岸信介・池田勇人らと歓談する朴正熙(1961.11.12、東京)
「在日朝鮮人人権協会」の機関誌『人権と生活』第42号(2016年6月刊行)は、“反動化する時代状況に抗して”というテーマの特集を組んでいます。そのなかで、日本軍「慰安婦」問題に関して昨年12月、日韓両政府が交わした合意についてその問題点を様々な視点から分析しています。三千里鐵道顧問の康宗憲さんも寄稿しています。「在日朝鮮人人権協会」のご厚意により、その全文を以下に転載します(三千里鐵道事務局)。
植民地主義と民族分断の克服に向けて 康 宗 憲
解放と分断の70年が過ぎて
朝鮮民族にとって解放70周年に当たる2015年は、これといって祝賀する成果もなく過ぎていった。安倍首相の戦後70年談話に接した私たちは、言葉だけの反省と謝罪のパフォーマンスに、やり場のない憤りを覚えるしかなかった。談話のハイライトは日露戦争への評価だった。言うまでもなく日露戦争は、大日本帝国による朝鮮植民地化に決定的な契機となった戦争だった。ところが安倍談話は「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた戦争」と美化している。朝鮮民族に対する破廉恥な開き直りであり、歴史修正主義を超えた「歴史の歪曲・捏造」と言わざるを得ない。
一方、祖国の地に目を向ければ昨年も朝鮮半島の軍事緊張が高まり、南北関係は改善されぬまま節目の年を越してしまった。8月には、南側非武装地帯での地雷爆発を機に局地的な砲撃戦が発生し、解放を記念するどころか、南北分断を象徴する敵対状況となった。
20世紀に、植民地支配とそれに続く民族分断の試練を生きた朝鮮民族は、21世紀の今も、そうした負の歴史を担いながら未来を切り開いていくしかない。私たちはまだ、植民地統治の残滓を払拭できておらず、新たな課題となった民族分断も克服できていないからだ。昨年12月28日、日本軍「慰安婦」問題に関する屈辱的な合意が韓日政府間で交わされた。交渉に臨んだ両国の姿勢と発言は、あたかも1965年の『韓日条約』締結過程を再現するかのようだった。「歴史は二度くり返す」のが真理であるなら、今回は紛うことなき「茶番」であろう。
クーデターで執権した親日派の父親を讃える娘が、対日外交において異なる姿勢と原則を堅持すると願うのは、まさに「縁木求魚」というものだろう。そのことを誰よりも正確に見抜いていたのが岸信介の外孫だった。だから安倍首相は、当時も今も、日韓関係を楽観している。定期的な首脳会談をしなくとも、日本の国益は十分過ぎるくらいに保障されているのだから。「慰安婦」問題の交渉過程を見るにつけ、植民地統治の後遺症が極めて深刻であり、私たちの民族解放(植民地主義の克服)はまだ未完であると痛感するしかなかった。
2016年の冒頭から、北の核実験と衛星ロケット発射を機に朝鮮半島は、再び国際社会の耳目を集中させることになった。国連安保理の制裁決議に加え米韓合同演習の拡大強化によって、朝鮮半島には再び戦雲が立ちこめている。世界的には東西冷戦が終焉して久しいのに、朝鮮半島は今も冷戦構造が厳然と存在し圧倒的な規定力を発揮している。朝鮮戦争の停戦体制が維持され、朝米・朝日の敵対関係は解消されていない。“北朝鮮の核・ミサイル脅威”も、こうした冷戦構造の産物であることを直視するなら、その解決は冷戦構造の克服、即ち朝鮮戦争の終結(平和協定)と朝米・朝日の関係正常化を推進することでしか実現しないだろう。解放と分断の70年が過ぎた今、朝鮮半島の平和と自主統一を願う立場から、私たちの課題を考察してみたい。
朴正熙政権の外交
1965年の『韓日条約』については、その内容と交渉過程に関して深刻な問題点が多方面から指摘されている。その詳細を論じることが本稿の目的ではないので、いくつかの確認にとどめたい。
