落合順平 作品集

現代小説の部屋。

東京電力集金人 (88)老舗女将の心意気

2014-09-22 11:17:58 | 現代小説
東京電力集金人 (88)老舗女将の心意気




 あの日のことを思い出したのだろうか、るみの眼が遠くを見つめている。
るみが美人女将の居る月の輪酒蔵に勤めてはじめて、ようやく1年が過ぎようとした頃、
東北3県を、最大震度7の激震が襲った。


 遠くに、ごうっという地鳴りの音を聞いた。
「地震かしら?」と感じた次の瞬間、るみの足元がぐらりと動いた。
あっと思った次の瞬間、地底から突き上げてくるような強い縦揺れがやって来た。
弾き飛ばされたるみがかろうじて壁に手をつき、必死で転倒を堪えた。
揺れは収まるどころか、さらに時間とともに激しくなる。



 壁に手を着いたるみが、徐々に体制を低くして、ついに崩れるように床へうずくまる。
時間にしておよそ3分。縦揺れと横揺れを交互に繰り返した激しい揺れは、
人から身動きすることの自由を、完全なまでに奪い去る。
棚からは、次から次に物が落下してくる。
事務机の上に綺麗に並べてあった資料は、ことごとく四散した。
床にうずくまったまま身動きできずにいるるみのところへ、美人女将が飛んできた。


 「るみ。何してんのさ。津波が来るんだよ。愚図愚図しないで早く逃げるんだよ!」

 ほらと女将がるみの手のひらへ、自分の車のカギを握らせる。



 「帳簿と非常時に持ち出す物と、パソコンは積んだから、あんたは早く私の車で逃げなさい」



 「女将さんは!」と叫ぶるみに、「いいから、早く行きなさい」と女将が叱咤する。
「私は年寄りの手を引いて、徒歩で逃げるから、あとで寺の高台で再会しましょう」
と叫び、そのまま女将は、店舗から飛び出して表の通りを駆けていく。
月の輪酒造の従業員たちは、店舗のすぐ前にある駐車場を決して使わない。
徒歩で3分ほどのところにある寺の高台に車を置くことが、常に義務づけられている。


 「万が一の時、海に近い駐車場に車を置いていたのでは、逃げる時の足を失ってしまいます。
 大人の足で3分ほどの高台なら、津波が見えてからでも逃げられる距離です。
 そう信じて、毎日、高台に車を置いてください。
 うふふ。そんな日が来ないことをわたしは祈っていますが、準備有れば憂いなしです。
 これも先代が、海沿いに酒蔵を建てた月の輪酒造の、運命(さだめ)ですから」



 それが普段からの、美人女将の口癖だ。
そしてついにそれが、現実になる日が東北3県にやってきた。
女将から鍵を受け取ったるみは、無我夢中で車に飛び乗り、エンジンをかけ、
目の前の高台にある、寺の駐車場を一心に目指した。
寺にある高台は、海抜にして40数メートル。
十分な高さとはいえないが、過去の大津波でもここまで達したという記録は残っていない。
車を停めたるみが目撃したのは、はるかな高さに盛り上がっている沖の水平線の様子だった。
濁った水平線が、いままで見たこともないほどの異常な高さにまで達している。


 「あれが、津波・・・あんな凄い水平線の高さを、今まで見たことがないわ・・・」



 激しく鳴り響く町のサイレンと、防災無線の「早く逃げろ」と連呼する叫び声に
思わずるみが、身体のすべてを固くする。
るみちゃん!と女将に遠くから呼ばれて、るみがまた正気に戻る。
女将は階段の下にとどまったまま、つぎつぎに避難してくる人たちを高台へ誘導している。
「手伝って!」と言われ、あわてて駆け出し、転がるように階段を駆け下る。
「お年寄りの手を引いてあげて!」女将に指示された次の瞬間、とっさに近くに居た
老婆へ、すかさずるみが手を差し伸べる。


 「来たぞーっ!!」と言う声が、避難する人たちの最後尾から一斉に湧き上がってきた。
海に目を向けると、電柱や家を次々となぎ倒しながら、津波が坂道を迫ってくるのが見えた。
もはや女将と一緒に避難を誘導をしている場合ではない。
近くにいたもうひとりの老女の手をつかむと、さらに上にある山へと続く階段を
必死の思いで、るみは駆け上がった。
下から3段目のところに足を乗せた瞬間、津波はるみの足元にまで伸びてきた。
距離にして、あとわずか1メートルで階段の頂点だ。


「あのとき、あと1分でも判断が遅かったら…」
死と隣り合わせになった恐怖を抱きつつ、るみは必死の思いで、階段をさらに上へと駆け登った。
階段を駆け上がる途中に見えたのは、目を覆いたくなるような無残な町の光景だ。
海沿いの住宅はもちろんのこと、町が緊急時の避難所として指定していた公民館も、
あっというまに波にのまれ、眼下で海のもくずと消えていく。
避難を急いでいたおおくのひとたちも、なすすべもなく、あっというまに抵抗する時間も
与えられないまま、次々と濁った波の下に呑まれていく・・・


(89)へつづく

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