落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(133)

2013-11-11 10:51:01 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(133)
「仲人として現れた男2人に、さすがに笑うしかなかったと語る母」




 『何とかしてくれっ』て、あんたのために仲人が2人やってきた、と千佳子が笑います。



 「普通、仲人さんといえば夫婦ものか男女のひと組が努めるものだ。
 だけど、あんたの場合だけは非常事態だからと言いながら、私の目の前に男2人が現れた。
 誰だと思う?。康平の師匠にあたる俊彦さんと、極道稼業の岡本さんだ。
 話の中身を聞いて、驚いたね・・・・」と、またまた千佳子が笑っています。


 「大の男がふたり揃って、畳に頭をこすりつけてあたしに懇願するんだ。
 あんたが離婚するまでのなりゆきについては、一部始終を、事細かに全部聞かされました。
 赤い車に乗っている女の子も、あんたのために身体をはってひと仕事をしたというし、
 禁じ手と承知しながら、ウチの康平も岡本さんのところへ直談判に押しかけたそうだ。
 ボコボコになって帰ってきたのには、実はそういう事情があったと、岡本さんから聞かされた。
 男どもが2人揃って頭を下げるし、周りは、ムキになってあんたのために奔走をしたんだ。
 親の私が、あんたを放っておくわけにいかないだろう。
 嫁に来いとは言わないが、針のムシロの実家へ帰るよりは多少は居心地がいいだろう。
 あとのことは、あんたたち2人で相談をすればいいことだ。
 赤ん坊が生まれるまで、自分の家だと思ってのんびりするがいい。
 康平は、どこまでいってもあの通りの不器用者だ。
 あんな男でよければ、面倒を見てやっておくれ」



 「でも、お母さん。私には不具合が多すぎて、それではかえって身に余ってしまいます」



 「女が子供を産むのは、当たり前の話だ。
 男は子供と女房を食わせるために、必死に働らくのが当たり前だ。
 不具合がいくつ有ろうが、あんたが世間様にたいして、うつむいて歩いてどうすんの。
 間違えようが失敗しょうが、それでも胸を張って前を向いて歩いていくのが人の道だ。
 自慢じゃないが失敗としくじりなら、あたしも山というほど持っている。
 人様には絶対に言えない墓場まで黙って持っていくつもりの、秘密だってあるんだよ。
 だからといって、そんなものに左右されていたら生きていくのが狭くなる。
 訳があろうが秘密があろうが、なにが有ろうが気にしないで、ひたすら胸を張って生きるんだ。
 これから生まれてくるあんたのお腹の子供には、なんの罪もないんだよ。
 子供は生まれた瞬間から周りを幸せにして、周りも、子供を幸せにするために頑張るんだ。
 あんたもあと2ヶ月すれば母親だ。前を見て明日のことだけを考えな。
 あたしゃそんなあんたに、少しばかり力を貸すだけだ。
 分からないことがあれば遠慮しないで聞くがいい。
 私も一応、1人だけだが子供を育ててきた女だ。少しは、役には立つだろう」


 「お母さん・・・・わたし、」


 「おっと。ひとつだけ断っておきますが、私は湿っぽいのが大の苦手だよ。
 ナヨナヨした女も大嫌いだが、涙が出そうなテレビも苦手で、すかさずチャンネルを変える女だ。
 人生は、笑って暮らすのが一番だと根っから信じている。
 そういう風にこれからも、その先も生きて行きたいと思うよね。あんたも私も。
 これから生まれてくる、その、お腹の子のためにも」


 高台へ向かって登り始めた道が、頂点に差し掛かったところで2つに別れます。
ひとつはそのまま一ノ瀬の大木がある康平の自宅方向へ向かい、もうひとつの道は迫り来る
山裾を迂回しながら、かつては大きな桑畑が作られていた荒地へと続いています。
『あんたには、見せたいものがある』と、千佳子の車は桑畑への道を進みます。


 この頂点から見下ろすと、かつては一面にわたって桑畑がひろがっていました。
養蚕業は戦後の復興期を経て、昭和30年から40年にかけ再びそのピークを迎えています。
昭和20年(1945)。敗戦後の日本の復興のために、食糧の輸入が絶対的に必要となり、
外貨獲得という国家的使命の産物として、再び養蚕が奨励され脚光を浴びることになります。


 国の方針により、全国の郡部をひとつの単位として蚕業技術指導所が設置されます。
養蚕技術の改良と普及をすすめるのが主な目的で、群馬県内にも12ヶ所が建てられています。
昭和25年(1950)の夏に勃発した朝鮮戦争が、特需景気をよびおこします。
生糸の需要が一気に増大をすることで、繭価は急激に上がり、繭不足という状態が発生します。
増産に次ぐ増産が続く中、昭和29年(1954)。群馬県は16,759tの繭(全国の約17%)を生産し、
ついに、全国一の地位へと躍進します。
(その後において、市場は年とともに縮小をしていきますが、需要が大きく落ち込んだ
現在においても、いまだその地位を維持しています)



