EU理事会庁舎で共同記者会見する朴槿恵大統領(2013.11.8)
朴槿恵大統領は11月2日から10日まで、イギリス、フランス、ベルギーなどヨーロッパ諸国を歴訪し、華々しい首脳外交を展開しました。出発直前の10月29日、大統領官邸で収録されたイギリスBBC放送とのインタビューも、同国訪問中の11月4日に放映されています。
韓国内のメディアは、首脳外交での具体的な成果よりも、大統領が訪問先で駆使する外国語の実力や、服装などのファッションに焦点を当てて報道する傾向があります。
こうした韓国社会への警鐘とも言える批判的なコラムを紹介します。出展は11月9日付『ハンギョレ新聞』、筆者は文化評論家のムンカン・ヒョンジュン氏です。
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/610410.html
大統領の外国語
パク・クネ大統領がヨーロッパ歴訪中である。予想通り、TVニュースはこれを重点的に報道している。ある総合編成チャンネルのニュースでは、パク大統領の「外国語の実力」を主要テーマで取り扱いさえした。フランスに行ってはフランス語で、英国に行けば英語で、中国では中国語で演説する大統領の姿を念入りに編集していた。歴代大統領の外国語実力と比較した資料を、画面で詳細に紹介するほどだった。
国家情報院の大統領選挙介入、全国教職員労組の不法化と全国公務員労組への押収捜査、統合進歩党に対する解散請求などで、国全体を公安政局に巻き込んでおきながら一言のコメントも出さない大統領だ。そうした大統領を批判したこともないメディアが、外国語で演説する彼女の姿には、感心至極というわけだ。
外国の首脳が訪韓して韓国語で演説したことがあるのか知らないが、何よりも私たちが切実に聞きたいのは、英語やフランス語でなく、パク大統領の韓国語なのだ。
大統領が外国を訪問して、その国の言葉で演説する行為がニュースの種になる。そのことに何の違和感もないのは、それが韓国の全般的な文化現象として定着しているからだ。 ドラマには定番のように、野望に満ちた財閥2世が米国やヨーロッパに飛行機で入国し英語で“ビジネス”する姿が描かれる。外国語の能力は、彼らが本当に有能な人材だということを証明する、最も具体的な尺度なのだ。
韓国では、多くの大学が国文科や哲学科を廃止すると同時に、教授には全面的な英語での講義を要求している。すでにかなり以前から、アイドル・グループの名前は国籍不明の英語だらけである。日常対話、アパートの名前、商品名、屋号名、企業と機関名にも、英語がどんどん入ってくる。
かけ離れたように見えるこれらの現象を一つに結びつけるのは、外国語に対する韓国人の支配的な心理状態だ。どのような形態であれ英語などの外国語を入れてこそ、“価値あるように見える”と考えるこの心理は、韓国人の集団的な認定欲求を反映している。先進国と呼ばれる国々から認められたいという飽くなき欲求は、彼らの言語を自己の言語より“素晴らしい”ものと見なす。私たちより“貧しい”国々とその国民に対する蔑視や差別、優越意識は、このような認定欲求が作り出す否定的な側面でしなかい。
外国への認定欲求がもたらす一つの真実は、それが結局は“強者”に対する崇拝という点だ。言語であれ政治制度であれ、あるいは文化であれ、韓国よりも経済的に豊かな国々は大体、私たちの問題点を修正するための参照対象として機能する。反面、私たちよりも経済的に劣る国々は、好奇心を刺激する異色な文化の地域と言及されるだけで、真剣な関心の対象にはならない。
“強者”に対する崇拝は国の内部でも作動する。江南(カンナム:漢江の以南で富裕層の居住区域‐訳注)と江北(カンブク)、ソウルと地方、標準語と方言、ソウル市の大学と地方大学、正規職と非正規職、嶺南(ヨンナム:慶尚道)と湖南(ホナム:全羅道)、正常人と非正常人など、馴染みのある様々な区別はすべて、力の強弱に関連している。とりわけ、人生自体が生存競争になった時代に勝利し成功した者、つまり強者に対する憧憬は、より一層強力になるのだろう。それは歴史も政治も、そして正義までも超越する。
先日ソウルでは、チジェクやバディウなどが参加した「コミュニズム」の行事が開かれた。当代の著名な哲学者がソウルに集まって開かれた「コミュニズム」の饗宴は、私たちに新しい考察のテーマを投げかける鼓舞的な行事だった。
今日、10万人の党員、6人の国会議員を持つ統合進歩党は、「共産主義」を追従する“従北勢力”との烙印を押され、強制解散の危機に直面している。江南(カンナム)の真っ只中で自由に哲学の饗宴をくり広げる「コミュニズム」と、一瞬にして反国家団体になる状況に置かれた「共産主義」の差異は何だろうか?
多様な分析が可能だろうが、「コミュニズム」と「共産主義」という言語のイメージ、そして、強者の哲学と弱者の理念に対する私たちの二重的な態度を抜きにしては、考えられないだろう。