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雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

パラリンピック⑥ 忘れ得ぬ選手たち③

2021-11-23 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

パラリンピック⑥ 忘れ得ぬ選手たち③
  

   (パラサポWEBより引用)              (常陽リビングニュースより引用)
          
   (ブラインドサッカー 佐々木ロベルト泉・背番号3)
   佐々木ロベルト泉 (43歳) 
     ブラジル・サンパウロ出身の日系三世 茨城県牛久市在住 

  長野県出身の両親を持つ日系2世の父親と、
  ポルトガルからブラジルに移住してきた母親のもとに生まれた。
  16歳の時、グアバやマンゴー、アボカドを栽培する農園を営む父が脳梗塞で倒れ亡くなった。
  
「お母さんとお姉ちゃん、妹の面倒を見てくれ」、父の最後の願いだった。
  18歳、1997年2月仕事を求めて祖父母の故郷日本へ。
  家計を助けるために来日。
  工場などで働き、母に仕送りを続けていた。

  2006年、来日10年目の秋に夜勤に向かう途中、
  交通事故で心臓を損傷し生死をさまよった。
  心臓に2カ所穴が開き顔面骨折する重傷を負い、
  長い昏睡(こんすい)から目覚めたのは16日後だった。
  そこに待っていたのは信じられない現実だった。
  視界は真っ暗で何も見えない。
  一体何が起きたのか。
  逡巡するロベルトに過酷な現実を妹が知らせた。
  心臓の手術が優先されたため目の手術は間に合わず、
  炎症を起こした両目の眼球は摘出するしか選択肢が残されていなかった。
       「あなたはもう見えない。眼球がないの」
  「人生、終わった。涙が出た」
  しかし、たった5分で思い直した。
  「神様は命を助けてくれた。意味があるはずだ」(朝日新聞より引用)
  
   
  天性の陽気さと、人生に対する積極性がロベルトを次のステップに向かわせた。
  事故から1年後の07年夏には富士山登頂に成功するほどの回復ぶりを見せた。
  「日本で一番高い山に登ったんだから、この先どんな困難も乗り越えられる」と自信につなげた。
  小さなステップを越える、その繰り返しが小さな自信につながっていく。
  光を失ってから3年後の2009年、筑波技術大学に入学。
  同時に5人制サッカー(ブラインドサッカー)を始めた。
  試合中の対人との衝突の怖さはしばらく続いたが、
  幼少期のサッカーの楽しかったことなど思い出し、着実に成果を上げていった。
  2014年、日本国籍を取得、同時に東京パラリンピックの日本代表に選ばれる。
  「父さんの死や事故から人生は1秒で終るとわかった。だから目の前のことを100%頑張る」

  初めて出場したパラリンピックで日本代表チームは1次リーグを1勝2敗、
  順位決定戦でスペインを破り5位入賞。
  メダルには届かなかったが
最高の舞台で家族のような仲間と戦えたことは素晴らしい経験だった」と振り返る。
 多くのパラアスリート達が競技の成績もさることながら、
 「素晴らしい経験」、「連帯」、「共生」、「信頼」等の体験を大切にし、
 さらなるアスリートの道を究めようと進んで行こうとする姿勢は素晴らしい。
 「大変なことがあっても、次はいいことがある」と言うその裏には、
 絶対にあきらめない強い意志と、くじけずに生きていこうとする一途な思いがある。

    参加競技の戦績を人生の貴重な体験として、
 次へのステップを踏んでくパラアスリートの姿に声援を送る。

             5人制サッカー(ブラインドサッカー)について』
              ゴールキーパー以外はアイマスクを着けてプレーする。監督やキーパーの声を頼りに音
                 が鳴るボールをゴールに運ぶ。音や声が失われた視覚の代わりとなるから
チーム内の密
                 なコミュニケーションや信頼関係が大切。「仲間を信じてこの場所、この瞬間に一緒に
                 プレーできることが一番の魅力」とロベルトは言う。

    (昨日の風 今日の風№129)  (2021.11.22記)

 

 

 

 

 

 

 



 

 

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クレイジーでいこう。

2021-11-12 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

クレイジーでいこう。
  2021.10.26の朝日新聞朝刊の広告に、紙面一面+1/4の大きな広告が掲載された。
 表題のタイトルの大きな広告だ。
 物品の販売を目的とする広告
でもなく、特定会社のイメージ広告でもない。

 よく見ると画面の下に社名らしき英文字が三つ横並びに印字されている。
 これを見てもどんな団体なのか見当がつかない。
 【クレイジーでいこう。】と大きく印字されたその横に、gocrazy-project.comの文字が見える。
    QRコードもあり、調べてみると
 GoCRAZY Projectは、
 FRACTA、Whole Earth Foundation、Menlo Park Coffeeが連盟となってスタートした
「世の中をもっとよくするクレイジーな人やアイデアを応援する」プロジェクトです、とある。
 つまり、上記の三つの団体が起こした、社会活動であり、文面は「世の中をもっとよくする」
 ための啓蒙広告である。
 興味を引く内容なので以下に紹介します。

