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エクアドルの今 予告

2012-07-09 | 事務局のつぶやき・研究所では
現在、研究所会員の鈴木さんがエクアドルに植樹のボランティアで行っています。
帰国後、現在のエクアドルの様子をブログに投稿していただく予定です。
乞うご期待!
下はスズキさんが送ってくれた写真です。ピタナアルト、サンパブロウルコの学校に植林した時の写真です。



原発被災者から学ぶ その2 ー被災者の声に沿った方向を1日も早く(K)

2012-07-04 | 震災と原発
前回からの続き

被災地の状況
 1年以上経っても福島県では先が見えないので再建できず、原発被災者は希望のない日を送っている。一時帰宅で見た故郷は、泥棒に入られていない家はない。K`s電気はガラスが割られて電気製品を盗られた。

被災地での仕事は
(Wさん)
 自分の会社は14~5人従業員がいた。須賀川に移ってから、本社がダイレクトメールで被災者にアンケートを送って、それが返ってくるので、アフターサービスが大事と仕事をやってきた。従業員は私の会社が再開すれば、働きに行きたいと言っているが、再開できないので仕事を辞めてもらった。従業員の再就職が頭から離れない。もう、地元で仕事はできないと思う。

原発防げなかったことは自分にも責任
(Sさん)
 原発災害は一夜にして暮らしを奪う。原爆と同じだ。一部ではなくすべてを奪う。
 再稼働を防げなかった。国にも自分にも責任がある。なぜそうなったのか検証が必要だ。3.11以降、私は優先順位を変えた。生きている限り(経済成長優先ではなく)家族の生活を第一にしたい。原発災害は誰にもさせたくはない。根こそぎ持って行かれる。犯罪なんてもんじゃない(それ以上の人災だ)。それに応じた運動が必要。
 東電は20mSv が休業補償の基準と言っている。それ以下では補償しない。賠償額は自賠責を基準としている。30日以上について、1日4000円。1か月120,000円/人。これは避難所での額。宿舎に入ると10万円/人になる。

こちらで仕事に就くのは大変
 この町に来て、被災者補償としてこの周辺の町も含めて就業があったが、1年が期限になっていた。まじめにやれば継続雇用になると思っていたが、1年で切られた。先が見えないので正規職員の口も応募できない。仕事を通じての生きがいが持てない。

地域とのつながりも持ちたいが
 地域とのつながりも持ちたいが、町内にどんな団体がどんなことをしているのかわからない。被災地で入っていた子どもの団体に子どもが入れれば、子どもの生活も地域に溶け込めると思うが、身近に相談できる人がいない。
 公設の住居だとベランダに防災上植木鉢を置いてはいけないなど、画一的な決まりがあって自分の家に住んでいた時より自由がない。仮住まいなので前から住んでいる人の決まりに意見は言いにくい。

原発被災者の話を聞いて -原発事故の被災者への方向性を早くー
 仮住まい故の、窮屈な、先の見えない暮らしが続いているのを感じた。国は原発事故の収束宣言を出したが、1年以上たってもまだ先が見えず、被災者は今後の生活の計画も立てられない不安な日々が続いている。原発被災地をどうしようとしているのか、被災者の暮らしと仕事をどうしようとしているのか、その時東電はどう賠償するのか、その方向さえ出ない中で原発被災者は落ち着かない暮らしを強いられている。被災者の声に沿った1日も早い結論を望む。

「原発被災者から学ぶ」その1 (K)

2012-07-03 | 震災と原発
 大飯原発が、野田首相の判断の下、多く国民の反対を無視して再稼働を始めた。若者が毎週金曜日、官邸前でデモを行っているが、特に、野田首相が再稼働を決めて以後、次第に規模が大きくなっている。この抗議行動を取り上げるマスコミがいかに少ないことか。

 今朝、NHKの「ビジネス展望」で内橋克人氏が、原発再稼働に疑問の声を投げかけていた。被災者支援も滞っている、事故の究明もできていないのになんで再稼働できるのか。放射能の拡散は今も世界中に広がっている。世界からはまた不信が広がる、と。

 6月24日、私の地元のまちでアースデーを行い、今年は「原発被災者から学ぶ」というトーク企画を行った。私のまちには福島第二原発の地元、富岡町から避難している人が十数世帯いる。その2名の方から実態を聞くことができた。原発再稼働の中、原発被災とはなんなのかを学ばなければならない。
話は繰り返しもあるが、被災者の体験をそのまま報告したい。

