしているようですが、
  これとて、若い人の家庭では縁の薄いものになっているようです。
  おせち料理そのものを今の若い人は好まないようです。

  年末に紅白歌合戦を見て、正月にはバラエティー番組を見るような
  なんとも情緒のない年末年始の風景です。
  私は、紅白よりも、その後の「ゆく年くる年」を
  各地の名刹の鐘の音を聞きながら、
  カウントダウンを迎えることを毎年の習いとしています。

  この時期の江戸では、お飾り売りや、飾り松売りなどが行きかい、
  年の瀬を賑やかにしていたようです。
    

  『お飾り売り』
  いなせなお兄さんのお飾り売りは人気があったようです。
  お飾り売りは、鳶職や仕事師(火事師・火消)等の一種の際物師(きわものし)たちの
  臨時の商いだったようです。毎年小屋掛けをする場所も決まっていて、
  いろいろと窮屈な仁義があったようです。
  (現在でも、屋台や出店は香具師(やし)が権利と責任を持っていて
  厳しい約束ごとがあるようです)。
  的屋(テキヤ)ともいい、やくざの親分などが仕切っているようです。
  門松や貸観葉植物などこの手の人たちが関わっている場合も多く、
  一昔前までは、頼みもしないのに商品を置いていき、
  有無を言わせず集金をしていたこともありました。

  粋でいなせなお兄さんが啖呵をきって忙しく立ち働く姿に人気があったのでしよう。
         紋々の半纏 飾り物を売り (柳多留) 
  12月25日ごろより辻々、河岸、空地などに松竹を並べ、
  または仮屋を建てしめ飾りの具、歯朶(しだ)、ゆずり葉、海老、かち栗などを商い、
  大みそかには夜通し市を立てたようです。(東都歳時記)
 
  
  江戸市中町ごとに消防の鳶のもの、辻々へ小屋をしつらえ、
  しめ飾りを商うこと二十日以後より大みそか夜半までにて、
  元朝には小屋の跡も止めずよく掃除も行きとどけり。(江戸府内絵本風俗往来)

  『飾り松売り』
  12月になると、門松の松だけを売る市が立ちました。
  また、近在の農民が松を担いで売りにも来ました。
  売り声は、「まつや まつや まつや 飾り松や 飾り松や」
  師走の江戸の町を飾り松を売り歩く声が聞こえると、
  年の瀬もいよいよ終わり近くになります。
  この松は、下総(千葉県北総地域)、常陸(茨城県南東部)などが生産地になっていたようで、
  現在でもこの地方では、飾り松用の生産農家が多くあります。

  現在では、こうした縁起物は門前や街の通りを借り受けたテキヤ(的屋)が
  仕切っています。江戸の物売りの姿は、商業や物流の発展に伴い、
  庶民の生活習慣の変遷の中で姿を消してしまいました。

      (季節の香り№34)     (2021.12.12記) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

季節の物売り 江戸情緒 ①

2021-12-09 06:30:00 | 季節の香り

季節の物売り 江戸情緒 ①   福寿草売り

季節の物売り

「きんぎょぇ~きんぎょッ」金魚屋さんがくると、一斉に物売りの声に魅かれて外に飛び出す。
夏が来たことを教えてくれる金魚売の声だ。往来に面しているけれど、私の家は道路から少し引っ込んだところに立っており、間口も広かったので金魚売りはいつも私のうちの前に店を広げた。
 巾着のかたちをした金魚鉢は、縁を水色に染めてありその中で、数匹の金魚が泳いでいた。涼し気な鉢の中で泳ぐ金魚の器がほしかったが、兄弟5人の母子家庭で育つ私は、とうとうそのことを母に言えなかった思い出がある。風鈴売りは、色鮮やかな江戸風鈴をたくさん吊るして、賑やかにやってくる。売り声がなくても、風に乗って聞こえてくる音色ですぐにそれが来たことが分かる。チリンチリンと澄んだ音を流す、南部鉄でできた風鈴は値が張ったのだろうあまり売ってなかった記憶がある。飴細工屋も私の家の軒先を商いの場所とした。冬はこんにゃくの味噌おでん売りを懐かしく思い出す。リンゴ箱に炭火を起こした七輪を載せ、その脇にカメに入った甘く煮詰めたみそだれが入っていた。売り声はなく、そのみそだれの臭いで人が集まって来る。私たち悪ガキはこのおでん屋を「墓場おでん」と陰口をたたいた。味噌の入ったカメは、墓場の骨壺を利用していると誰かが云いはじめたのが由来である。豆腐売り、納豆売り、パン売りなど、子どもたちが眼を輝かすような物売りが来た。
 時代と共に、物売りの姿は消え、私の実家も亡くなり、私も歳をとった。
 江戸時代、日常生活に必要なほとんどすべてのものが、「ぼて振り」と言われたてんびん棒の両端に売り物を載せて歩く姿は、庶民の生活に密着していた。そんな物売りを紹介します。