皆と同じで安心している自分を許していないか。
それは、意志じゃなく、傍観だ。 そのフィルターをはずそう。
心地よいバブルから抜け出そう。
意見を表明する。
嫌われる勇気を持つ。
賛同も反発もある。
それでも、本当を言わないことを恥ずかしいと思ってみると、
ちゃんと怒ることが、カッコ悪いことだとは思わなくなる。
スルーすることが、安心だと思わないこと。
同調することが、安全だと思わないこと。
世界をつまらなくて苦しくするのは自分だし、
おもしろくてやさしくするのも自分だ。
それが、クレイジーで行くということ。
それは、つながっていくということ。
分断を嫌おう。
集まろう。
好機はきっと増える。
クレイジーで行こう。
その先に見えるのは、大きく世界を変える何かだ。
その先にあるのは、
あなたの思いとテクノロジーが変えていく、次の世界の入口なのだから。

 これを読んで、「うん、そうだよな」と肯定するのはいいのだが、
 「ちょつと待てよ」としばし躊躇する。

 この世の中、生きていくのをつまらなくするのも、楽しくするのも
 そして、おもしろくて、やさしくするのも自分だ。
 なるほど、しっかりと自分の足で立ち、両目を開いて
 自分の眼で見ることの少なくなった社会に私たちは生きている。
 ワイドショーで聞いた知識を切り売りする似非評論家のコメントを
 さも、自分の考えのように錯覚してしまう現実がある。
 「受け売り」をしているのに、自分の意見のように錯覚してしまう現実がある。
 
テレビドラマ「ドクターX」を思い出した。

 ドクターXに学ぶ

  天才的な腕を持ちながら組織に属さず、病院を渡り歩くさすらいの女外科医。群れを嫌い、
 権威を嫌い、束縛を嫌い、専門医のライセンスと叩き上げのスキルだけが彼女の武器である。
 職場で孤立し孤立無援の境地に立たされても、
 誰かが手を差しのべ、
 「たたき上げのスキル」に裏打ちされた自信が
 「私、失敗しないので」という台詞を彼女に言わせる。
 自由気ままに生きていく彼女を理解する仲間たちもいる。
 私生活では雀卓を囲んで馬鹿騒ぎをしたり、
 食べたいものを大口を開けて食べる行儀の悪い彼女を認めてしまう仲間もいる。

 文面にあるようなことをすれば、
 それは「クレイジー」な生き方になってしまう社会の在り方が問題なのかもしれない。 

   ドラマの中で作られたバーチャルヒロインとはいえ、
 権威と策謀の渦巻く白い巨塔の中で、
 群れから離れ、正しいことは正しいと正義を貫く大門未知子に共感を覚える。

 「私、失敗しないので」と自信に満ちた言葉を投げつける。
 「いたしません」と、理にかなわない指示を平然と断り、
 「時間ですので」と、平然と定時に退勤してしまう。
 嫌われることを怖れずに、胸のすくような啖呵を切る。
 ピンヒールの靴音高く、風を巻き起こすように病院の廊下を闊歩し、
 白衣をひるがえして歩く姿に、
 視聴者は自分たちの胸のうちでくすぶる薄汚れたしがらみの中で、
 生きていかざるを得ない自分の代弁者のように行動できる大門未知子に、
 無意識のうちに拍手している自分に気づく。

 一人ひとりが「クレイジーでいこう」と行動を起こせば、好機は必ず訪れ、
 その先に見えてくるのは、「次の世界の入口」なのだと、GoCRAZY Projectは
 啓蒙の言葉を広告という形で意思表示しているのだろう。

 大門未知子のように、華々しい活躍はできないけれど、
 せめて自分の生き方に、
 豊かな感性と優しさだけは忘れないように生きていければいいと思う。

   (昨日の風 今日の風№128)    (2021.11.11記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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パラリンピック⑤ 忘れ得ぬ選手たち②

2021-11-09 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

パラリンピック⑤ 忘れ得ぬ選手たち②
     スメエ・ボヤジ(18歳
)  競泳  トルコ

(写真・朝日新聞)
イルカのように泳ぐ
  2003年トルコに生まれた。
  生まれつき両腕がなく、股関節が脱臼していた。
  推測で申し訳ないが、おそらくこの状態がボヤジにとって普通の状態なのだろう。
  両腕がないことをコンプレックスにしなかったボヤジの積極性が
  今日のボヤジを作って来たのだろう。
  そのために必要だった天性の明るさと、
  好奇心の旺盛さが今のボヤジを形作ったのだろう。
  おそらく両親のバックアップもあったのでしょう。

五歳のころ、水族館で魚を見て泳ぐことに興味を抱いた。
魚は腕がないのに泳げて、すごいと思った。

  母親に背中を押され、リハビリを兼ねての水泳を始め、以来はまっているという。

  そして、2020東京パラリンピック
  8月25日、200㍍自由形で7位を獲得。
  続く26日、競泳女子100㍍自由形(運動機能障害S5)予選。
  イルカのように体を動かしながら水の中を進んで行く。
  水泳というよりも、
  人魚が力強く泳ぐようにボヤジは、
  水の中で肢体を流線形つくり若鮎のように水に乗る。
  全力で泳ぐボヤジ。
  しかし、勝負は勝負だ。技術を伴った力と力のせめぎ合いだ。
  予選落ち。

  水泳だけではない、ボヤジの興味の範囲は可能性を求めて、
  足を使って料理を作り、糸と針で服を縫うことも出来る。
  もちろんミシンを使うことも出来る。
  水彩画の技法で絵の具を水に浮かべて模様を作る『墨流し』は、
  個展を開くほどの腕前。

