舞うが如く 第四章
(1)日本の開国

徳川幕府のもとで鎖国を続けてきた日本に、
ペリー来航(1853)よりもかなり以前から、
日本近海には、開港を求める外国船が頻繁にやって来ました。
1779年にはロシア船が蝦夷に来て、松前藩に通商を要求し、
1792年にはロシア使節ラクスマンが根室に来航して通商を請いますが、
幕府はこれを断固として拒絶しました。
1796年にはイギリス船が室蘭に来航します。
1811年には国後に来たロシア軍艦長ゴローニンが捕らえられ、
逆に翌年には高田屋嘉兵衛がロシアに捕らえられました。
1837年にはアメリカ船モリソン号が
漂流民を伴って浦賀に入港しましたが、1825年に発布された
幕府の「異国船打払令」によって撃退されてしまいました。
大航海時代と呼ばれた19世紀にはいると、
欧米各国による、アジア進出が激しさを増しました。
1840年にイギリスは、
アヘンの持込を禁止した清国(中国)に対して
アヘン戦争をおこし、清国を屈服させ、1842年には南京条約を結んで清国を
開国させて香港を手にいれました。
続いてフランス、アメリカも
清に迫って、同じような条約を結びました。
1860年には太平天国の乱に乗じたイギリス・フランスの連合軍が清国を攻め、
北京条約により、イギリスは九竜を割譲させましたが
この時ロシアは、沿海地方を手に入れました。
インドやインドシナの諸国もヨーロッパ諸国の武力の前にひとたまりも
なく屈して、次々と植民地化されていきました。
1856年・下田に
アメリカの駐日総領事ハリスが着任し、
幕府は、アメリカと日米修好通商条約を結びました。
この条約には一方的な最恵国待遇・居留地制・領事裁判権・協定関税制などの
不平等な条項が盛り込まれ、日本は1911年まで治外法権と
安い外国製品の流入に苦しめられる結果となります。
開国の結果、アメリカ以外に英仏露など列強各国が
こぞって日本にやって来て、横浜などに居留しはじめました。
当初は外国商人との貿易が中心となり、
綿糸・織物・金属・武器・砂糖・薬品などが主に輸入され、
日本からは絹生糸やお茶などを輸出しました。
こうした盛んな貿易は、やがて諸物価の高騰をまねき、
流通制度などで日本経済の大混乱を招き、庶民の生活を圧迫し始めました。
庶民や武士らの不満は、やがて尊皇攘夷思想を芽生えさせ、
倒幕運動へと発展していきました。
幕府はこうした動きに対して
大老井伊直弼らが厳しく取り締まり、安政の大獄などを行いますが、
逆に尊皇派は、井伊を桜田門外で暗殺してしまいました。
権威を著しく失った幕府は、朝廷と公武合体を図り
融和策を取りはじめます。
しかし、薩英戦争や英米仏蘭による、四国艦隊下関砲撃事件などを経て、
欧米諸国の強大さを実感した長州藩は、幕府を早急に倒し、
天皇を中心とした中央集権国家を作る必要性を
強く感じるようになりました。
長州は志を同じくする薩摩藩と薩長同盟を結び、
本格的な倒幕運動を目指すようになります。
また、土佐藩は朝廷と徳川家の連合政権を構想し、
将軍徳川慶喜に大政奉還を勧めました。
慶喜はこれを受諾して、1867年12月には王政復古の大号令が発せられ、
ついに徳川幕府は倒れ、新政府が樹立しました。
しかし、佐幕派によって慶喜の入閣が実現しそうになると
それを阻止しようとする討幕派との間に、激しい対立が巻き起こり、
鳥羽・伏見では旧幕府軍と新政府軍(官軍)が激突をしました。
欧米各国が提供した大砲などの新兵器に、
旧幕府軍は、無残に撃退されてしまいます。
慶喜は降伏を決め、勝海舟と西郷隆盛の会談により
江戸城が無血開城されました。
その後も上野の彰義隊や、会津藩や長岡藩、蝦夷五稜郭などで
官軍に対する激しい抵抗が行われたましたが、
それらもすべて鎮圧されてしまいます。
こうした一連の戦争は戊辰戦争と呼ばれ、
多くの犠牲を払ったのちに終結し、
1868年、明治維新を迎えることになるのです。
しかし本編はまだ、元治元年6月半ばのことで、
新撰組による池田屋騒動を伝え聞いた長州藩が、
兵力を挙げて、京へ進軍を始めるために躍起になっている
まさにその最中でのことです。
池田屋の二階で吐血した沖田総司は、
八木邸の奥座敷で養生中でした。
明け放した座敷の中では、
浴衣姿の琴が、沖田を団扇を煽いでいます。
縁側に風呂敷包みを抱えた、山南が現れました。
起き上がろうとする沖田を制して、
山南が琴を手招きしました。
「明里より、預かってまいりました。
京都の夏は蒸し暑い故、
浴衣は何枚あっても邪魔にはならぬそうです。
普段、明里が身につけているものではありますが、
お役にたてばと、預かってまいりました。」
「助かりまする、
お内儀さんから借りた一枚だけでは、
確かに、どうにもなりませぬ。
明里さんに、よろしくお伝えください、
兎に角、蒸しまする」
「余り長居しても無粋ゆえ、これにて失礼いたします。
総司をよろしく、」
引きとめる間もなく、
山南が木戸へと消えて行ってしまいました。
見送る琴の耳に、奥座敷からの
総司の乾いた咳が聞こえてきました。

・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
(1)日本の開国

徳川幕府のもとで鎖国を続けてきた日本に、
ペリー来航(1853)よりもかなり以前から、
日本近海には、開港を求める外国船が頻繁にやって来ました。
1779年にはロシア船が蝦夷に来て、松前藩に通商を要求し、
1792年にはロシア使節ラクスマンが根室に来航して通商を請いますが、
幕府はこれを断固として拒絶しました。
1796年にはイギリス船が室蘭に来航します。
1811年には国後に来たロシア軍艦長ゴローニンが捕らえられ、
逆に翌年には高田屋嘉兵衛がロシアに捕らえられました。
1837年にはアメリカ船モリソン号が
漂流民を伴って浦賀に入港しましたが、1825年に発布された
幕府の「異国船打払令」によって撃退されてしまいました。
大航海時代と呼ばれた19世紀にはいると、
欧米各国による、アジア進出が激しさを増しました。
1840年にイギリスは、
アヘンの持込を禁止した清国(中国)に対して
アヘン戦争をおこし、清国を屈服させ、1842年には南京条約を結んで清国を
開国させて香港を手にいれました。
続いてフランス、アメリカも
清に迫って、同じような条約を結びました。
1860年には太平天国の乱に乗じたイギリス・フランスの連合軍が清国を攻め、
北京条約により、イギリスは九竜を割譲させましたが
この時ロシアは、沿海地方を手に入れました。
インドやインドシナの諸国もヨーロッパ諸国の武力の前にひとたまりも
なく屈して、次々と植民地化されていきました。
1856年・下田に
アメリカの駐日総領事ハリスが着任し、
幕府は、アメリカと日米修好通商条約を結びました。
この条約には一方的な最恵国待遇・居留地制・領事裁判権・協定関税制などの
不平等な条項が盛り込まれ、日本は1911年まで治外法権と
安い外国製品の流入に苦しめられる結果となります。
開国の結果、アメリカ以外に英仏露など列強各国が
こぞって日本にやって来て、横浜などに居留しはじめました。
当初は外国商人との貿易が中心となり、
綿糸・織物・金属・武器・砂糖・薬品などが主に輸入され、
日本からは絹生糸やお茶などを輸出しました。
こうした盛んな貿易は、やがて諸物価の高騰をまねき、
流通制度などで日本経済の大混乱を招き、庶民の生活を圧迫し始めました。
庶民や武士らの不満は、やがて尊皇攘夷思想を芽生えさせ、
倒幕運動へと発展していきました。
幕府はこうした動きに対して
大老井伊直弼らが厳しく取り締まり、安政の大獄などを行いますが、
逆に尊皇派は、井伊を桜田門外で暗殺してしまいました。
権威を著しく失った幕府は、朝廷と公武合体を図り
融和策を取りはじめます。
しかし、薩英戦争や英米仏蘭による、四国艦隊下関砲撃事件などを経て、
欧米諸国の強大さを実感した長州藩は、幕府を早急に倒し、
天皇を中心とした中央集権国家を作る必要性を
強く感じるようになりました。
長州は志を同じくする薩摩藩と薩長同盟を結び、
本格的な倒幕運動を目指すようになります。
また、土佐藩は朝廷と徳川家の連合政権を構想し、
将軍徳川慶喜に大政奉還を勧めました。
慶喜はこれを受諾して、1867年12月には王政復古の大号令が発せられ、
ついに徳川幕府は倒れ、新政府が樹立しました。
しかし、佐幕派によって慶喜の入閣が実現しそうになると
それを阻止しようとする討幕派との間に、激しい対立が巻き起こり、
鳥羽・伏見では旧幕府軍と新政府軍(官軍)が激突をしました。
欧米各国が提供した大砲などの新兵器に、
旧幕府軍は、無残に撃退されてしまいます。
慶喜は降伏を決め、勝海舟と西郷隆盛の会談により
江戸城が無血開城されました。
その後も上野の彰義隊や、会津藩や長岡藩、蝦夷五稜郭などで
官軍に対する激しい抵抗が行われたましたが、
それらもすべて鎮圧されてしまいます。
こうした一連の戦争は戊辰戦争と呼ばれ、
多くの犠牲を払ったのちに終結し、
1868年、明治維新を迎えることになるのです。
しかし本編はまだ、元治元年6月半ばのことで、
新撰組による池田屋騒動を伝え聞いた長州藩が、
兵力を挙げて、京へ進軍を始めるために躍起になっている
まさにその最中でのことです。
池田屋の二階で吐血した沖田総司は、
八木邸の奥座敷で養生中でした。
明け放した座敷の中では、
浴衣姿の琴が、沖田を団扇を煽いでいます。
縁側に風呂敷包みを抱えた、山南が現れました。
起き上がろうとする沖田を制して、
山南が琴を手招きしました。
「明里より、預かってまいりました。
京都の夏は蒸し暑い故、
浴衣は何枚あっても邪魔にはならぬそうです。
普段、明里が身につけているものではありますが、
お役にたてばと、預かってまいりました。」
「助かりまする、
お内儀さんから借りた一枚だけでは、
確かに、どうにもなりませぬ。
明里さんに、よろしくお伝えください、
兎に角、蒸しまする」
「余り長居しても無粋ゆえ、これにて失礼いたします。
総司をよろしく、」
引きとめる間もなく、
山南が木戸へと消えて行ってしまいました。
見送る琴の耳に、奥座敷からの
総司の乾いた咳が聞こえてきました。

・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
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