 昭和30年代後半からの高度成長とともに、絹の国内需要はさらなる増加を遂げます。
貿易上の自由化品目のひとつであった生糸は、中国や韓国から生糸が輸入されるようになります。
加えて、昭和40年代の後半からの和装需要の減退傾向と、昭和60年以降からはじまった
絹二次製品輸入の増大により、国内における養蚕業は急激に減少しはじめ壊滅の危機を迎えます。
こうした過去の繁栄を物語る『遺構』は、群馬県内の各地に、今でも数多く残されています。


 群馬県内の農村地帯を歩くと、ほとんどの小字(こあざ・ひとつの集落)につき
1ヶ所くらいの密度で、必ずと言っていいほど、稚蚕共同飼育所の『遺構』を見ることができます。
稚蚕共同飼育所は、カイコの1齢幼虫~3齢幼虫までの間を飼育するための施設です。
稚蚕は体が小さいため、狭い場所で多量に飼育することができます。
群馬県では戦後、複数の農家が共同で飼育する効率的な飼育方法が広く普及しました。
押入れのような小部屋で温度管理をしながら集中飼育する方式は、群馬県蚕業試験場が
開発したといわれる管理方法で、そうした方式を取り入れた共同飼育所が県内に無数に作られています。


 その後、養蚕業の衰退にともない、集落単位での稚蚕共同飼育は次々と消滅します。
もちろん現代においても、カイコの初期の育成は稚蚕共同飼育方式ですが、飼育はそのものは
農協などで実施され、農家が携わることはありません。
昭和の末期に集落単位で建てられていた共同飼育所は、そのほとんどが役割を終えています。
しかし、内部に柱のない大スパンの構造を持ち、密閉性にも優れている建築であったため、
倉庫や工場などに転用をされ、その姿は現在でも目にすることができます。



 廃墟と化してしまったかつての稚蚕共同飼育所の前を通過した、千佳子のハイブリッド車が、
伸び放題に桑が茂っている雑草地の手前で、ようやく停車をします。
山林の一角を切り開いて造成されたかつての最大規模を誇った桑園は、今はまったく見る影もなく
荒れ果てたまま、まもなく雑木林に戻ろうとしている雰囲気さえ漂っています。



 「男たちが、もう一度、この桑園を復活させるそうだ。
 見る限り、桑園というよりはもう、昔からの手つかずの雑木林のようにさえ見える。
 伸び放題で野生化をし始めた桑は、もう使い物にはならないそうです。
 すべてを引き抜いたあと、ここを更地に戻した上で、またあらためて桑苗を植えるそうだ。
 先日から徳次郎さんの指揮の元で、若い連中が集まり、その活動をはじめたばかりだよ。
 康平も参加しているし、もちろん同級生の五六もいる。
 京都から来たという英太郎くんも、ここでは志(こころざし)をおなじくする仲間の1人だ。
 それだけじゃないよ。消防団員で農家の後継者の連中も、
 暇を見つけてはここへやって来て、このプロジェクトに汗を流しているんだ。
 不思議だよねぇ。何人もの男たちが、ここへきて夢中になって桑の木と格闘を始めたんだ。」


 「なぜ男たちは、ここを再開発しようなんて、無謀なことを考え始めたんでしょう。
 もう養蚕業で食べられる時代でもないし、それほど、絹や生糸の需要も増えないと思います。
 まるっきり時代に逆行しているし、徒労とも思えるプロジェクトなのに・・・・」



 「なんで男達に火が付いたのか、お前さんには分かんないのかい?。
 赤城の糸と呼ばれたこのあたりの産地でも、糸を座繰るのはもう数人の年寄りだけだ。
 途絶えかけた伝統に、新しい火をつけたのはあんたと、京都からやってきた千尋ちゃんだ。
 糸を紡ぐ若い女の登場が、男たちの夢と希望に火をつけたんだ。
 先の結果のことなんか、誰にもわかるもんか。
 それでも男たちは、浪曼のために立ち上がったんだ。
 なかなか捨てたもんじゃないだろう、上州の無骨な男たちの行動力も。
 浪曼じゃ飯も食えないが、徒労だろうがまったく無駄なことだろうが、一度大志を持って立ち上がった
 上州の男たちは、とことんまで突っ走らなければ絶対に止まらないのさ。
 あんたが、康平をそういう男に変えたんだ。
 愛する女たちのために立ち上がった男たちは、今、新しい夢のために汗を流しているのさ。
 つまんない甘いセリフよりも、背中を見せて黙々と作業をしている男たちの姿は格好いい。
 上州という国は、そんな風にして寡黙に働く男と、黙って糸を引く女を育ててきたんだ。
 この景色と、ここの気候がそんな風な生き方しかできない男と女を育んできた。
 何だか懐かしいし、ホッとする光景を久しぶりに見たような気もするよ。

 あたしも、夜なべ仕事に糸をひこうかな・・・・
 あたしも、実は、かつては赤城の座繰り糸の後継者の一人だったんだよ。
 懐かしいよねぇ、30年も昔の話だけどね。うふふ」




 
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