 できないことなんてない。私たちができることを、その力を見せつけてやろう

 次のパラリンピックに向けて、ボヤジは果敢に挑戦を続ける。
 ボヤジにとって、『生きること』そのものが挑戦なのだから。
  (昨日の風 今日の風№126)     (2021.11.8記)

 

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坂村真民の言葉(4) 悲しみを知っている人は…

2021-11-03 06:30:00 | 読書案内

坂村真民の言葉(4) 悲しみを知っている人は

坂村真民について (坂村真民記念館 プロフィールから抜粋)
  20歳から短歌に精進するが、41歳で詩に転じ、個人詩誌『詩国』を発行し続けた。
  仏教伝道文化賞、愛媛県功労賞、熊本県近代文化功労者賞受賞。
  一遍上人を敬愛し、午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活。
  そこから生まれた人生の真理、宇宙の真理を紡ぐ言葉は、弱者に寄り添い、
  癒しと勇気を与えるもので、老若男女幅広いファン層を持つ。
  写真の本は「一日一言」と称し、真民が生きた日々の中で浮かんだ言葉の中から365を厳選、
  編集したものです。

 

『悲嬉』
  悲しいことは
  風と共に 
  消えてゆけ

  嬉しいことは 
  潮(うしお)のように
  響かせよ

     この人の詞には、澄んだ響きがある。
     透き通った視線が真っ直ぐに、 見つめる対象を捉えて離さない。
     揺らぎのない自信の裏に、確固とした信念が培われている。
     胸のうちに湧いてきた思いを、言葉で飾るのではなく、
     夜明けに見た夢を忘れないように心に刻むように、
     胸の中の想いを詞に置き換えていく。
     胸の中に吹く風にのように、
     通りすぎる旅人のように、
     静かに風の音を聞けば、悲しみは通りすぎていくと詠う。
     そして、嬉しい思いは、胸を開いて力いっぱい吐き出して、
     嬉びを欲しい人に解放しようと詠っているように聞こえる。
     もう一つ、次のような詞も心に響きます。

 『ものを思えば』
   つきつめて
   ものを思えば
   みなかなし
   されど
   このかなしさのなかにこそ
   花も咲くなれ
   匂うなれ
   人の心も通うなれ
      人を寄せ付けぬような厳しさを、心の内に持つ真民さんだが、
      こんなにやさしい慈愛の目を持った真民さんにも、心ひかれます。
      「つきつめて ものを思えば みなかなし」という詞のなかに、
      生きることの真理や人生哲学があるように思います。
      やさしい羊水のあふれる母の胎内から、光のあふれる世界に出てきた時から
      たくさんの出会いを経験することになる。
      歓迎される出会いばかりではない。
      避けて通りたいような出会いでも、
      行かざるを得ない出会いを選択しなければならない時もあります。
      橋の向こうに見え隠れする悲しみが見えているのに、
      渡らなければ先に進めない橋を行く場合もあります。
      出会いの行き着くところは、別れです。
      真民さんはそう思いながらも、
      かなしさの中だからこそ、
      花の美しさを、匂いの豊かさを
      敏感に受け止め、人とひとの心のつながりが、
      素晴らしいものになると言っているのでしょう。

                        ックデーター
                      「坂村真民 一日一言 人生の詩、一念の言葉」
                        致知出版社 2006(平成18)年12月刊 第一刷

 (読書案内№182)        (2021.11.2記)

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パラリンピック ④  忘れ得ぬ選手たち①

2021-10-23 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

パラリンピック  ④   忘れ得ぬ選手たち①
   パラリンピックに出場したアスリートをシリーズで追ってきた。
   
パラリンピックが幕を閉じ、メディアの報道から、
   オリンピックやパラリンピックの記事が消えてから久しい。
   ブログ掲載するには、時期おくれであり、掲載を躊躇したのだが、
   やっぱり、今掲載しておかないとパラアスリートたちの活躍や
   障害に対する考え方を紹介するする機会がなくなってしまうので
   後数回にわたり掲載することにしました。

(写真諫山卓弥・朝日新聞)
エマニユエルニーテティ・オク(30歳) ガーナ
    パワーリフティング男子72㌔級(運動機能障害)に出場。
     1回目 160㌔
     2回目 失敗
     3回目 失敗
     三回目の試技が終わると、関係者が座る会場に向かって何度も頭を下げた。
     メダルには届かなかった。
     7位の成績は、彼にとっては『栄光』の7位だったのだろう。
     2020東京パラリンピックの栄光の舞台に参加できたことへの感謝の気持ちなのだろうか。
     
「力をすべて出した。ここで競うことが夢だった。たどり着けて光栄だ」
     持てる力をすべて出し切って勝ち取った7位。
     この大会に参加できたことが、オクにとっては最大の喜びであり、
     名誉の参加だったのでしょう。
        ※
足などに障がいのある選手が参加し、持ち上げたバーベルの重さを競う。
         専用の台にあおむけに
なって行うベンチプレスのみで競われる。
         3回の試技で最も重い重量が記録となる。