先ず、基本条約で植民地支配に関する言及が皆無である点だ。日本政府は「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される」という条文を、“当時は有効だったので、併合(植民地支配)は双方の同意による合法的な措置”だと主張する。韓国政府は“当初から無効”と主張するが、“無効になった時点は大韓民国樹立の1948年”とする日本政府の解釈は一貫している。国会答弁によれば歴代の日本政府(村山内閣を含め)も、少なからぬ日本国民も“植民地支配=日韓併合は両国が条約で合意した”との認識に執着している。“合法的だが苦痛も与えたので遺憾に思う”ぐらいの歴史認識なのだ。
では、朴正熙はこの問題をどう理解していたのだろうか。1964年3月16日、彼は国内記者との書面会見で「過去、韓日両国間の諸条約はすでに1951年のサンフランシスコ講和条約で、全て無効になったと見做されている。...よって今回の国交正常化に際して、事さらに不名誉な条約に言及する必要はない」と述べた。有効期間を、日本政府よりも長期にとらえているのだ。
大日本帝国の陸軍士官学校卒業・満州国軍将校という経歴は、彼にとって立身出世の手段だった。そうした人士が朝鮮植民地統治を否定するはずもないし、それが断罪されるべき歴史だとも思わなかっただろう。朴正熙政権で対日交渉を担当した高位官僚たちの殆どが、大日本帝国に服務した親日派だった(首席代表の金東祚は1943年九州帝大在学中に高等文官試験行政科に合格し、大日本帝国政府厚生省に勤務。初代駐日大使)。そして交渉相手の日本政府代表団は当時、彼らの上官に該当する職責だった。植民地期に形成された“主従関係”は重い。こうした人間関係のもとで、対等な国交交渉は当初から不可能だったのではないだろうか。
「親日・反日」というのは、単に日本への親近感や反感を意味する言葉ではない。それは歴史用語だ。日本の植民地統治を容認し服務したのが「親日」であり、それを拒否し自主独立を目指したのが「反日」、積極的に武力闘争すれば「抗日」になるのだ。典型的な「親日派」である朴正熙・元大統領の歴史観を検証してみよう。
1961年11月12日、クーデター執権から約半年後に来日した彼は岸信介、池田勇人、佐藤栄作らと会合した席で「私は政治も経済も知らない軍人だが、明治維新で日本の近代化に献身した志士たちのような心情で、韓国の政治を担当していく決心だ。...強力な軍隊を育成するには日本式の教育が最高だ」と述べ、日本の陸士出身という経歴と日本精神をしきりに強調したという。もちろん対話は日本語だった。
李東元は『韓日条約』に調印した当時の外務長官である。彼が退任後に出版した『大統領を懐古して』という本に、この日の状況が生き生きと描かれている。朴正熙が「諸先輩方、どうか私たちを助けて下さい。日本が韓国より進んでいるのは明らかなので、“兄貴”として敬います。“兄貴”の立場で私たちを育てて下さい」と述べたそうだ。その場にいた日本側の人士たちは「ようやく話の通じる相手に出会った」と、喜色満面だったという。
韓日条約のもう一つの問題点は、植民地支配に関連した膨大な被害補償を、国家賠償ではなく請求権協定(無償3億ドル、有償2億ドル)で安易に最終解決を図ったことだ。“合法的な併合”という立場の日本政府に、植民地支配の責任を認め賠償に応じる意思はもとより皆無だった。
1949年12月作成の外務省『割譲地に関する経済的財政的事項の処理に関する陳述』は、サンフランシスコ講和会議を控え、日本の植民地統治がいかに正当で肯定的なものであったかを主張するための文書だ。そこには「日本のこれら地域に対する施政は決していわゆる植民地に対する搾取政治と認められるべきではない。...最も低開発な地域の経済的、社会的、文化的向上と近代化はもっぱら日本側の貢献によるものである」と書かれている。
