落合順平 作品集

現代小説の部屋。

東京電力集金人 (84)放射線量、スクリーニング

2014-09-17 13:24:06 | 現代小説
東京電力集金人 (84)放射線量、スクリーニング



 富岡駅から国道6号線に戻り、双葉町にむかって北へすすむ。
ここから双葉町までは、およそ14キロほどある。
この区間は、最初から重度の警戒区域の指定を受けている。
海岸沿いを北上する国道6号線が、事故を起こした福島第一原発に最接近するためだ。
1時間当たりの空間放射線量は高い場所で、いまだに30マイクロシーベルトを記録する。

 
 国は14キロあまりのこの区間の除染を、急ピッチですすめている。
早ければ3ヶ月ほどで除染作業を終了させ、夏には自由走行を実現させたいと息巻いている。
現状は、避難区域に住んでいた住民が通勤や通院、一時帰宅などを理由に各市町村から
「特別通過」の許可を受けた場合にのみ、通行することができる。


 国道6号は、福島の復興と復旧のために欠かせない幹線道路だ。
14キロ余りの規制区間が撤廃されると、国道6号国道はいわき市から新地町までの
全163キロが、かつてのように通行できるようになる。
だが現実はそれほど甘くはない。厳しい現実がすぐ、俺たちの目の前に現れた。


 
 東電が運営している巨大なスクリーニング(放射線測定)会場が、前方に出現した。
ここで線量計や防護服、無線機などが手渡される。
帰還困難区域に入るためのチェックを受ける場所で、必ず通らなければならない関所のようなものだ。
だが検問と放射線を測定するためのスクリーニングは、この場所だけではない。
浪江町を通過するまで最低3ヵ所で、同じような検査を受けることになる。


 スクリーニングには、「ふるい分け」という意味が有る。
原子力施設周辺に住む住民たちが原子力災害が発生した際の、放射能汚染の検査や、
これに伴う医学的検査を必要とする事態が生じた場合、救護所などにおいて、
国の緊急被ばく医療派遣チームの協力を得て、身体の表面に放射性物質が付着している
者のふるい分け作業を実施する。
この作業のことを、スクリーニングと呼ぶ。
人だけに限ったわけではない。同行した動物や車まで、念入りに検査をされる。


 スクリーニングを実施した結果、放射能汚染の応急除染が必要と認められた者は、
救護所要員の指示のもと、自分で除染を行う。
残存汚染がある場合や、医療的な処置が特に必要と認められた場合は、
二次被ばく医療施設に転送されることもある。



 入るためのスクリーニング検査を終えた後、「なるべく速やかに、通過してください」
と担当係官が、書類を返してくれた。
群馬ナンバーを胡散臭そうな目で見た係官が、るみの浪江町の住所で納得をしたようだ。
「無用に路肩に立ち止まったり、脇道には、絶対に入らないようにしてください」
と係官が俺たちの顔を執拗に覗き込みながら、さらにくどくどと念を押す。


 「脇道に入るなと言ったって、どこもかしこも、短管のバリケードだらけじゃないか。
 よく言うぜ、あの愛想の悪い係官の野郎も」


 「仕方ないじゃないの、仕事でやっていることだもの。
 除染作業中だし、物見雄山で路肩に停まったらそれこそ邪魔で仕方がないじゃないの。
 それに、空間線量がこんなにも高いのよ。ほら」



 るみが預かって来たばかりの空間線量計を、運転中の俺の目の前に差し出す。
3マイクロシーベルトから8マイクロシーベルトの間を、数字が忙しく上下している。
別に機械が故障しているわけではない。
国道に沿って路肩や側溝などで、急ピッチでの除染作業が進行しているためだ。
あれから3年が経過した今、ほとんどの放射性物質は、地表と地下数センチの層に堆積している。
警戒区域に除染作業が入った今、別の意味で被爆の危険性が増している。