         
選手の入場からバーベルを構えるまでの時間は2分間と決められ、
         オーバーすると失格となる。
         2分間で選手は専用台にあがり、準備をしながら集中力を高めるが、
         声を出して気合いを入れたり、
         腕を上げたりと選手それぞれのルーティーンを見比べるのもおもしろい。
         そして、バーベルを胸まで下げて持ち上げるまでの時間は約3秒。
         このわずかな時間に選手はこれまで培ってきたトレーニングの成果を爆発させる。
                          (NHKの競技・パワーリフティングを要約)

    2013年、オクはガーナの町で城の警備の仕事をしていたとき、
 事故が起こり銃弾はオクの左足太ももを貫通し、傷は深く足は切断された。

 2016年のリオデジャネイロ大会をテレビで見たのが契機となり、
 パワーリフティングのアスリートをめざすようになった。

 2004年パラリンピックに初めてガーナから選手が出場したのがきっかけとなり、
 障害がある人への理解がすこしづつ芽生え始めた。
       ※ガーナの人口は約3042万人。そのうち、障害のある人は約500万人。先進国の割合よりも多く、
         差別や偏見が経済的な格差を生むみ、貧困の原因にもなっている。
     
 「ガーナでは障害がある人はまだ家や学校のクラスに閉じこもっていることが多い。
 活動にあまり参加したがらない。そんな人たちの気持ちを何とか変えたい」
 
 パワーリフティングのアスリートとして、自分が競技に参加することで、
 社会的な接触をさけ、内に閉じこもりがちな障害を持つ人の気持ちを変えたい。
 7位に終わった東京大会だったが、悔いの無い競技ができたことに、
 オクは大会へ参加できたことに感謝したのだろう。
 
 新しい動きがあった。
   東京大会の開会式と閉会式がサハラ砂漠以南の49の地域で無料で放映された。
 嬉しいことであり、特にアフリカ選手の活躍を52分間の特集で毎日放映されたことだ。
   しかも無料放映である。日本ではNHK以外は、無料放映が常識だが、
 これらの国や地域では原則有料放映である。
 番組制作の意図は、
 「アフリカに根強くある障害がある人への間違った認識を変えるための取り組み」と
 朝日新聞は伝えている。
 アフリカ全体で2億5千万人以上が視聴することになるとも。

 オクはこだわる。
 「パラリンピアんが話題になって、障害がある人への偏見をなくす闘いに大きく貢献すると思う。
  自分もその活動の一部になれたらいい」

 東京パラリンピックでの選手の活躍は、私たちに楽しさと勇気、感動を与えてくれました!
 更に依然として存在する障害と偏見、差別について深く考える機会を与えてくれました。
 2024年の開催都市のパリ大会に、再びエマニュエルニーテティ・オクの
 元気な姿を見せてくれることを期待しています。
                                  参考記事: 朝日新聞Why I´m here(だから私はここにいる) (NHK ウェブニュース)
                                  (つづく)
   (昨日の風 今日の風№125)      (2021.10.22記)

    過去ログ のパラリンピック・アスリート関連記事
   2021.08.29記事「はじまりの日 パラリンピックを観て」
            オリパラリンの意味ゃ スポーツの意味を探るための答えを考えてみた。
     2021.09.08記事「難民選手団①栄光のスリーアギスト・大会旗」 
                               「スリーアギトス」と呼ばれている、パラリンピックのシンボルマークに込められた
                                 意味について考えてみました。
         2021.09.12記事「難民選手団②多くの困難を乗り越えて」
                             「国を超え、障害を乗り越え、単にスポーツ技術だけでなく、スポーツを生きる希望
                              として切磋琢磨する者」を紹介。
         2012.09.27記事「③プロパラアスリート 山本(38歳)」
               プロとして活躍するアスリートの生き方から、たくましく生きる山本の姿を紹介。

 

 

 

 

      

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皆で担いだ「菅義偉神輿」を落とした責任

2021-10-16 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

皆で担いだ「菅義偉神輿」を落とした責任

   「菅義偉神輿」を落とし「新しい神輿を担ごう」と
   若手自民党議員から声が上がった。と一般的に言われているが、
    そのたてた声を操ったフィクサーは誰だ。

 
 10月に入ってから政権交代があり、
  タイミングよくコロナの感染も徐々にではあるが終息に向けて舵を切ってきたようだ。
  14日には衆院解散、19日公示、31日投開票と慌ただしい日々が続いていくだろう。

  岸田政権が発足したが、組閣人事を見ても、公約に基づく所信表明を見ても、
  かわり映えがしない。
  「モリカケ問題」を霧の中に葬り、
  コロナ禍を放り投げるような形で退いた、安倍長期政権の後、
  コロナ禍の真っ最中、
  その苦労をそっくり受け継ぐように貧乏くじを引き、
  開催反対のオリパラを無観客で強行開催。
  答弁や記者会見などの稚拙さの実を取り上げて、
  メディアや野党のあげ足取りの論調に火をつけたのは、
  実は自民党ではなかったのか。


  「コロナ禍対策に専念したい」というような菅義偉前総理の取って付けたような理由を
  真に受けたわけでもないのに、菅政権のもとでは衆院選は勝利できないと、
  皆で担いだ菅義偉神輿を、今度は神輿の担ぎ棒を皆で放り投げてしまう。
  皆で担ぎあげた菅神輿なら、祭り(政)を維持し成功させるのも、担ぎ手の責任と思うのだが、
  担いだ時の「説明責任」も果たさずに、全ての責任を菅義偉氏に押し付け、
  自己保身の選挙運動に走る姿は、
  まさに魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する永田町の住人たちの
    おぞましさと浅ましさを見る思いである。