米政府の協力でサンフランシスコ講和会議に南北朝鮮と中国など、大日本帝国の最大被害国家を排除することに成功した日本政府は、1952年に『日韓請求権問題に関する分割処理の限界』(外務省)なる文書を作成する。骨子は「今回のサンフランシスコ条約による朝鮮の独立承認については、朝鮮は日本とは戦争関係になかったのであるから、もとより賠償問題の生ずる余地はなく、従って両国間の請求権問題は、単なる領土分離の際の財産及び債務の継承関係として取り扱われるべきものである」というのだ。
“領土分離”という発想の根底には、“植民地支配は正当で恩恵を与えた”との歪んだ認識があるのだろう。その一端を示すのが、日韓交渉の首席代表を務めた高杉晋一の発言である。彼は交渉が大詰めを迎えた1965年1月7日、外務省記者クラブで「日本は朝鮮を支配したというが、わが国はいいことをしようとした。...日本に謝罪せよというのは妥当ではない。日本は朝鮮に工場や家屋、山林などをみな置いてきた。創氏改名もよかった。朝鮮人を同化し、日本人と同じく扱うためにとられた措置であって、搾取とか圧迫というものではない」と放言した。1953年10月15日の久保田妄言を凌ぐ露骨な歴史歪曲だったが、政府のオフレコ要請に応じた日本の主要紙は全く報道しなかった。
日本政府がここまで高圧的な発言をくり返したのは、朴正熙政権が自ら屈辱的な姿勢を示したからでもある。1965年2月17日、日韓条約の仮調印に訪韓した椎名外相を歓迎する席上で、李東元長官は「過去のある期間、両国民には不幸な関係があった」と述べている。植民地統治という言葉も、36年という期間も言及せずに、膨大な被害と苦痛を単に“両国民にとって不幸な関係”だったと表現したのだ。一体、どちらの外相が発言したのか判断しかねる言葉だが、これが当時、朴正熙政権の偽らざる姿だったのだ。こんな連中を相手に、誰が謝罪しようと思うだろうか。
請求権協定に関する朴正熙の発言も検証しておこう。朴正熙(当時は国家再建最高会議議長)は1961年11月12日、池田首相との公式会談に臨んだ。その場で彼は「日本側が請求権問題に誠意を見せるなら、李承晩政権のように莫大な金額を請求するつもりはない」と述べている。会談後、韓国記者団に対し彼は極めて明確で重要な発言を行った。11月13日付『東亜日報』は朴正熙の発言を次のように伝えている。
「対日財産請求権に関して、日本国民が誤解しているかも知れない。明確にしたいのは、我々の請求権が戦争賠償ではないことだ。韓日交渉の成否は、日本政府がどの程度の誠意を示すかにかかっている」。本格的な交渉を再開する前に、“賠償を要求しない”と宣言したわけだ。日本政府にとっては、まさに“神風”だった。同日付『朝日新聞』も、「池田-朴会談の最も注目すべき成果は、請求権の処理方式に関し双方が合意に達したことだ」と指摘している。
参考までに、李承晩政権は発足初期の1949年、『対日賠償請求調書』を作成しGHQに提出している。植民地支配下の強制徴用に伴う人命被害や未払い賃金など、日本政府は73億ドルを賠償として支払う義務があると主張したものだ。これとて、被害の一部しか反映されていない金額だ。だが、請求権ではなく明確に賠償金として要求したからこそ、日本政府(吉田内閣)はあらゆる手段を動員して、米政府に韓国代表の講和会議出席を阻止するよう請願したのだろう。
韓日交渉の過程を分析する際には、1950~60年代の東アジア情勢に米政府がどのように介入していたのかを考察する必要がある。
1949年の中華人民共和国樹立と翌50年の朝鮮戦争勃発を機に、米政府は東アジアにおける主導権の確保を軍事・政治的な局面で追求せざるを得なくなった。対日講和会議を主導し日米安保条約で在日米軍基地の半永久化を達成したのが1951年だ。東京の連合軍最高司令部で日韓国交正常化に向けた最初の予備会談が始まったのも、その翌月(同年10月)である。米国が盟主となる「米日韓同盟」の結成は、その頃から米国の東アジアにおける最優先課題だった。そのためにも日韓の国交樹立は不可欠の前提である。
60年代には中国の台頭が著しい。64年1月にフランスが中国を承認し、10月には中国が核実験に成功する。中国包囲網形成の必要性に加え、ベトナム戦争に本格介入して北爆まで敢行し始めた米政府にとって、65年は一つのタイム・リミットだった。