避難しての教訓
(Sさん)
 家族と連絡が取れないときの約束を。日頃から家族で話し合っておこと。家の電話は使えなくなる。携帯での連絡ができるようにしておく。電話番号は通常覚えていないので携帯か紙に記録しておくことが大事ということがわかった。
 寒い時期だったので衣類もほしかった。防災の袋には衣類も入れておきたい。保険証も薬も入れておきたい。お金はあっても停電なので自販機は使えない、ガソリンも入れられない。

現在地への経路
(Sさん)
 最初は大宮に避難したが、3月27、8日頃に当町に来た。役場の職員がニコニコしながら「大丈夫ですよ」と言われて本当に安心した。町の紹介で福祉センターに一時、生活して4月10日に現在の集合住宅に入居した。住まいがあって光を見つけた思いだった。
(Wさん)
 現在隣の市にアパートを借りて住んでいる。富岡町では自動車のディーラーをやっていた。こうして、遠くに来ても同じ町の人と会えるのはいい。

原発事故からの避難
(Wさん)
 3月11日に地元の体育館に避難したが、原発のことを考える余裕はなかった。次に日に20㎞圏外に避難しろというので、無我夢中で川内村に向かった。川内村ではペットを連れていたため、体育館には集団避難できず、校舎の方にいた。体育館は満杯で後から来た人は端の寒いところしかなかった。3日後、郡山に行った。その後、埼玉の親戚を頼って住んでいたが3世代7人家族なので他を捜し、現在の地に来た。地域の人と結びつかなくてはと、地域のグランドゴルフに参加し、その人たちと一緒に借り上げ住宅制度を使って、現住所に移った。地域の人には本当に世話になった。

(質問)原発の地元ということで事故前は誇りがあったか
(Wさん)
 私は原発に賛成した。誇りとかそういうものは特になかったと思うが、地元では安全神話を信じ切っていた。
(Sさん)
 私は原発に反対していたが、大方は賛成だった。

(質問)事故前の訓練はしていたか
 10年前から自衛隊と警察・大型ヘリが来て、原発防災訓練をやるようになった。一部敷地に放射能が漏れたという想定で、この地域は集合してバスで避難とか、担架やリヤカーを使ってけが人を運ぶなどの訓練をした。何時ごろにここに集合してバスに乗る、という約束の訓練だった。今回の事故ではバスも来なかった。着の身着のままで逃げるのに精いっぱいだった。何にも役立たなかった。机上の訓練だった。
 5㎞圏内にあるオフサイトセンターには広報協会があったが、何も機能せず、電話もつながらなかった。そのメンバーは3日後には県庁に避難した。
 3日間は「自分の命は自分で守る」しかなかった。情報は100%ない。停電で連絡は取れない。東電は富岡町役場に第一報を入れなかった。大熊町にはFAXで第一報が届き、午前中にはさらに第二報が来た。
 3月12日、朝6時ごろから防災無線で「避難してください」とのみ言っていた。自分たちは余震や津波があるのでそう言っているのかと思っていた。8時30分に役場の人が体育館に来て、「20㎞圏外へ」と言った。
 午前11時、川内村へ自分たちで行け、と指示が出た。足がない人は4時間待ちでバスに乗った。川内村へ行く道路は一本だけで午前中は渋滞で動けなかった。道路には消防団が待機していた。パニックだった。道路わきには放射能の白い防護服で完全防備をした自衛隊や警察官がいた。自分たちは何の防護もしていない、不思議に思った。
 川内村は停電していなかったのでテレビが見られた。そこで、3時に爆発を見た。住民はテレビの情報しかなかった。町長や副町長は「ただちに健康に影響はない。心配ない」とみんなに言っていた。同じように避難していた東電関係者は早めにいなくなった。様子を見ていた避難した人たちは、これは何かあると自分の車に荷物を積んでいたら、町長が来て「絶対に心配ない」というので、そこから遠くへ避難する日を1日延ばした。情報や深刻さを隠していた。SPEEDIの情報もストップしていた。真実も深刻さも伝えないという二重の誤りだった。
 14日には東京や埼玉の人は深刻だという情報が入ったようで、親戚の人が川内村に来て、「ここから出て埼玉に行こう」と身内の人に泣いて頼み、連れて行った。避難所にはテレビの情報しかない。

     続く