  「俺たちが担ぎ上げた菅義偉神輿」なんだから、
  「担ぎ上げた者として、沈みかけた神輿をもう一度力を合わせて担ぎ上げようではないか」と
  声を大にして叫ぶ者はひとりもいなかったのかと、非常に残念に思う。

  菅政権の足跡をたどれば
      
① ワクチン接種率世界トップクラスの水準へ 
     ②    2050年脱炭素社会を実現
               
③ 安全保障上重要な土地の利用を制限する法律成立 
               ④ 最低賃金過去最高の引き上げ
      
⑤ アメリカによる福島県産の米や牛肉など日本産食品の輸入規制を全面廃棄

                ほかにもある。
携帯電話料金の大幅値下げ 、 不妊治療の保険適用へ、デジタル庁発足   
                福島第一原発処理水問題に結論(突然の結論で、特に漁業関係者からの反対も多いが、
    安倍政権が避けていた問題の糸口に方向付けをした点で評価したい) 。
    日本 学術会議の会員候補者6人を任命しなかったことも、
    日本学術会議という組織の意義について一石を投じたと思われますが、
    説明責任が不足していたという欠点はあります。

    菅政権の成り行きをもう少し、温かい目で見守り、「守り、育てる」という姿勢があれば、
    菅政権の行方も、
              もう少し評価されるような政策の展開を予測することも出来たのではないかと
    少し残念な気がしています。

    さて、「岸田政権」。
    「新しい資本主義」とか、「成長と分配の好循環」などと、
    ちょっと意味の解らない言葉が目立ちすぎます。
    「(岸田)首相、最大争点はコロナ対策」(朝日新聞10/15一面サブタイトル)を謳い、
    「この夏の2倍程度の感染力に対応可能な医療体制を作っていく」と言っているが、
    それはそれで結構なことではあるが、
    現在「コロナウイルス」は急激にその勢いを失くしています。
    重点政策には違いないが、経済の立て直しを第一に挙げてもよいのではないか。
    
    ここはまず、「成長の果実が幅広く行き渡る『成長と配分の好循環』を実現する」という
    『未来選択選挙』の成り行きを見守りたい。

    (昨日の風 今日の風№124)        (2021.10.15記)

 

            

 

       

 


  

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坂村真民の言葉(3) 声

2021-10-02 06:30:00 | 読書案内

坂村真民の言葉(3) 声

坂村真民について (坂村真民記念館 プロフィールから抜粋)
  20歳から短歌に精進するが、41歳で詩に転じ、個人詩誌『詩国』を発行し続けた。
  仏教伝道文化賞、愛媛県功労賞、熊本県近代文化功労者賞受賞。
  一遍上人を敬愛し、午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活。
  そこから生まれた人生の真理、宇宙の真理を紡ぐ言葉は、弱者に寄り添い、
  癒しと勇気を与えるもので、老若男女幅広いファン層を持つ。
  写真の本は「一日一言」と称し、真民が生きた日々の中で浮かんだ言葉の中から365を厳選、
  編集したものです。

『声』

 生きていることは
  すばらしいぞ
  そういっている
  石がある
  木がある
  川辺に立つと
  水も
  そういって
  流れていく

           〈生きていることは すばらしいぞ〉と私に語りかける。
   自然の中で黙って生きている、「石」であり「木」の声が私に語りかけてくる。
   〈生きていることは すばらしいぞ〉と。
   さらに耳をすませば、流れていく水さえも〈すばらしいぞ〉と囁きかけてくる。
   
   牧村真民(しんみん)さんに語りかけてくるのは、
   自然に宿る精霊の声なのかもしれない。
   午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活を送る
   真民さんには、森羅万象に宿っていると言われる精霊たちの、
   いのちの声が聞こえるのかもしれない。
   真民さんの言葉を反芻しながら、今を生きる真民さんがたどり着いた
   妥協を許さない孤高の精神修養のことを思った。

             そういえば、十数年前に御世話になっていた若い気功師が言っていた。
             週五日、患者さんと向き合い気功の施術を行うと、心身ともに疲労して
             くる。休診日の日には人気のない森に入り、大樹にしがみついて、
             大樹から「気」もらってくると、心身が癒されると。
             若い気功師はこれを、「大樹と語る」と言っていた。

             もう一人、こちらは高齢の気功師で、ジーパンにTシャツというラフな服装
             で施術にあたる。
             前者の若い気功師が50分5,000円の施術料に対して、後者は5分で5,000円。
             どちらも、人気の気功師だが、前者は撫でるように、もむように施術す
             る。対して後者は、患者の体に手をかざすだけで触れもしない。
             しかも手をかざしながら世間話をする。あるとき私は、高齢の施術師に言
             った。「先生、私は車で一時間以上かけて此処にきています。5分ではなく
             もう少し長く施術(やって)いただけますか」と。先生いわく「私の施術は5分
             間で十分で、それ以上は必要なく、時間をかけても効果は同じなのです」
             その先生が、最近診療をやめた。
             年を重ねるにしたがって、体内から発する「気」の量が薄くなり、患者が
             望む効果が希薄になって来たのが、原因という。