難航する日韓交渉に拍車をかけるうえで、韓国軍事政権の登場は米日両政府が歓迎するところだった。そして支持基盤の脆弱な朴正熙政権は、両国からの支援を通じて経済成長を達成し、南北関係で優位を占める必要性にかられていた。65年8月14日、『韓日条約』の批准同意案が与党単独で国会を通過した。そして前日の13日にはベトナム戦争への派兵同意案が、やはり与党単独で国会本会議を通過している。韓国軍がベトナム戦争に参戦するのは、その2ヶ月後のことだった。
日本政府にとって、朴正熙軍事政権は“兄貴として育てなければならない”存在だった。それは政権与党・民主共和党に対する政治資金の支援として行われた。米政府CIAの特別報告書『日韓関係の未来』(1966年3月18日)によると、日本企業6社が61~65年にわたって総額6600万ドルを支援したという。CIAはこの資金が、当該期間における民主共和党総予算のうち、三分の二に当たると記述している。だが、実際の金額は1億ドルをはるかに超えるものと推測されている。その後も続いたであろう両国権力の醜悪な癒着を断ち切らないかぎり、真の意味での日韓正常化はあり得ないだろう。
朴正熙政権に関しては、もう一つ追加しておきたいことがある。先に紹介した高杉晋一をはじめ、岸信介、佐藤栄作、椎名悦三郎、児玉誉士夫などが、日韓修好に寄与したとして大統領から勲章を授与されている。以降の歴代韓国政府が叙勲した日本の極右人士を含めると、その数は12名に達する。
朴槿恵政権の外交
『韓日条約』はこのように、日本の植民地支配と侵略戦争の責任を不問にする“悪しき枠組み”となった。被害者の苦痛は省みられず、抗議の声は長期独裁体制を敷いた朴正煕政権の下で封じ込められた。しかし、1990年代に入り韓国の民主化が進展するなかで、元日本軍「慰安婦」や強制徴用被害者たちが、補償を求めて起ち上がった。日本市民との連帯を通じて、“悪しき枠組み”に対する困難な挑戦が始まったのだ。
盧武鉉政権期の2005年1月、日韓請求権協定に関する文書がようやく公開された。それを受けて結成された「民官共同委員会」は同年8月、対策案として次のような公式見解を表明している。「日本軍慰安婦問題など、日本の国家権力が関与した反人道的不法行為に対しては、請求権協定で解決したと見做すことはできず、日本政府の法的責任は残っており...」。これは、「財産請求権問題が完全かつ最終的に解決された」とする“悪しき枠組み”が、当初から無効であるとの画期的な判断である。
日本の法廷では敗訴が続いたが、韓国司法部は軍事政権下での不条理を正そうと良心的な判決を出している。2011年8月、憲法裁判所は「日本軍慰安婦問題に対する韓国政府の不作為は、国民の権利保護に対する義務の不履行である」との違憲決定を出した。そして翌年5月、大法院(最高裁)が「植民地支配に直結した不法行為による損害賠償請求権は、日韓請求権協定によって消滅しない」との判決を下している。これに基づき2013年には、ソウル・釜山の各高裁と光州地裁で、新日鉄住金(旧日本製鉄)や三菱重工業に対し賠償支払いを命ずる判決が出された。
朴槿恵・現政権が出帆した2013年2月は、このように人間の尊厳を取り戻そうとする躍動的な状況だったのだ。安倍政権の歴史修正主義に対する韓国市民の強い反発を無視できず、現政権も「慰安婦問題の根本解決が実現しないかぎり、日韓関係の改善はない」と公言していた。だが、実父の最大功績として『韓日条約』を掲げている娘が、“悪しき枠組み”の見直しに尽力するとは思えなかった。
