落合順平 作品集

現代小説の部屋。

「舞台裏の仲間たち」(64) 第三幕・第一章「東海村の原子力銀座」

2012-10-27 11:27:24 | 現代小説
アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(64)
第三幕・第一章「東海村の原子力銀座」






 「見て見て、順平、凄い建物。
 真四角で窓も何もない頑丈なコンクリートの塊よ、なんだろうね。
 ちょっと不気味」


 「日本で最初に完成をさせた、東海発電所の原子炉だ。
 此処は、この原子力発電所を筆頭に、
 原子力に関わる10近い施設や研究組織が密集をしている場所だよ。
 別名を『東海村の原子力銀座」と呼ばれている一帯だ」



 車は茨城県・水戸市から、北東へ15kmあまり北上をしました。
東は太平洋に面し、西は那珂市、南はひたちなか市、北は久慈川を境として
日立市に燐接している日本最初の原子力の村『東海村』があります。



 国道50号を4時間余りかけてひた走ってきました。
水戸市を通過して、海岸沿いを北へ向かい始めた道路は、ここから急にひろくなり
進路に沿ってどこまでも、たくさんの原子力施設が立ち並んでいます。



 「それにしても、大きな建物と広大な敷地が続いているわね。
 松林が途切れるたびに、大きな建築物が突然に現れるんだもの、
 とても田舎とは言えない光景ね」



 「国家予算をつぎ込んだ一大プロジェクトだ。
 桁違いのお金をふんだんに使って、造られたものばかりだよ。
 発電も水力から始まって、火力になったと思ったら
 あっという間に、効率性だけを前面に出して、国民の合意を計る前に、
 うやむやのまま原子力発電を作り始めてしまった。
 広い敷地と言うが、このくらい広範囲にしておかないと
 何かあった時には大変な事態になると言う、そんな意味もある」



 「原子力の安全利用と言っておきながら、
 実際の建物たちは、ずいぶんと隔離されて造られているのね。
 やっぱりどこかで万一のことも、考えているということかしら・・・・
 本当に安全ならば、こんなに広い敷地は必要ないもの」



 「いや、これでも足りないくらいだろう。
 万一、放射能漏れなどが発生をしたら、10キロや20キロはおろか、
 大きな範囲にわたって、とてつもない被害が出る。
 敷地を広くしているというその意味は、
 それでもやはり人の本能として、不気味な破壊力を持つ
 危険なものには近づきたくない、と言う本音が潜んでいるかもしれないね」



 「物騒な話だわ。
 ほんとうに安全は、大丈夫なのかしら・・・・」



 「国は安全だと宣伝をしている。
 ただし、安全ならば火力発電所などと同じように、
 もっと首都圏に近いところに、たくさん建設してもいいはずだ。
 こんな海と田んぼしか見当たらない、辺鄙な場所に
 わざわざ建設をするということは暗にそう言う意味が隠されているかもしれない。
 キューリー婦人がラジウムを発見して以来
 長年にわたって研究されてきた原子力は、平和利用とは言え、
 いまだに使用済みの燃料の最終処理方法さえ見つかっていないんだよ。
 危険なことに変わりはないさ・・・・
 実際に、1957年には、イギリスのウィンズケールで原子炉事故が起きているし、
 映画の『チャイナ・シンドローム』公開の12日後には、アメリカでも事故が発生をしている。
 それが、1979年3月28日に、アメリカ合衆国東北部ペンシルベニア州の
 スリーマイル島原子力発電所で発生した重大な原子力事故だ。
 原子力は、いちどその暴走が始まると、まだ現在の科学では制御ができない代物だ。
 そんなことには、ならないように、ただ我々は祈るしかないけどね・・・・」




■東海村の原子力銀座とは

 
 日本原子力研究開発機構、日本原子力発電東海発電所・東海第二発電所など
多くの原子力施設が村内に存在し、また近隣の那珂市や大洗町にも
大規模な原子力関連施設が存在をしています。
東海村を中心とした茨城県の太平洋沿岸部は、日本の
原子力産業の重要な拠点となっています。



■東海発電所(日本初の原子力発電所)


 1960年代、高度経済成長と共に日本の電力需要が高まり、
エネルギーの活路を原子力発電に求めした。
軽水炉の導入も検討されたが、当時まだ実績が十分では無かったため、
世界初の商用発電炉である英国製の黒鉛減速ガス冷却炉(いわゆるコルダーホール型)
を輸入することになった。。
しかし、英国設計の炉心では、日本の地震に対する十分な
耐震強度が得られないため、設計に改良を加える必要があった。


 炉心を構成しているのは、およそ1,600tにも及ぶ黒鉛ブロック(減速材)で、
英国製の黒鉛ブロックの断面は正四角形だった。
そこで、関東大震災の3倍の震度に耐えられるように、黒鉛ブロックの断面を正六角形に改め、
さらに凹凸でかみ合わせることにより耐震強度を大幅に向上した。
これには英国側の機密が多く、日本人の技術者らが東海発電所の原子炉理論を
手に入れるまでには大変な苦労があった。
その後、1960年1月に着工し、1965年5月4日、初臨界に到達。
日本初の商業用原子炉となった。





 「順平。
 原子力銀座が終わったところから2キロほど行くと橋があって
 その先の交差点を山側のほうに曲がれば、
 あとは一直線だって。
 遠いわね、結局5時間近いドライブだわ・・・
 生まれて初めての、原子力発電所もみられたけど」



 10数キロにわたって続いてきた原子力関連の建物たちが遠ざかると
また周囲には、平たん地に続く水田と、海と隔てる厚みのある松林がもどってきました。
しかし振り返る後方には、松林越しに紅白に塗られた原子炉の強大な煙突群が
いくら走ってもいつまでも見えています。



 「このあたりから東北にかけては
 東日本を代表するコメどころだからね。
 刈り入れが終わったばかりとはいえ、やはり広大な水田が
 何処までも続いている光景というのは、いつ見ても壮観だ」



 「田んぼをみるとほっとするのは、
 農耕民族の本能かしら・・・・
 それとも、私たちがただの田舎育ちのせいかしら? 」


 「どちらもあてはまるようだ。
 さて、あのあたりかな、
 すこし登ったところで、カ―ブの先にある小さな家というのは」




 時絵ママに書いてもらった地図には、
細かい道筋の目印と共に「東海村の原子力銀座も良く見てくるように」という
注意書きも書き込まれていました。



 「もうひとつの日本の心臓だから、
 しっかりと目に焼き付けてくるのも一興よ。
 だってそれ以外には、あのあたりで見るものなんか一切無いの。
 4時間以上も走って、会話もなくなるころに丁度いい退屈しのぎになるはずよ。
 え?誰とそこまで行ったんだって、言えるわけがないじゃないの、
 そんな野暮なこと」



 そう言いながら笑う、時絵ママに見送られてはるばると
こんな海沿いの町までやってきました。



 ちづるの家は、すぐに解りました。


 家を発見するその前に、左へとゆるやかに曲がり始めた道路の脇に、
日傘をさしたちずるさんが、石垣に腰をおろして待っていてくれました。


 停止した車から、レイコが元気に駆けだしました。
2歳先輩にあたるちずるさんは、実は高校時代からレイコがあこがれ続けたひとりです。
うす青いワンピースで日傘を傾けているちずるさんに向かって、
レイコが子猫のように戯れています・・・・






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