             気功もまた、特定の人間に備わった特殊な能力なのだろう。

  森羅万象、生きとし生けるものすべては、留まることを知らず、
  流れていく。
  「方丈記」の鴨長明は、川面を流れる泡沫を人の世のさだめと考え〈行く河の流れは絶えずし   
  て……ひさしくとどまりたる例なし〉と無常観を表し、
  「平家物語」では、琵琶の音にのせて諸行無常の響き奏で、どんなに権勢をふるい得意の絶頂にあ
  ってもそれは一瞬のことで〈ただ春の夢のごとし……ひとへに風の前の塵におなじ〉と、
  人生の儚さを謳いあげる。 

   だからこそ、真民さんは今の一瞬を精一杯生きろと教えている。
   凡人には難しい生き方かもしれないが……。

                   ックデーター
                      「坂村真民 一日一言 人生の詩、一念の言葉」
                        致知出版社 2006(平成18)年12月刊 第一刷
     (読書案内№181)      (2021.10.01記)

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パラリンピック ③ プロパラアスリート 山本(39歳)

2021-09-27 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

  パラリンピック ③ プロパラアスリート 山本(39歳)

                    パラリンピック陸上男子走り幅跳び 闘志が燃える
 

 山本は、講演会で紹介されるとき、「プロパラアスリートの山本」と依頼する。
 
 山本 篤の略歴
   小学生では野球、中学生と高校ではバレーボールをしており、
     高校時代の垂直飛びでは1mを超える驚異的なジャンプ力を持っていました。
          2000年3月、
      高校2年生の春休みにスクーターで事故を起こし、左脛骨を粉砕骨折する大けがを負い、
      手術で左足を大腿から切断しました。
      大腿から切断。衝撃的で、精神的にも大きな打撃を受ける出来事でしたが、
      「今、写真撮っといたほうがいいんじゃない?」
      「僕が有名になったときにその写真使えるよ」と当時のエピソードが
      インタビュー等で語られています。
      
高校2年にの春、16歳の青春真っ只中の少年が母に向かっていった台詞は、
      左大腿を失った衝撃に負けまいとする強がりと、
      母を安心させるための優しいセリフだったのではないだろうか。
      と、当時の山本篤の心境を推測しているのですが、
      それにしてもこの心の余裕と、前向きの姿勢に私は驚いています。

  だが、その後の山本の人生行路は、まさに前向きに意欲的に歩んでいることに感動する。
  大腿部切断は、山本の人生の大きな転換点になった。
  高校卒業後に山本は義足との出会いから、義肢装具士になるための専門学校に入学し、
  そこで、競技用義足と出会った。
  失った左足の機能をカバーする「競技用義足」に、山本は生きる目標を見つけた。
  陸上競技を始めるのに時間はかからなかった。
  背中を押してくれた義足サポート研究者の稲葉さんの勧めもあって、
  陸上競技の道に入るのに迷いはなかったようです。
  義足装具士の国家資格を取得し就職も決まっていましたが、
  2004年4月に大阪体育大学体育学部に入学することに。
       そこで入部した陸上競技部では走り幅跳びで日本記録を塗り替え、
       世界ランキング上位の実力を見せつける。

  2008年 スズキ株式会社に入社、スズキ浜松アスリートクラブに所属。
    同年 北京パラリンピックで走り幅跳び銀メダル獲得
                    (義足の陸上選手として日本初のメダリスト)男子100㍍ 5位
      その後、大阪体育大学大学院体育学博士課程に進み運動力学を研究する。
      義肢装具士の国家資格を持ち、
      義足の改良を行い、自己日本記録を更新し続けた。

  
2012年 ロンドンパラリンピック
       
男子走り幅跳び(F42-44) 5位 男子100m(T42) 6位 男子200m(T42) 8位

2016年 リオパラリンピック
     
男子走り幅跳び 銀メダル 男子4×100mリレー(T42-47) 銅メダル 男子100m(T42) 7位
2017年 大きな転機と飛躍の年になりました。
     9年間務めた自動車販売会社スズキを9月に退社。
     「(スズキでは)練習、競技環境は恵まれていた。でも、会社員を辞めてプロになる、
     パラでもそんな道があることを示したかった」
          「プロアスリートになることで社員アスリートより崖っぷちになる。
                  競技成績を残さなければいけないですし、発信力もものすごく大切になってくる。
                 でも守られた中でやるよりも、プロとして後がない環境を作ることで
                自分自身を少しでも追い込んでいけるのではと思った。
                しっかりと自分の中で覚悟を持って進んでいく。
                その姿を若いアスリートにも見てもらいたかった」 

      同年10月神戸の新日本住設とスポンサー契約を結び、プロアスリートとして活動開始。
   新たな出発と挑戦。
             スポンサーとの契約は、生活費と競技活動費を合わせて年俸1,500万円でお願い。
     するとスポンサー側から年俸に加えて『パフォーマンスボーナス』
     という出来高契約の提示をされた。
     パラリンピックで金メダルをとれば3,000万円、銀メダルで1,
000万円、銅で500万円。
      「僕をアスリートとして認めてくれたことがうれしい。実勢を積み上げれば、お金は稼げる」
      「プロって僕が思うのは、一番は影響力を持って行動できる人、そしてそれを発信できる人」
                                  (朝日新聞8/29付記事から引用)
     