朴槿恵政権の対日姿勢に明確な変化が現れたのは、『韓日条約』締結から50年の2015年に入ってからだ。年初から米オバマ政権の露骨な介入と圧迫が始まった。2月13日、米韓外相会談後の記者会見で、ケリー米国務長官は「歴史問題の解決には日韓双方の努力が必要だ。日韓関係の悪化は米国の国益を損なう。焦点を歴史問題ではなく、より重要な安保問題に当てるべきだ」と語った。日韓関係の改善による米日韓同盟の構築を優先し、日本政府の歴史認識には拘らないとの意思を表明したと言えよう。2月27日にはシャーマン国務次官補も同様の発言をしたが、それを受けて韓国与党のナ・ギョンウォン議員が鮮明な解釈をほどこしている。国会の外交統一委員長でもある彼女は「中国の台頭に対抗するためにも、韓日関係はより未来志向的に変化すべきだ。それが米政府の立場だ」と述べた。米政府の報道官かと錯覚するような発言だが、政権与党には“先見の明”を備えた人士が少なくないようだ。
そして4月29日、安倍首相の米議会演説で日米間の歴史問題には終止符が打たれた。米政府と議会は安倍演説を、かつての戦争(アジア太平洋戦争)に対しきちんと反省し丁重な対米謝罪があったと、肯定的に評価したようだ。かつて2007年には、「日本政府は慰安婦問題に対し明確な謝罪と被害者への補償をすべきだ」と、全会一致で決議案を採択した米議会だった。この8年間に一体、何が変わったのだろうか...。何も変わっていない。日本政府が「慰安婦」問題の解決に向け、真摯に取り組んだ形跡は一切ない。逆に、安倍政権は「河野談話」の見直しすら企図している。変わったのは米政府と議会の方針だけである。
オバマ政権の「アジア再均衡(リ・バランス)政策」において、中国への包囲網形成は緊急の課題であり、50年前と同じく「米日韓の軍事同盟」構築はその核心である。自らが盟主となり、集団的自衛権行使を可能にした日本を忠実な代理人に任命する。その下位に韓国を位置づけた従属的な三国同盟の構築において、歴史問題をめぐる日韓の葛藤は早期に収拾する必要があったのだ。歴史(慰安婦問題の解決)よりも、安保(米日韓の軍事同盟)を優先するのが米国の国益であり、そのためなら議会は、政府と一体となって日本に免罪符を与えることを躊躇しない。そのことを立証したのが2015年だった。
『韓日条約』50周年の昨年6月22日、駐韓日本大使館で祝辞を述べた朴槿恵大統領は、「今年を韓日両国が新たな協力と共栄の未来に向かう転換点にしなければならない。最大の障碍となっている歴史問題の重い荷物を、和解と共生の心で降ろせるようにすることが重要だ」と語った。この頃から、大統領は“未来志向”や“大乗的な見地”という言葉を多用するようになった。だが、過去を直視しない“未来志向”は無意味である。歴史問題は降ろすべき重い荷物ではなく、解決すべき課題ではないのか。この時点ですでに、年末12月28日の屈辱的な合意は織り込み済みだったのかもしれない。
朴槿恵政権の統一外交政策は、朴正熙政権と同じくその根底に、対北敵視政策がとぐろを巻いている。北の体制崩壊による吸収統一を政策目標に設定しており、その実現に向け米日と協調して軍事・政治・経済的な圧迫と封鎖を強化することを優先する。対話と交渉により南北の和解と協力を推進した金大中・盧武鉉政権とは正反対の政策である。だが、開城工業団地を一方的に閉鎖するなど南北関係を破綻させた現政権に対し、韓国市民は去る4月13日の総選挙で厳しい審判を下した。
南北関係の悪化に加え、親日派を擁護し軍事政権を美化するための歴史教科書国定化、日本軍「慰安婦」問題の屈辱的な対日交渉、経済の失政による格差拡大などが、審判の対象になったと判断される。植民地主義と分断の克服という民族的な課題をおろそかにすることは、南北いずれの政権にも許されることではあるまい。
最後に、日本との関係について言及したい。歴史問題(植民地支配の清算)において、被害当事者の声を封殺したままでの「最終的かつ不可逆的な解決」などあり得ない。1965年の「完全かつ最終的な解決」が空虚だったように、今回の「最終的かつ不可逆的な解決」も恥ずべき野合でしかないだろう。これが新たな“悪しき枠組み”とならぬよう、私たちは日本の良心的な市民とともに、歴史の反動に立ち向かって行こうではないか。