 線量の高い地域で行われる除染作業は、真夏でも防護服にマスク、手袋を必ず着用する。
これから暑くなれば、熱中症の危険性も増してくる。
重機などを多用するため、堆積した放射性物質がふたたび空中に舞い上がる。
あちこちで除染作業が急ピッチですすんでいる国道6号線は、事故直後のきわめて危険な
汚染状態に、逆戻りしているともいえるだろう。


 (誰が車を停めるもんか。こんな危険な道路の路肩でなんか・・・)



 茶色の雑草で路肩が覆われている双葉町へ向かう国道は、3年前のあの日のまま、
まったく時の流れを失っている。
双葉町は町の96%の面積が、立ち入り不可の「帰還困難区域」に指定されている。

 立ち入りが許可された帰宅準備地区には、たった4%の住人しか住んでいないことになる。
96%を占める帰還困難区域の住民たちの一時帰宅は、きわめて厳重に管理されている。
申請者は3カ月に一度しか、出入りすることが許されない。
入ることを事前に申請した上で、スクリーニング場や検問などで何度も確認されたうえで
ようやく、町の入り口にたどり着く。


 国道から見る限り、双葉町の中に、まったくと言っていいほど人の姿は見えない。
除染作業も手がついていないため一時帰宅が許された車と、ごくたまにすれ違うだけだ。
電気や水道などのインフラは、あの日のまま復旧をしていない。
町は生活の機能を失ったまま、信号機は赤の点滅を、ひたすら無駄に繰り返している。


 町内は何処を見ても、まったく茶色の一色だ。
伸びたまま枯れてしまった雑草と、手入れをされずに赤々とサビついた家々ばかりが目立つ。
地震と余震で壊れた家が、道路をふさぐように倒壊している。
双葉高校には、平成23年3月の全国高校柔道選手権大会出場を祝う垂れ幕が
はられたままだし、双葉町役場の時計は、2時46分を指していまも止まったままだ。




(85)へつづく

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東京電力集金人 (83)観光気分のおやじ

2014-09-16 07:47:47 | 現代小説
東京電力集金人 (83)観光気分のおやじ



 (このまま、ゴーストタウンに変ってしまうんだろうか、ここは・・・)


 そんな不安が俺の頭をよぎった瞬間、駐車場の向こうに一台のマイクロバスが現れた。
見るからに派手なロゴが、小さな車体を埋め尽くしている。
今時の少女歌手たちが移動のために使うバスのような、なんともいえないド派手さが有る。
だが期待に反して、どやどやとバスから降りてきたのは、10数人の初老の男女たちだ。
慰霊碑の前で頭を下げている俺たちをちらりと横目で見たあと、初老の集団が
駅前商店街の入り口で、思い思いに立ち止まった。


 県外から、観光気分で廃墟の見学にやって来た一団なのだろうか。
少しの間、立ち止まり周囲の様子をきょろきょろと見ながら、ひそひそと声を交している。
津波に襲われた時のままの商店街の様子を、興味深く観察している雰囲気が
遠くに離れている俺たちのところまで、なんとなくだが漂ってくる。
 

 やがてそれぞれが分かれ、いろんな方向へ足を運び始める。
カメラを手にしたおばさんたちが、廃墟と化した商店街の建物をひとつひとつ丁寧に覗いていく
タバコをくわえたおやじが、自動改札の残骸をひらりとこえて、ホームの中へ入っていった。
そのあとを追うように数人のおやじたちが、ぞろりとホームの中へ同じように消えていく。



 電車の架線を支えていたコンクリート・ポールは、地上5メートルのところで
ぽっきりと、鉄筋をむき出しにしたまま折れ曲がっている。
線路わきに建っている鉄道関係と思われる建物も、一階部分は津波の直撃を受けているため、
鉄骨の柱だけを残して、ほとんどが空洞化と言っていいような状態になっている。
わずかに残ったトタンの切れ端と、ぶら下がった板切れが、風が吹くたびにコトコトと音を立てる。
「ほんとにあの日のままなんだねぇ、ここは」と言う声が、あちらこちらから聞こえてくる。


 ホームの末端まで歩いていった親父が、ぺっと唾を吐き出した。
さっきまで口にしていたタバコを、いきなり、ぽいと線路に投げ捨てた。
「危ないじゃないの、あんた。火が点いたままじゃ」と連れの女性がたしなめる。



 「馬鹿野郎。青草に火が点くものか。
 だいいち誰が見たって、此処は、ゴーストタウン寸前の町だ。
 タバコのひとつやふたつ投げ捨てて、ごみが燃えたところで、誰も気が付かねぇ。
 あの日の震災の残骸だけが、ごろごろと転がっているだけのつまらねぇ景色ばっかりだ。
 他に、これといって見るものが有るわけじゃねぇ。
 さっき見てきた富岡港の警察官殉死のパトカーと言い、駅前の廃墟と言い、
 見るからにうんざりしてきたぜ。
 どうにもこうにも、辛気臭くなるような光景ばっかりだ。
 いいから、もう、さっさと行こうぜ、俺たちの本来の目的地へ!」


 ぺっと唾を吐き捨てた親父が、踵を返して、スタスタとホームを戻ってくる。
「おい。運ちゃん。こんな何もないところを見学しても、ただの単なる時間の無駄だ。
さっさと目的地の、スパリゾートハワイアンへ急ごうぜ」
不謹慎なこの親父が、マイクロバスに乗ってきた初老グループの親玉格になるのだろうか。
あちこちを覗いていたメンバーたちが、親父のだみ声を聞きつけた瞬間、みんな同じように、
いそいそとマイクロバスへ駆け戻ってきた。



 最後に戻ってきた親父の連れが、慰霊碑の前で唖然としている俺たちに気がついた。
「地元の人たちかい、あんたたちは?」と、タラップに足をかけたまま、俺たちを振り返る。
「はい。私はこの先の、浪江町の生まれです」とるみが答えると、連れがタラップから
そっと足を降ろした。



 「じゃ、あんたも、此処でひどい目に遭ったひとりなのかい?。
 富岡港の近くに、殉職をした警察官が乗っていたというパトカーが置いてある。
 たったいま、それを見てきたばかりなんだ。
 原型を留めていないパトカーの姿に、そりゃもう、声も出なかったさ。
 福島県内では震災で、全部で5人の警察官が殉職したそうだ。
 住民の避難誘導の最中に、津波に巻き込まれて亡くなった職務に忠実な人たちさ。
 壊れたパトカーには、2人の警察官が乗っていたそうだ。
 そうのうちの1人は30キロ沖の大平洋上で発見されたけど、
 もうひとりの26歳の若い警察官のほうは、いまだに見つかっていないそうだ。
 剣道の達人だった若い警察官のために、壊れたパトカーには、
 母校の高校剣道部から贈られた竹刀が手向けられていた。
 見ていて、そりゃあもう、胸が詰まったさ」


 「おい、いい加減にしろ。もう行くぞ!」と親父が、マイクロバスの窓から顔を出す。



 「分かっているよ、うるさいね。もう行くから、もう少し待っておくれよ。
 そうかい、お嬢さんは、立ち入り禁止の浪江町の生まれかい。
 悪かったねぇ。うちの亭主は口が悪くってさ。
 でもさ、悪気はこれっぽっちも無い人なんだ。
 宮城の同じ仮設住宅で、隣近所で暮らしている住人たちの、久しぶりの慰安旅行なんだ。
 羽根を伸ばしに、いわきのハワイアンセンターへ行く途中だよ。
 思い出したくなんかないよねぇ。あの日の事なんか。
 でもさぁ、忘れるわけにはいかないし、ここの様子も気になって、
 ついつい、足を伸ばして来てしまったんだ。
 悪かったねぇ。あんたたちの仲のいいところを騒がしちまって。
 じゃ、頑張るんだよ、あんたたちも」


 それだけを言うと連れの女性が「よっこらしょ」と大きな身体を揺らし、
マイクロバスの中へ手を振りながら、消えていく。
くるりと方向転換したマイクロバスが、俺たちの横を本来の旅の目的地でもある、
いわき市に向かって、ゆっくりと走り出していく。
消えていく瞬間、かすかに開いたバスの窓からさきほどの親父がひょいと顔を出し、
「じゃなぁ。頑張れよ」と、口をかすかに動かしたような気がした・・・



(84)へつづく

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東京電力集金人 (82)草に覆われた常磐線

2014-09-14 10:55:23 | 現代小説
東京電力集金人 (82)草に覆われた常磐線




 6号線から富岡駅までの道は、見るも無残に荒れ果てていた。
補修されず、2年以上も放置されたままの道路は、いたるところでひび割れている。
アスファルトは完全に道路の色を失い、雑草の伸びきった路肩が、道路をさらに狭く見せる。
荒れた路面はクッションの良いクラウンでさえ、時には床を着きそうになる。


 悪路の道を、やっとの思いで富岡駅へたどり着いた。
駅の前には、小さいながらも商店街らしきものが広がっている。
商店街の一角にある美容室の時計は、震災が発生した2時46分を指したまま壊れている。
商店街の一階部分の壁は、同じようにみな完全に壊れている。
空洞に変った一階部分に、商品や家具が散乱している建物がやたらと目立つ。


 行き来きしているのは、除染作業に従事している作業員たちばかりだ。
そんな商店街の中に一軒だけ、金物屋さんが店を開けていた。
「避難先のアパートにいてもやることがない。ここには本も置いてある。
仕事関係の書類もあるし、此処に居れば、たいくつをしないで済むからね」と、
老いた店主が目を細めて笑う。
店の電気は復旧したが、呑み水は、自宅の井戸から汲んできているという。


 「おかげ様で、昨年の11月から、こうして店を復活させることができた。
 と言っても見た通り、いままでここに住んでいた住人たちが、戻ってきているわけじゃない。
 お客さんと呼べるのは、ほとんどが、除染作業で毎日やってくる人たちだからね」


 当の店主も、車で一時間近くかかる福島県いわき市のアパートから、
ほぼ毎日、ここへ一人で通ってきているという。
居住制限が解除されたら自宅へ戻るのですかと質問すると、年老いた店主は、
首を静かに横に振った。



 「うちの集落には津波が来る前は、全部で28世帯あった。
 居住制限が解除されたら戻ると言っている人は、そのうち、せいぜい2~3世帯だ。
 残りの人は、新しい場所で生活することを考えている。
 せめて8割くらいの世帯が戻って来ないと、集落の生活は成り立たない。
 そういう事情が有るから、わしらはたぶん、もとの集落には帰れないだろう」

 
 と、寂しそうにうなだれる。
老店主に礼を言い、ゴーストタウンのような商店街を後にした。
商店街から錆びついた線路を越え、海側へ足を進めると、一面に広がる荒れ地の真ん中に出た。
あの日の津波で、このあたり一帯にあった建物が、根こそぎすべて流されたためだ。
枯れた雑草の中に、大破した車や、津波で打ち上げられたままの漁船が放置されている。
横に傾いている漁船は、ペンキの色が概に剥げ落ちている。
木造部分はポロポロと、軽く指で触れただけでもろく地上へ落ちていく。


 (戻ろうか)とるみに合図して、俺たちは、富岡駅の方向へむきを変えた。
海岸沿いで動いている人たちの姿が、遠くから警察か消防関係者のように見えたからだ。
(行方不明者の捜索かもしれないな・・・)そう直感した瞬間、これ以上、
海に向かって歩くことに躊躇を感じたからだ。
るみも同じ思いでいたのかもしれない。素直にうなずいて俺の後を着いてきた。



 常磐線の富岡駅は、3年前の、津波の直撃の様子をそのまま残している。
3年が経過したというのに、いまもなを、被災地の鉄道網の復旧は大幅に遅れている。
津波と原発から受けたダメージが、あまりにも大き過ぎるためだ。
浜通りに沿って走るJR常磐線は、広野駅(広野町)と原ノ町駅(南相馬市)の間で、
いまも運転停止の状態が続いている。


 富岡駅は、福島第一原発から直線距離で10キロ余りのところに建っている。
立入禁止が2年以上も続いたため、生々しい津波の跡が、あの日のままに
いたるところで残っている。
駅のホームから、太平洋の水平線がかすかに見える。
木造平屋建ての駅舎はすべて津波で押し流されたため、コンクリートの基礎だけが残っている。
ホームにあったと思われる駅名標や、広告看板は、内陸方向にぐにゃりと折れ曲がっている。
あの日の津波のすさまじさを、まさに雄弁に物語っている。


 線路の隙間には、春の雑草が青々と伸びている。
だがその先の線路は、伸びきったままの夏の枯草が、赤いレールをすべて覆いつくしている。
線路内にもその周辺にも、津波で押し流されてきた乗用車が、何台も横転したまま放置されている。
主要な駅のひとつとして、スーパーひたちが停まった海沿いの駅は、いまはただ、
あの日の惨状をさらしたまま、なすすべもなく時間の中で風化しはじめている。
俺の眼には、富岡駅の様子がそんな風に見えてきた・・・



 駐車場の片隅に、ささやかな慰霊碑が見える。
町が建てたものではなく、町民の有志たちが集まって建てたものだ。
慰霊碑を作った同町の男性のひとりは、人がたくさん亡くなった場所にもかかわらず、
手を合わせる人がいないことに、深い憤りと悲しみを感じたという。
犠牲者を弔うものが近くに無いため、男性たちが自ら慰霊碑を建てたという。
有志たちのそうした思いを、観光気分でここを訪れる人も感じとってほしいものだと、
何故かそんな風に、俺の胸が痛んだ。


 るみが記念碑の前で手を合わせ、深く頭を下げた。
るみに促された形で俺も、思わず両手を合わせ、慰霊碑に向かって頭を下げた。
かつてのプラットホームから、青く悠々と輝く太平洋が、手に取るほどまじかに見える。
駅前の道路は、一時帰宅が始まる前までは、まったくの瓦礫の山だったという。
津波に生活のすべてを押し流された町は、ただ春の風が吹き抜けるだけで、
まったくどこにも再生のための、活気を感じさせないものがある。


 (このまま、ゴーストタウンになってしまうんだろうか、ここの駅と駅前は・・・)



(83)へつづく

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東京電力集金人 (81)富岡町の田圃にて

2014-09-13 12:30:28 | 現代小説
東京電力集金人 (81)富岡町の田圃にて




 Jビレッジを超えると、「楢葉工業団地入口」という大きな交差点が近づいてきた。
事故の直後。ここには立ち入り制限の最初の検問所が設けられていた。
ここから先が20キロ圏の「警戒区域」にあたるため、立ち入り禁止の境界線にされたわけだ。
だがその後の見直しをうけて、富岡町が避難指示解除準備区域に指定されたため、
当初の検問所は廃止され、ここから数キロほど北へ移動している。


 我が家へ帰れることになっても、富岡町の実態はいたって深刻だ。
わずか68平方キロメートルあまりの狭い町内が、長期にわたって人が戻れない
「帰還困難区域」、居住が制限される「居住制限区域」、帰宅のための準備に入れる
「避難指示解除-準備区域」の3つに、区分をされてしまったからだ。


 自宅へ帰れる人と、帰れない人が町の中に生まれたため、これまでの人のつながりが
崩壊してしまう危険性が出てきた。
辛うじて絆を保ってきた地域社会のつながりが、今回の再編計画の見直しにより、
帰れる人と帰れない人の2つに、区分をされてしまったからだ。


 帰還が可能の「避難指示解除準備区域」にも、厳しい現実が待ち構えている。
出入りは自由になったが、帰還する住民たちを待ち受けている現状は、震災前の富岡とは
似ても似つかぬ姿に変貌しているからだ。
場所によっては相変わらず、放射線量の高いままの一帯が残っている。



 町の中には、高濃度を示す「除染」した表土を詰めた黒いコンテナバックが、
いたるところに、うず高く積まれている。
地震と津波の影響により、寸断されてしまった上下水道の設備は、いまだに破壊されたままだ。
警察や消防機能が存在をしていないために、治安維持のために住民自身が自主的に
パトロールをしなければならない状態が続いている。


 「ねぇ。田圃で、トラクターが仕事をしている・・・・」


 荒れ放題の土地が続く中、田圃の上で、一台のトラクターが土をかき混ぜている。
人が戻れるようになったとはいえ、周囲の様子は見るからに荒れ放題のままに荒れている。
立入禁止をしめす鉄管のバリケードが、まるでガードレールのように、国道の脇を、
延々とどこまでも続いている。


 るみが「停めて」と、目で俺に合図した。
言われた通り、麦わら帽子姿でトラクタに乗っている男性の田圃の脇で、車を停めた。
乾いた土をかき混ぜている麦わら帽子の男性は、路肩に止まった俺たちの車に一瞥をくれたあと、
何事もなかったかのように、ゆっくりそのまま次の土掻きに回っていく。
るみが助手席のドアを開けて、田圃の畔に降り立った。
数分後、一周を終えたトラクターが、るみがにこやかに立っている畔に近づいてきた。


 るみがちょこんと頭を下げると、麦わら帽子の男がトラクターを止めた。
「群馬ナンバーだね。道にでも迷ったかい。
わざわざ群馬から、こんなところまで新婚旅行の最中かい。珍しいのにもほどがある」
と男が白い歯を見せて、るみに笑いかける。



 「群馬じゃありません。あたしの出身は、浪江町です」とるみが答えると
「なんだ。それじゃ新婚さんの里帰りか」とまたまた目を細めて、大きな声で男が笑う。
「いえ、それも外れです。まだ結婚式を挙げる前なんですけど、わたしたち」と、
るみが可愛くはにかんでみせれば、
「それじゃ、田舎へ帰って、両親に結婚式の報告でもするのか?」
と、男がるみの顏を覗き込む。
「はい」と嬉しそうにるみが応えると、「そいつは、実に目出度いことだ」と、
男が頭から、ゆっくりと麦わら帽子を脱いだ。


 「じゃ、せっかくだからお茶でもするか」と、運転席から降りようとする男に、
畔からるみが手を差し伸べる。


 「ありがたいね。自分の実の娘にも、手を差し出されたことは無い」と男が笑う。
「娘さんが居るのですか!」とるみが驚くに、
「おう。もっともいわきに避難したままで、もう2度と此処には戻ってこないがね」
と笑った後「あんたほど、別嬪じゃないがね」と、男が苦笑いを見せる。

 「そっちの、将来の婿殿も一緒にどうだ。
 何もないが、暖かいお茶と握り飯くらいなら用意してある。遠慮すんな」



 福島県の2010年度のコメの収穫量は、約44万5千トン。全国4位に位置している。
震災の年の2011年。放射能による汚染が懸念されたが、1700か所に及ぶ放射能の
検査の結果、「安全宣言」が出された福島のコメ。
だが、現実はそれほど甘くはなかった。
コメ仲買業者の倉庫には、売り先の決まらない新米が次々と運び込まれ、山積みにされた。
例年なら収穫前に契約を交わしていた得意先が、ことごとく取引の中止を表明したためだ。


 汚染された福島産牛肉の流通が発覚して以来、全国に広がる「福島産」を敬遠の動きが
安全なはずの米にも、悪影響の影を落とした。
西日本の業者は「福島の米はタダでもいらん」と言いきった。
別の業者は、福島の弱みにつけ込むように当然のように、破格ともいえる大幅な値引きを求めた。
安全なはずのコメが売れない現実に、産地はどう立ち向かえばいいのか、
コメの生産者たちは原発の事故以来、おおいに苦悩してきたという。


 男性は富岡町に避難指示が出た時、たったひとりで此処に残ることを決意したという。
奥さんと一人娘をいわき市の仮設住宅に送り届けたあと、単身で、この地へ舞い戻った。
長年コメ農家として暮らしてきた自らの生活を、守り、貫き通すためだと、
はっきりと俺たちに言い切った。



 「だがな、震災の翌年は、田圃の作付けさえままにならなかった。
 作ってもどうせ売れないだろうという悲観が有るし、県や役場も、田植えは自粛しろという。
 長年、米だけを作って生きてきた百姓が、ほかに何を造れと言うんだ。
 季節が来ると、またこうして田圃を耕して、田植えのために水の準備をする。
 そうすることでまた、米作りのための一年が始まるんだ」


 尾根に残るかすかな残雪を見上げながら、男が、にっこりと俺たちを振り返った。



 「せっかくだ、富岡駅まで行って見な。
 震災のあの日のまま、まったく時間が止まって、残骸だけがやたらと残っている。
 俗にいう、震災のホットスポットみたいな場所だ。
 もっとも最近は残念なことに、なにやら、絶好の観光スポットのように人が訪れ始めた。
 浪江町出身のお嬢さんなら、また観光とは違った光景が、きっと見えることだろう。
 ありがとうよ、久しぶりに、いい休憩になった。
 気を付けて行きな、お嬢さん。
 まるで、いわきに居る娘が戻って来たみたいで、嬉しかったさ、俺も」


 じゃなというとまたトラクタに乗り込み、男がゆっくりと麦わら帽子をかぶったあと、
エンジンを軽快にスタートさせた。


(82)へつづく

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東京電力集金人 (80)警戒区域、最南端の町

2014-09-12 10:50:24 | 現代小説
東京電力集金人 (80)警戒区域、最南端の町



 警戒区域の南端に位置している楢葉町は、1956年に、木戸村と竜田村の2つが
合併して誕生した町だ。
太平洋に面し、気候は温暖で、基幹産業は農業と漁業の2つだ。
町の中に木戸川、井出川という2本の河川が通っており、木戸川では毎年、
6~7万匹のサケが捕れていたと言う。


 ここには、東京電力の福島第二原子力発電所1号機と2号機が立地している。
「原発を抱える町のひとつ」として一定程度の雇用が確保され、関連企業なども含めると、
住民の4分の1が、電力会社の関連企業に勤めている。


 東日本大震災当時の町の人口は、およそ7800人。
3月11日の14時46分。この町を、震度6強の地震が襲った。
10メートルを超える大津波が、町の海岸に到達したのはおよそ40分後の、15時27分。
沿岸地域に建てられていた多くの家屋が、一瞬のうちに濁流に飲み込まれてしまった。
100名を超える人たちが、この第一波の大津波の犠牲になった。



 翌日、3月12日の朝8時。町は独自の判断で、全町民にたいして避難指示を出す。
この時点で、福島第一原発が危険な状態にあったことを察知したわけではない。
危険を見越して、前日の11日から東京電力の社員が、役場に張り付いていた。
圧力容器の温度の変化や、プラントの状況についての情報が、時間とともに役場に届く。
しかし、危険な状態になったから早く避難しろという情報は、一向に届かない。


 3月12日の未明。国が避難指示の対策をとりはじめる。
早朝の5時44分。まず、福島第一原発から半径10km圏内に最初の避難指示が出る。
続く7時45分。第二原発から半径3km圏内に避難指示が出される。
さらに10km圏内は、危険だから屋内に退避しろという指示が出る。


 しかし通信網が寸断されている被災地では、肝心の情報が正確に届かない。
せっかく出された国からの避難指示も、停電が続く被災地には断片的にしか届かない。
だがこの時点において、いち早く被災地に入った自衛隊員や、警察官たちが
完全装備の防護服姿でいたことは、まぎれもない事実だ。
住民たちには危険な状態を周知しないくせに、自衛隊員と警察官に国はいち早く、
危険を認知させていた事実が、実はここからもうかがえる・・・・



 ともあれ楢葉町は、町民の約7割、6000人の受け入れを表明してくれた
いわき市に向かって、一気に避難のための行動をとりはじめる。
通常であれば車で40分ほどで行ける距離が、避難民による交通渋滞が発生して、
5時間以上かかったと言われている。

 簡単な避難で、全員がすぐに帰れる予定だった。
だが、この後に町は福島第一原発の20Km圏内の「警戒区域」に設定されたため、
震災後1年以上も、まったく町に戻れない状態になる。
解除されたのは。1年以上が経過した、2012年の8月10日のことだ。
ようやくのことで出はいりの許可が出て、避難をしている9つの自治体のトップを切り
避難指示解除準備区域に、全町が再編される。


 検問が解除されたため、町民は、日中に限り、自宅に自由に通行できるようになった。
だが、夜間の出入りと自宅に宿泊することはいまだに禁じられている。


 「なんだ。あれ。あの黒い袋は・・・」


 「除染で出た、大量の放射性廃棄物の袋よ。
 とりあえず、行くところが決まっていないので、ここに貯蔵されているの。
 べつに放置されているわけじゃないのよ。受け入れ先が2転3転をして
 いまだに、未決定なだけの話です」

 
 海岸線の近くに、真っ黒い袋が山のように貯蔵されている光景がひろがってきた。
津波で壊滅的な被害を受けたといわれている、海沿いの波倉地区だ。
大物アイドル歌手の別荘といわれている家だけが、錆びれたままぽつりと残っている。
東北のサーフィンの「聖地」として知られ、おしゃれなカフェなどが立ち並んでいたという場所だ。
だが今は何もない平地に変り、除染で出た廃棄物が行く先もなく、ただ大量に並んでいる。


 「ここはいま、福島から出た汚染物質の中間貯蔵施設の候補地にもなっているのよ」


 中間貯蔵施設。最近なにかとマスコミを騒がせている、物騒な言葉だ。
文字通り、除染で取り除いた土や放射性物質に汚染された廃棄物を、最終処分をするまでの間、
安全に管理・保管するための施設のことだ。
福島県内の除染で出た汚染土や、高い放射能濃度の焼却灰を、最長30年間保管するという。
双葉町や大熊町などの、福島第一原発周辺が候補地として名前があがっている。
およそ16平方キロメートルの面積が必要で、ここに1600万~2200万立方メートルの
汚染土を収容しようという計画だ。


 数字が大きすぎて、とてもじゃないが実感が湧かない。
16平方キロメートル規模なら、一辺が4キロの長さになる。
30年間ここに保管したあと、さらにコンクリートに固化して地中深くに
埋めようという計画も、水面下で進行中だ。
ようするに福島から出た危険なごみは、福島原発の近くに埋め立ててしまえというのが
当初からの国の方針だ。



 「原発を作れば、最終処分ができない危険なゴミが出ることは知っているはずなのに、
 それを黙認したまま原発を動かしてきたから、最後はこういうことになるのよ。
 でもね。恥ずかしい話だけど、原発がとっても危険なことや、燃やされた核燃料の
 最終処分が不可能なことは、実は、最近になってから、はじめて知ったことなの。
 だってさ。事故を起こして放射能漏れをおこした福島第一原発も、
 楢葉町にある第二原発も、あたしが生まれる前から、此処に、
 当たり前のように建っていたんだもの」


 22歳になったばかりのるみが、ぽつりと小さくつぶやく。


 事故を起こした福島第1原発の、営業運転開始日は、1974年7月だ。
福島第2原発の営業開始日は、もう少し後の、1982年4月のこと。
平成の世に生まれたるみが、政府主導による強引な原発開発政策と、燃料として
使用する放射能の危険性について、かつて、喧々諤々の議論が有ったことを知る由もない。
それはまた平成2年に生まれた俺にも、まったく同じことが言える。


 ともあれ俺たちは、黒い袋が延々と積まれた異様な光景の中を次の目的地でもある
富岡町へ向かって、国道をひたすら北上していく。


(81)へつづく

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