   2018年 
平昌(ピョンチャン)冬季パラリンピックでは、スノーボート競技の日本代表として出場

   2019年 ドバイで開催された世界パラ陸上競技大会走り幅跳びで銅メダルを獲得し、
                         2020年東京パラリンピック出場が内定。

        2020東京パラリンピック
    

    4大会連続出場となる山本篤 陸上男子走り幅跳びでメダルは逃したが日本新記録で4位を獲得。
    記録は、自身の日本記録を5センチ超える6メートル75。
     4位入賞だがいま一歩メダルには届かなかった。
     競技前の朝日新聞インタビューにメダル獲得のボーナスの使い道について、
     「足を亡くした子どもの義足の資金にしたい」という希望はかなわなかったが、

    足を亡くした子どもたちとの交流を深めたいと、また競技や社会的活動に山本自身が
     どこまでか変われるかを試したいと、前向きで積極的な姿勢は変わらない。

    プロに転向してからの収入や報奨金などを公表している。
    プロ転向後、900万円の高級車の購入なども明かしている。
    年俸が公開されることで憧れを持たれるプロ野球選手のように、
    後進のパラアスリートに夢を持ってもらいたかったと話している。
    

    メディアに東京2020大会で引退と報じられたが、メディアの一方的な思い込みで、
    山本には引退の気持ちはないと否定。
    だが39歳という年齢を考えれば、幕の引きどきを考えてもおかしくない年齢だ。
    ひたすら走り続けて来た山本が、今後どのような社会参加をし、
    どんな人生を歩んで行こうとしてるのか見守っていきたい。

     (昨日の風 今日の風№123)       (2021.9.25記)

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パラリンピック 難民選手団 ② 多くの困難を乗り越えて

2021-09-12 07:44:48 | 昨日の風 今日の風

パラリンピック 難民選手団 
        ② 多くの困難を乗り越えて 


オリンピックでは若い10代の選手の活躍が多く見られましたが、
 パラリンピックでは中高年選手の活躍が多くありました。
 例えば、最終日の5日、日本選手団で最高齢・視覚障害がある西島美代子さんは66歳です。
 
 レースの終盤では両足がつり何度も立ち止まり、伴走者と声を掛け合いながら、
 42.195㌔を完走しました。栄光の8位入賞でした。
『自らの可能性に挑むそんなパラリンピアたちの姿は、障害や世代、性別、
 国籍を超越した人間の「個」としての尊さを伝え、
 一人ひとりの違いを認め合うことの大切さを体現していた』(朝日新聞9/6記事)
 国を超え、障害を乗り越え、単にスポーツ技術だけでなく、スポーツを生きる希望として
 切磋琢磨する者にとって年齢の差はないのかもしれない。
 オリンピックが失いつつある、オリンピック精神をより強く反映しているのは
 パラリンピックなのかも知れない。


イブラヒム・フセイン選手
  
     
フセイン選手はシリア出身。
   東京2020パラオリンピック競泳男子100㍍平泳ぎ出場。32歳。
   シリア東部のデリゾールで生まれ、水泳コーチだった父の影響で、五歳から泳ぎ始めた。

 アラブの春に右足を失う
   2011年、「アラブの春」と呼ばれる民主化運動がシリアに波及し、やがて内戦に発展した。
   スポーツ施設は閉鎖され大好きな水泳はできなくなった。
   街には毎日のように爆弾が落ち、インフラ設備も破壊され、食料も途絶えがちになった。

   2012年、狙撃手に撃たれた友人を助けに行き、
   近くに砲弾が落ち、右足の感覚を失いひざ下から切断した。
   身の危険を感じトルコに逃げたが、十分な治療は受けられなかった。

   2014年、戦火を逃れ、密航を斡旋する非合法業者に依頼し、
   ゴムボートでエーゲ海を渡り、ギリシャのサモス島に渡り、亡命を果たした。
   トイレ掃除の死後とも見つかり、住む場所も決まった。
    ここまでになるのに、多くの人の善意があったという。
    移動や旅費は周囲の人たちが助けてくれた。
   もちろん、医師の協力は今のイブラハム・フセインのアスリートとしての出発に
   大きな貢献をしたに違いない。
   こういう周囲の善意や支えがあったから、意欲的に水泳に取り組むことができたのだろう。
   才能は少しずつ開花していく。

   2016年リオデジャネイロ・パラリンピック大会では、初めて結成された難民選手団に選ばれ、
   旗手を務めた。
   足を失ってから約9年が過ぎ、うつの症状に悩み、生きる意味も失いかけたが、
   「スポーツをやっているときは気分が和らいだ」と心の内を述懐する。
   壮絶な人生を振り返りながら、
   「難民だって新たな可能性をつくっていける」と、決意を新たにする。

   7月29日の
50メートル自由形運動機能障害のクラスの予選に臨んだイブラヒム・ フセイン選手は、
   世界記録を持つ選手が引っ張る速いレース展開の中、最後まで食らいつき、
   30秒27のタイムで、この組の8位でした。
   決勝に進むことは叶いませんでしたが、
   「スポーツは私を突き動かす、人生になくてはならないものです。
   すべての難民にスポーツをする機会を与えてほしい」と意欲的である。

