東京電力集金人 (80)警戒区域、最南端の町
警戒区域の南端に位置している楢葉町は、1956年に、木戸村と竜田村の2つが
合併して誕生した町だ。
太平洋に面し、気候は温暖で、基幹産業は農業と漁業の2つだ。
町の中に木戸川、井出川という2本の河川が通っており、木戸川では毎年、
6~7万匹のサケが捕れていたと言う。
ここには、東京電力の福島第二原子力発電所1号機と2号機が立地している。
「原発を抱える町のひとつ」として一定程度の雇用が確保され、関連企業なども含めると、
住民の4分の1が、電力会社の関連企業に勤めている。
東日本大震災当時の町の人口は、およそ7800人。
3月11日の14時46分。この町を、震度6強の地震が襲った。
10メートルを超える大津波が、町の海岸に到達したのはおよそ40分後の、15時27分。
沿岸地域に建てられていた多くの家屋が、一瞬のうちに濁流に飲み込まれてしまった。
100名を超える人たちが、この第一波の大津波の犠牲になった。
翌日、3月12日の朝8時。町は独自の判断で、全町民にたいして避難指示を出す。
この時点で、福島第一原発が危険な状態にあったことを察知したわけではない。
危険を見越して、前日の11日から東京電力の社員が、役場に張り付いていた。
圧力容器の温度の変化や、プラントの状況についての情報が、時間とともに役場に届く。
しかし、危険な状態になったから早く避難しろという情報は、一向に届かない。
3月12日の未明。国が避難指示の対策をとりはじめる。
早朝の5時44分。まず、福島第一原発から半径10km圏内に最初の避難指示が出る。
続く7時45分。第二原発から半径3km圏内に避難指示が出される。
さらに10km圏内は、危険だから屋内に退避しろという指示が出る。
しかし通信網が寸断されている被災地では、肝心の情報が正確に届かない。
せっかく出された国からの避難指示も、停電が続く被災地には断片的にしか届かない。
だがこの時点において、いち早く被災地に入った自衛隊員や、警察官たちが
完全装備の防護服姿でいたことは、まぎれもない事実だ。
住民たちには危険な状態を周知しないくせに、自衛隊員と警察官に国はいち早く、
危険を認知させていた事実が、実はここからもうかがえる・・・・
ともあれ楢葉町は、町民の約7割、6000人の受け入れを表明してくれた
いわき市に向かって、一気に避難のための行動をとりはじめる。
通常であれば車で40分ほどで行ける距離が、避難民による交通渋滞が発生して、
5時間以上かかったと言われている。
簡単な避難で、全員がすぐに帰れる予定だった。
だが、この後に町は福島第一原発の20Km圏内の「警戒区域」に設定されたため、
震災後1年以上も、まったく町に戻れない状態になる。
解除されたのは。1年以上が経過した、2012年の8月10日のことだ。
ようやくのことで出はいりの許可が出て、避難をしている9つの自治体のトップを切り
避難指示解除準備区域に、全町が再編される。
検問が解除されたため、町民は、日中に限り、自宅に自由に通行できるようになった。
だが、夜間の出入りと自宅に宿泊することはいまだに禁じられている。
「なんだ。あれ。あの黒い袋は・・・」
「除染で出た、大量の放射性廃棄物の袋よ。
とりあえず、行くところが決まっていないので、ここに貯蔵されているの。
べつに放置されているわけじゃないのよ。受け入れ先が2転3転をして
いまだに、未決定なだけの話です」
海岸線の近くに、真っ黒い袋が山のように貯蔵されている光景がひろがってきた。
津波で壊滅的な被害を受けたといわれている、海沿いの波倉地区だ。
大物アイドル歌手の別荘といわれている家だけが、錆びれたままぽつりと残っている。
東北のサーフィンの「聖地」として知られ、おしゃれなカフェなどが立ち並んでいたという場所だ。
だが今は何もない平地に変り、除染で出た廃棄物が行く先もなく、ただ大量に並んでいる。
「ここはいま、福島から出た汚染物質の中間貯蔵施設の候補地にもなっているのよ」
中間貯蔵施設。最近なにかとマスコミを騒がせている、物騒な言葉だ。
文字通り、除染で取り除いた土や放射性物質に汚染された廃棄物を、最終処分をするまでの間、
安全に管理・保管するための施設のことだ。
福島県内の除染で出た汚染土や、高い放射能濃度の焼却灰を、最長30年間保管するという。
双葉町や大熊町などの、福島第一原発周辺が候補地として名前があがっている。
およそ16平方キロメートルの面積が必要で、ここに1600万~2200万立方メートルの
汚染土を収容しようという計画だ。
数字が大きすぎて、とてもじゃないが実感が湧かない。
16平方キロメートル規模なら、一辺が4キロの長さになる。
30年間ここに保管したあと、さらにコンクリートに固化して地中深くに
埋めようという計画も、水面下で進行中だ。
ようするに福島から出た危険なごみは、福島原発の近くに埋め立ててしまえというのが
当初からの国の方針だ。
「原発を作れば、最終処分ができない危険なゴミが出ることは知っているはずなのに、
それを黙認したまま原発を動かしてきたから、最後はこういうことになるのよ。
でもね。恥ずかしい話だけど、原発がとっても危険なことや、燃やされた核燃料の
最終処分が不可能なことは、実は、最近になってから、はじめて知ったことなの。
だってさ。事故を起こして放射能漏れをおこした福島第一原発も、
楢葉町にある第二原発も、あたしが生まれる前から、此処に、
当たり前のように建っていたんだもの」
22歳になったばかりのるみが、ぽつりと小さくつぶやく。
事故を起こした福島第1原発の、営業運転開始日は、1974年7月だ。
福島第2原発の営業開始日は、もう少し後の、1982年4月のこと。
平成の世に生まれたるみが、政府主導による強引な原発開発政策と、燃料として
使用する放射能の危険性について、かつて、喧々諤々の議論が有ったことを知る由もない。
それはまた平成2年に生まれた俺にも、まったく同じことが言える。
ともあれ俺たちは、黒い袋が延々と積まれた異様な光景の中を次の目的地でもある
富岡町へ向かって、国道をひたすら北上していく。
(81)へつづく
落合順平 全作品は、こちらでどうぞ
警戒区域の南端に位置している楢葉町は、1956年に、木戸村と竜田村の2つが
合併して誕生した町だ。
太平洋に面し、気候は温暖で、基幹産業は農業と漁業の2つだ。
町の中に木戸川、井出川という2本の河川が通っており、木戸川では毎年、
6~7万匹のサケが捕れていたと言う。
ここには、東京電力の福島第二原子力発電所1号機と2号機が立地している。
「原発を抱える町のひとつ」として一定程度の雇用が確保され、関連企業なども含めると、
住民の4分の1が、電力会社の関連企業に勤めている。
東日本大震災当時の町の人口は、およそ7800人。
3月11日の14時46分。この町を、震度6強の地震が襲った。
10メートルを超える大津波が、町の海岸に到達したのはおよそ40分後の、15時27分。
沿岸地域に建てられていた多くの家屋が、一瞬のうちに濁流に飲み込まれてしまった。
100名を超える人たちが、この第一波の大津波の犠牲になった。
翌日、3月12日の朝8時。町は独自の判断で、全町民にたいして避難指示を出す。
この時点で、福島第一原発が危険な状態にあったことを察知したわけではない。
危険を見越して、前日の11日から東京電力の社員が、役場に張り付いていた。
圧力容器の温度の変化や、プラントの状況についての情報が、時間とともに役場に届く。
しかし、危険な状態になったから早く避難しろという情報は、一向に届かない。
3月12日の未明。国が避難指示の対策をとりはじめる。
早朝の5時44分。まず、福島第一原発から半径10km圏内に最初の避難指示が出る。
続く7時45分。第二原発から半径3km圏内に避難指示が出される。
さらに10km圏内は、危険だから屋内に退避しろという指示が出る。
しかし通信網が寸断されている被災地では、肝心の情報が正確に届かない。
せっかく出された国からの避難指示も、停電が続く被災地には断片的にしか届かない。
だがこの時点において、いち早く被災地に入った自衛隊員や、警察官たちが
完全装備の防護服姿でいたことは、まぎれもない事実だ。
住民たちには危険な状態を周知しないくせに、自衛隊員と警察官に国はいち早く、
危険を認知させていた事実が、実はここからもうかがえる・・・・
ともあれ楢葉町は、町民の約7割、6000人の受け入れを表明してくれた
いわき市に向かって、一気に避難のための行動をとりはじめる。
通常であれば車で40分ほどで行ける距離が、避難民による交通渋滞が発生して、
5時間以上かかったと言われている。
簡単な避難で、全員がすぐに帰れる予定だった。
だが、この後に町は福島第一原発の20Km圏内の「警戒区域」に設定されたため、
震災後1年以上も、まったく町に戻れない状態になる。
解除されたのは。1年以上が経過した、2012年の8月10日のことだ。
ようやくのことで出はいりの許可が出て、避難をしている9つの自治体のトップを切り
避難指示解除準備区域に、全町が再編される。
検問が解除されたため、町民は、日中に限り、自宅に自由に通行できるようになった。
だが、夜間の出入りと自宅に宿泊することはいまだに禁じられている。
「なんだ。あれ。あの黒い袋は・・・」
「除染で出た、大量の放射性廃棄物の袋よ。
とりあえず、行くところが決まっていないので、ここに貯蔵されているの。
べつに放置されているわけじゃないのよ。受け入れ先が2転3転をして
いまだに、未決定なだけの話です」
海岸線の近くに、真っ黒い袋が山のように貯蔵されている光景がひろがってきた。
津波で壊滅的な被害を受けたといわれている、海沿いの波倉地区だ。
大物アイドル歌手の別荘といわれている家だけが、錆びれたままぽつりと残っている。
東北のサーフィンの「聖地」として知られ、おしゃれなカフェなどが立ち並んでいたという場所だ。
だが今は何もない平地に変り、除染で出た廃棄物が行く先もなく、ただ大量に並んでいる。
「ここはいま、福島から出た汚染物質の中間貯蔵施設の候補地にもなっているのよ」
中間貯蔵施設。最近なにかとマスコミを騒がせている、物騒な言葉だ。
文字通り、除染で取り除いた土や放射性物質に汚染された廃棄物を、最終処分をするまでの間、
安全に管理・保管するための施設のことだ。
福島県内の除染で出た汚染土や、高い放射能濃度の焼却灰を、最長30年間保管するという。
双葉町や大熊町などの、福島第一原発周辺が候補地として名前があがっている。
およそ16平方キロメートルの面積が必要で、ここに1600万~2200万立方メートルの
汚染土を収容しようという計画だ。
数字が大きすぎて、とてもじゃないが実感が湧かない。
16平方キロメートル規模なら、一辺が4キロの長さになる。
30年間ここに保管したあと、さらにコンクリートに固化して地中深くに
埋めようという計画も、水面下で進行中だ。
ようするに福島から出た危険なごみは、福島原発の近くに埋め立ててしまえというのが
当初からの国の方針だ。
「原発を作れば、最終処分ができない危険なゴミが出ることは知っているはずなのに、
それを黙認したまま原発を動かしてきたから、最後はこういうことになるのよ。
でもね。恥ずかしい話だけど、原発がとっても危険なことや、燃やされた核燃料の
最終処分が不可能なことは、実は、最近になってから、はじめて知ったことなの。
だってさ。事故を起こして放射能漏れをおこした福島第一原発も、
楢葉町にある第二原発も、あたしが生まれる前から、此処に、
当たり前のように建っていたんだもの」
22歳になったばかりのるみが、ぽつりと小さくつぶやく。
事故を起こした福島第1原発の、営業運転開始日は、1974年7月だ。
福島第2原発の営業開始日は、もう少し後の、1982年4月のこと。
平成の世に生まれたるみが、政府主導による強引な原発開発政策と、燃料として
使用する放射能の危険性について、かつて、喧々諤々の議論が有ったことを知る由もない。
それはまた平成2年に生まれた俺にも、まったく同じことが言える。
ともあれ俺たちは、黒い袋が延々と積まれた異様な光景の中を次の目的地でもある
富岡町へ向かって、国道をひたすら北上していく。
(81)へつづく
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