 

 (初夏の物売りの図)

 橋の上には薬売り、旗を持つ祈祷師(?)、或いはこの人も薬売りで、同業者同士が橋の上で出会い、互いに振り返ってみているのかもしれない。
初鰹売り、橋のたもとに花屋、その手前に乾物屋、画面左端にも物売りらしき人がいるが何を商っているのか不明。橋のたもと右側の家の軒下には「吊り忍」が下がっている。これも物売りから手に入れたのだろう。そのすぐ上には、買ったばかりの菖蒲をさげている人がいる。
 季節は初夏、汗ばむような午後の時間帯だろう。笠をかぶる人。扇を頭にかざし日差しを避ける人、菖蒲をさげた人も
 手拭いで額の汗をぬぐっている。庶民達が行きかう賑やかな往来を描いている。

福寿草売り

   

「福寿草売り12月25日 春に至る迄、梅福寿草などの盆花町に商ふ」(東都歳時記) 
 福寿草は、元旦草とも言い、歳末に福寿草売りから買って、正月の床の間を飾ったという。
 左の写真は女性の売り子さんが描かれている。女性の物売りが実在したのかどうかわからないが、
 当時、飾り絵として販売された絵も多く、特に人気のあった歌舞伎役者の売り姿の絵に人気があったようだ。
 左の絵が実際の福寿草売りの風俗画ではないかと思う。
 煙草入れを帯から抜いて、てんびん棒にかけ、一服している姿が現実感があって私は好きだ。

 40年も前、母の願いでよく神社仏閣いった。
 境内に並んだ出店を見てまわるのも参拝の楽しみだった。
 当時、よく福寿草を購入した。
 一芽、30円ぐらいだったと思う。数年続いた30円の売値も50円になり、どんどん値が上がった。
 現在では350~400円、当時の価格の約10倍もしている。
 あの時購入した福寿草は毎年、庭の陽だまりで元気に花を咲かせている。
 増えた分だけ、美しいと褒めてくれた人に分けてあげるので、
 年数の割には株は一向に大きくならない。
 母との想い出に繋がる懐かしい匂いのする初春の花である。

     (季節の香り№33)      (2012.12.8記)
 
  

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂村真民の言葉(5) 念ずれば花開く

2021-12-02 06:30:00 | 読書案内

坂村真民の言葉(5) 念ずれば花開く

坂村真民について (坂村真民記念館 プロフィールから抜粋)
  20歳から短歌に精進するが、41歳で詩に転じ、個人詩誌『詩国』を発行し続けた。
  仏教伝道文化賞、愛媛県功労賞、熊本県近代文化功労者賞受賞。
  一遍上人を敬愛し、午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活。
  そこから生まれた人生の真理、宇宙の真理を紡ぐ言葉は、弱者に寄り添い、
  癒しと勇気を与えるもので、老若男女幅広いファン層を持つ。
  写真の本は「一日一言」と称し、真民が生きた日々の中で浮かんだ言葉の中から365を厳選、
  編集したものです。

                 
 月に一度、月初めに「真民さんの言葉」の中から気に入ったものを載せています。
 月に一度のことですが、今月はどんな言葉を選ぼうかと、
 「1日1言」を開いてページを繰るのも楽しいひと時です。

 以前、ブログ名「曲がり角の向こうに」の「のりさん」から、
 『念ずれば花ひらく』という言葉が好きですと、コメントを戴きました。
 私は、これまで「念ずれば花ひらく」が、真民さんの言葉であることを知りませんでした。
 そんな経緯がありまして、
 今月は『念ずれば花ひらく』を取り上げることにしました。

 『一心称名』
   念ずれば花ひらく
   念ずれば花ひらくと
   唱えればいいのです
   ただ一心に唱えればいいのです

   花が咲くとか
   咲かぬとか
   そんな心配はいりません
   
   どうかあなたの花を
   あなたの心田(しんでん)
   咲かせてください
   必ず花はひらきます

  ただただ一心に心に念じて、唱えれば花はひらくのです。
  真民さんは、誰にもわかりやすく、明快に箴言を文字に託します。

  花とは、私たちの心が抱く「希望」であり、「夢」であり、
  「願い」や「望み」のことなのでしょう。
  「一心に念じれば必ず花はひらきます」と真民さんは言います。

  二節目は真民さんらしく、修行僧のように厳しい言葉です。
  一切の雑念を払って、「咲くとか」「咲かぬとか」そんなことはどうでもいいのです。
  ただひたすらに念ずることが大切なのです、と言います。
  一途な心を持つことが必要なのですと読者を諭しています。
  別の項目では次のようにも言っています。

  「いつかはゴールに達するというような歩き方ではだめだ。
   一歩一歩がゴールであり、一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない」
                         (いきいきと生きよの中の一節)
  人生の中で今日という日は、二度と訪れないかけがいのない一日だから、
  無駄にしてはいけないということなのでしょう。
  ゴールは終わりではなく、明日へ向けての出発点だということなのでしょう。
  真民さんの言動に横たわっているものは「一期一会
」の教えなのでしょう。