   かつてシリアで命を救った友人にはいま3人の子どもがいるということで、
   イブラハム・ フセイン選手は、
   「彼が幸せでいてくれることが、私にとっても生きがいになっている」と話しています。
                                (
イブラハム・フセイン選手の項目は、中日新聞、朝日新聞WEBニュースを参考に構成しました)
   
  国際パラリンピック委員会によると、紛争から迫害から逃れ、
  家を追われた人々はこの10年で大幅に増え、現在は世界で8200万人を超える。
  このうち約120万人が傷害があるという。
                                            (おわり)

        (昨日の風 今日の風№123)                  (2020.9・11記)

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パラリンピック 難民選手団 ① 栄光の「スリーアギトス」大会旗

2021-09-08 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

パラリンピック 難民選手団 栄光の「スリーアギトス」大会旗

                   (お台場の海浜公園会場に設置されたシンボルマーク)
     このパラリンピックのシンボルマークは何を表しているのでしょう。
「スリーアギトス」と呼ばれています。
「アギト」とは、ラテン語で「私は動く」という意味で、
困難なことがあってもあきらめずに、
限界に挑戦し続けるパラリンピアンを表現しています。
赤・青・緑の三色は、世界の国旗で最も多く使用されている色ということで選ばれました。
                   
(日本パラリンピック委員会ホームページより引用)

アスリートたちが、自分の身体能力を可能な限り引き出し、
自由に飛び跳ねているようなイメージが湧いてきます。
赤は情熱を
青は自己主張と責任を
緑は若葉の輝きをイメージしているようにも思います。

現在のパラリンピックシンボルマークは2019年から使用されています。


     難民選手団
   聴きなれない名称だが、難民選手団の結成は、オリンピック・パラリンピックを通じて
   前回2016年のリオデジャネイロ大会が最初です。
   紛争などで母国を離れざるを得なかったアスリートたちに、
   スポーツの場を提供することを目的として結成されオリパラ両方に派遣されました。
   パラリンピックにはシリアとイランからの選手2人が出場しました。

   さて、東京2020パラリンピックでは、 IPC(国際パラリンピック委員会)は内戦が続く
          中東・シリア出身の選手など4つの競技の選手6人を派遣 をきめました。
   陸上、競泳、カヌー、テコンドーの4つの競技に男子5人、女子1人の合わせて6人の選手です。
 開会式 閉会式の入場行進
     
   (開会式)                  (閉会式)
   入場行進は開会式共に、閉会式共に難民選手団が飾りました。
   翻った旗は、「スリーアギトス」のロゴが入った、パラリンピック大会旗です。
   開会式で栄光の旗手を務めているのは、アバス・カリミ選手。24歳。
   身体に「スリーアギトス」の大会旗を体に巻き付けての栄光の入場です。
   自国の旗でないのは残念ですが、
   政治的困難、社会困難、身体的困難、精神的困難等多くの困難を乗り越えての
   「東京2020 パラリンピック」入場です。
 
アバス・カリミ選手
  生まれつき両腕がないアバス選手は、13歳の時、兄が造ったプールで泳いだのが
  水泳に関わるきっかけでした。両腕のないアバスにとって水泳は両足を巧みに使って
  自由に動き回ることができた最高の遊びになったのでしょう。
  「その日から水泳はアバス選手のオアシスとなりました」(NHKの紹介文)。
      タリバンなどの武装勢力から逃れて競技に打ち込むため、
     16歳のとき、家族を残して1人でトルコに亡命し、
  イスタンブールの難民キャンプに滞在しながら水泳を続けました。
  その後、練習拠点をアメリカに移し、
  2017年にメキシコで開かれた世界選手権では銀メダルを獲得しました。

      
 今大会では、男子50メートル バタフライと男子50メートル 背泳ぎに出場。
 競泳男子50メートル背泳ぎ(運動機能障害S5)予選に出場した。
 1組7着で、50メートルバタフライに続く決勝進出は逃したが、
 初出場のパラで確かな足跡を残した。
 どちらの競技も両腕のないアバス選手は、足と背筋を巧みに使って競技に挑みました。
 「神様は誤って私の腕を奪いましたが、足に才能を与えてくれたと思っています」
 なんと素晴らしい言葉でしょう。(2016年からアメリカ在住) 

閉会式の入場の旗手は、アリア・イッサ選手です。
 
 車いすに大会旗の「スリーアギスト」を取り付けてのトップ入場です。
 20歳のアリア・イッサ選手は、パラリンピック参加選手の中で最年少です。
 2015年に家族とともに難民認定されました。
 4歳の時に高熱により脳に障がいが残ったため、身体的、知的障がいがあります。
 幼少期はうまく言葉を話すことができず、学校でいじめられることもありました。
 2019年に本格的にこん棒投げを始めた「こん棒投げ」で、9選手中8位で入賞。
 史上初の難民女子パラリンピアンとして東京2020パラリンピックに名を残した。
    ◇ こん棒投げ =パラリンピック独自の投てき種目。ボウリングのピンのような形をした木製の棒
      (長さ約40センチ、重さ約400グラム)を投げ、飛距離を競う。握力が足りず、やり投げや
       円盤投げなどに参加できない選手のために考えられた。今大会で使うこん棒の一部は、
       東京都立工芸高校の定時制課程の生徒が製作した。

                                   (つづく)

     (昨日の風 今日の風№122)      (2021.9.7記)







 

 

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