落合順平 作品集

現代小説の部屋。

上州の「寅」(53)駅まで

2021-02-04 18:29:25 | 現代小説
上州の「寅」(53)


 降りるべき乗客はおり終わった。しかしバスは停留所から動かない。
動きだす気配がない。・・・なんだ?、どうした?。乗客がざわつきはじめた。
駅へ向かうバスはほぼ満席。
(なにかトラブルの発生か?・・・)
乗客の目が運転席の脇で立ちすくむ恵子さんへ集中する。


 運転手が恵子さんへ声をかける。
 
 「お母さん。ほんとうはどこまで行きたいのですか?」


 「駅までです。
 駅まで行きたいのですが、この子がこの通り泣きはじめて、
 わたしには手に負えません。
 みなさんにご迷惑がかかりますので、ここで降りたいと思います」


 「そうですか。わかりました。ちょっと待ってください」


 運転手がマイクのスイッチを入れる。


 「混雑している中、お時間をかけてすみません。
 みなさんにお願いがあります。
 こちらのお母さんが赤ちゃんが泣いて皆さんに迷惑がかかるので、
 ここで降りると言っています。
 お母さんはほんとうは駅まで行きたいそうです。
 子どもは小さい時は泣きます。赤ちゃんは泣くのが仕事です。
 どうぞ皆さん。少しの時間、赤ちやんとお母さんを乗せていってください。
 停留所にしてあと4つ。
 泣く子に付き合っての辛抱、よろしくお願いいたします」


 3列目に座っていたおばあちゃんが恵子さんを手招きした。


 「お母さん。此処に座りなさい」


 おばあちゃんがおおきな荷物を持って「よっこらしょ」と立ち上がる。
2列目の中年男性があわてて振り返る。


 「とんでもねぇ。荷物を持った年寄りに席を譲られたんじゃ立場がねぇ。
 お母さん。ここへ座りな。わしも駅まで行くが荷物もカバンもない。
 ほら、ばあちゃんはいいから、そのまま座ってな」


 中年男性が席をゆずる。


 「いいんですか?」


 「いいもなにも。赤ん坊は泣くもんだ。気にするな。元気な証拠だ」


 「でも、ご迷惑じゃ・・・」


 4列目の乗客が「袖擦れあうのもたしょうの縁。元気に泣かせろ」
がんばれよお母さんと、笑顔を見せる。
「そうだ。がんばれ」「行こう、行こう。いっしょに駅まで行こう」
声といっしょにあちこちから拍手がわいてきた。
運転手がふたたびマイクのスイッチをいれる。


 「お待たせしました。では発車いたします」


 運転手の優しさと乗客の拍手の中、恵子さんの目頭は涙でいっぱいになった。
「迷惑どころか、こどもは希望だ。がんばれよ、母さん」
席を譲ってくれた中年男性にそう声をかけられたとき、恵子さんの目はもう
何も見えなかった。


 「ユキは泣くことで、わたしに子育ての勇気をくれたんです。
 バスの運転手さんや、あのときのおばあちゃん、中年のおじさんの優しさに
 こころから感謝してます。
 手探りの闇の中、希望の光を見た気がします。
 育ててわかりました。ユキはとても感性の鋭い子です。
 新米の母にもっとしっかり育ててくださいと、泣いて抗議したんです」


 「よかったですね。駅まで無事、乗車することが出来て」


 「はい。とても貴重な体験でした。
 でもあのとき学んだはずなのにわたしはまた、ユキのSOSを
 見逃してしまいました」
 


(54)へつづく


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