  
  私たちに厳しい言葉を投げかけた真民さんですが、
  第三節では、読者へ向けてのやさしいお願いに変わっていきます。
  「どうかお願いです」。一心に称名してあなた自身の花を、
  あなたの心田に咲かせてください、と。
  花は必ず開きますからと読者を暖かく励まします。
  
  『心田』という言葉も聞きなれない言葉です。
  「あらゆる荒廃は心の荒蕪(こうぶ)から起こる」と二宮金次郎は教えを残しています。
  荒蕪とは、草が生い茂って雑草が生えほうだいで、
  土地が手入れされずに荒れていることをいいます。
  荒れ果ててすさみ潤いがなくなっていくことをいいます。
  金次郎の時代、たび重なる飢饉などで農村は疲弊し、それに伴って人心も荒れ
  働く意欲を失い離村する農民もたくさん現れました。
  農村の荒廃は、人の心の『荒蕪』へと広がって行きます。
  荒廃に伴う人の心の『荒蕪』を解決するには、
  個々の人が持っている『心田』を耕せば、
  やがてすべてのものは豊かになっていくという教えは、
  今につながる教えのように思います。

  一人一人の心田に自分自身の花をさかせよう。
  そうすれば花は必ずひらくと真民さんは考えています。

  表題の『一心称名』は、
 「一心にただひたすらに祈りなさい」と私たちを示唆しているのでしょう。

                       ブックデーター
                           「坂村真民 一日一言 人生の詩、一念の言葉」
                             致知出版社 2006(平成18)年12月刊 第一刷
     (読書案内№183)      (2021.12.01記)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パラリンピック⑦ 忘れ得ぬ選手たち④

2021-11-29 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

パラリンピック⑦ 忘れ得ぬ選手たち④    
   挫折からの出発
   大矢勇気(東京パラ出場時・39歳)
       東京パラリンピック陸上男子100メートル車いすのクラス(T52)。
              Tはtrack(トラック)のT、52は障害の程度を表し51から57のクラス分けがあります。
       数字が小さいほど重い障害になります。従って大矢勇気さんは、〈トラック競技の重度の
       クラス〉ということになります。

   

  最初の試練は、中学三年の時。
  脳腫瘍に襲われ、治療の結果高次脳機能障害が後遺症として残った。
  競輪選手になる夢は、ドクターストップであきらめざるを得なかった。
  落ち込む勇気に、兄3人と勇気を育てたシングルマザーの母の言葉。
  「他のスポーツもある。人生はこれからやで」
  この言葉に励まされ、彼は定時制高校に進学。
  兄と工事現場で働き、家計を助けた。

  1年も経たないうちに第2の試練が彼を襲う。
       ビルの解体工事をしていたとき、仕事中に8階から転落。
  脊髄を損傷、1カ月意識のない状態が続き、下半身が動かなくなると宣告され、
  家族みんなが泣いた。
  
車いす生活を余儀なくされる。
  両手指にも機能障害が残った。
  高校1年、16歳の冬は第2の試練の冬でもあった。
「人生が終わった」
  考えることは自殺することばかりだった彼が車いす陸上を始めるようになったのは、
  作業所の同僚からの進めからだった。
  練習には母が毎回付き添ってくれた。

  8年後、日常用の車いすで全国障害者スポーツ大会に出場しました。
  競技用の車いすに乗るほかの選手にあっという間に置き去りにされて最下位に終わり、
  負けず嫌いの心に火がつきました。

  第三の試練。
  2009年、母の体調に異変が起きた。
  末期の肺がんが母を襲った。
  彼は練習を止め、入退院を繰り返す母の看病に付き添った。
  2011年7月10日、最愛の母が亡くなった。
  この日は、ロンドン・パラリンピックの選考会だったが、
  彼は母の側を離れず、選考会は棄権した。
  亡くなる数日前、母は兄に弟・勇気への言葉を託した。
「勇気を世界へ連れていって」
  母の最期の言葉になった。
  
  母亡きあと兄弟たちの二人三脚が続き、
  3度目の挑戦で東京大会の代表に選ばれた。
  初めてのパラリンピックの舞台、陸上男子100メートル車いすのクラスT52
の決勝に出場。
  スタートから勢いよく飛び出してトップを争うレース展開。
  彼の持ち味を生かせる場面だ。
  トップを走る。
  だがレース中盤、アメリカのレイモンド・マーティン選手に抜れた。
  目指した金は取れなかったが、世界のひのき舞台に立ったのだ。
  「お母さん ありがとう。そして、彼を支え続けて来た兄たちにありがとう」
  
  たびかさなる挫折を乗り越えて、
  大矢勇気が勝ち取った銀のメダルは、
  金に劣らず素晴らしい輝きを放っていた。

(昨日の風 今日の風№130)        (2021.11.28記)

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする