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2016参院選、比例代表にみる野党共闘と改憲勢力(K)

2016-07-14 | 憲法問題
2016参院選、比例代表にみる野党共闘と改憲勢力
       *本文中、民進党は2016年以前は民主党の議席数、得票数。

野党共闘は効果を発揮

 民進党の得票増は野党共闘によるものか、維新との合流によるものでしょうか。
 下の表は参院選比例代表の主な政党の獲得議席数の推移です。



獲得議席数の推移

 民進党は前回比で4議席増で、維新が減らした2議席以上に増やしています。維新との合流に、「期待しない」は67%、「期待する」は26%だったので、合流よりも野党共闘による効果と考えます。
 全体の傾向は、自民は改選比では大きく、前回比でわずかに増やしています。民進は改選比では大きく減らしていますが、前回比では回復傾向にあります。共産は改選比増ですが、前回比では横ばいです。野党共闘は比例区でも増加の効果をあげました。一方、公明はほぼ横ばい、維新は分裂を受けて減っています。


 議席に表れませんでしたが、野党共闘の効果は民進だけでなく共産、社民、生活の各党にも表れています。
 おおさか維新の票は2013年参院選比で約100万票のマイナスですから、民進党への維新の票は約100万票、寄与したと考えられます。今回、民進党の票は2013年の民主党の票と比べて、460万票増えていますから、維新からの票を除くと360万票、純増ということになります。野党共闘によるものと考えられます。共産党、社民党、生活の党も86万、28万、12万、得票率で0.9、0.3、0.1%増えています。ちなみに公明党は得票率を減らしています。野党共闘は野党各党に効果があったと言えます。

改憲勢力は60%
下のグラフは参院選比例代表の各党の得票率の推移です。

 与党・改憲勢力は60%にも達しました。2013年と2016年、与党・改憲の勢力は変わっていませんが、「みんなの党」が解党し、それが主に民進に来たように見えます。改憲勢力と野党共闘が明確に分かれました。与党・改憲派は約60%、野党共闘は40%の勢力図となっています。

 今回の参院選によって、改憲勢力は2/3の議席を占め、改憲の発議ができることになりました。発議の後には国民投票がありますが、これは憲法96条によってその投票の過半数が必要とされています。今回の比例の得票を見ると、次のグラフのようになります。国民投票への得票率が2013年の参院選、2014年の総選挙の政党への得票率と同じと考えると、憲法「改正」派が多数になります。


 安倍首相は自民党の党則により、2012年9月26日の自民党総裁選挙で総裁となったことから、最長可能な在任期間は2018年までとなる。これは同時に、安倍氏が首相でいられる期間も最長2018年までとなるが、首相に任期はない。
 今、確実に言える最も早い次期、国政選挙はアベノミクス解散による総選挙が2014年12月14日に実施されたので、総選挙は2018年12月になる。従って、安倍首相が自分の任期中に憲法改正を成し遂げようとするならこの時までに国民投票も実施されていなければならない。
 選挙を通じて憲法問題を知らない人は多かった。秋の国会から憲法を変えるための憲法審査会が開かれるという。議論の中身に注目しつつ、平和と民主主義、基本的人権を守る憲法の姿を広める時間はそう多くはない。

新しい国会で生存権、義務教育期間の延長が追加される NHKスペシャル 日本国憲法の誕生 その3

2013-08-21 | 憲法問題
1946年4月10日 初めての普通選挙。女性も投票。39名の女性議員も。吉田内閣が成立。
6月 政府の改正案提出
7月25日 帝国議会でも修正が始まる。衆議院帝国憲法改正案委員小委員会。14名の委員からなりそれぞれの政党が、独自の修正案を出し合って審議した。
条文の修正がGHQの要求だけでなく日本人自らも発案していた。

生活困窮、餓死者を目の当たりにして生存権を盛り込む
 最低限度の生活を保障した生存権の追加や9条の修正が行われた。森戸も社会党の国会議員として委員になっていた。「国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス」生存権の規定は政府の改正案にはなかった。
7月29日 森戸は生存権の追加を提案
 ワイマール憲法は「各人をして人間に値する生活を得しむることを目的とする」と規定している。戦後、日本は生活は困窮し餓死者が続出していた。現実を目の当たりにしてワイマール憲法の理想を実現したいと考えた。「生活安定を得られないものがたくさんあるというのが今日の社会の状態です。その状態を何とか民衆の権利を基礎にして良くしていくというところに生活権の問題というものが出てくる。」と森戸氏が主張して最終的に賛同を得る。

全国の教師たちからの陳情で義務教育期間延長
 義務教育の条文も修正された。政府案は初等教育、すなわち小学校に限定していたが、延長の提案がされた。背景には全国の教師たちからの陳情があった。最も熱心に活動した愛知県の教師たちの中心になったのが守山青年学校校長 黒田毅。日本の再建のために中等教育の義務化が必要と。「戦時中の浅ましい所業、敗戦後の醜悪な世相は何が原因しているでしょう。それは過去の教育が特権階級、有産階級などの恵まれた少数の者に対する教育にのみ力を注いだ罪です。」(「学制改革への努力」より)そして、中学校までの義務教育が認められた。

自衛のための戦力を合憲化・・・芦田委員長
第9条にも修正が加えられた。

GHQ原案

7月27日 鈴木義男が提案。第9条の前に「日本国は平和を愛好し国際信義を重んずることを国是とする」趣旨に規定を挿入する。「戦争をしない、軍備を捨てるということはちょっと泣き言のような消極的な印象を与えるから」戦争の放棄をみずからもっと積極的に宣言するようにしたい。

7月29日 芦田委員長の提案
 その後、芦田委員長が最終的に次のようにまとめた。これに、法制局の佐藤達夫が指摘。「こんな修正をすると自衛のためには戦力は持てると司令部が解釈して『こんな修正は許さないと』いうかもしれませんね」と。芦田さんは「そんなこと大丈夫だよ 大丈夫だよ」と言った。芦田は後に自衛力は持てると主張している。

修正された第9条

第9条の修正はGHQに報告され、了承された。
 のちに極東委員会で再軍備につながるとして問題になるが、ソ連の提案による総理大臣および大臣は文民に限るという条件で成立することになる。

1946年11月3日 日本国憲法が公布。

日本人自らの提案で新たな条文が追加・修正されていった。戦争の放棄、国民主権、基本的人権を掲げた日本国憲法は60年を迎える。

以上で終わる。

今も6年前と同じ 先人の熟慮を今にいかす
 このDVDは今から6年も前のものである。しかし、今でも同じことが言われている。従って騙されないように事実を覚えていなければならない。
 国民が自ら産み出そうとしていた新しい憲法は国民主権、基本的人権、平和思想を盛り込み、GHQの基本原則と共通にするものが多い。それに対し政府の草案は国体護持に固執し、国民主権や基本的人権を否定あるいは制限するものになっている。時の政府が残そうとした古い憲法こそ国民の意思と異なるもので、国民への押し付けだった。

 憲法を考えるとき、日本政府とGHQの間の不眠不休の議論、国会での議論を忘れてはならない。表現・結社の自由、国民主権、基本的人権は、人間らしく生を全うするとともに、戦争への歯止めになる。

 特に極東会議での被侵略国の主張を忘れてはならない。自衛という名の侵略を警戒する。アジアへの侵略は自衛と言いつつ行われ、多くの犠牲者を出した。日本への信頼はそう簡単に取り戻せない。いみじくも、1946年1月24日 幣原は「世界から信用を無くしてしまった日本にとって戦争を放棄するというようなことをはっきりと世界に声明することそれだけが日本を信用してもらえる唯一つの誇りとなることではないだろうか」とマッカッサーに述べている。軍隊を持つにとどまらず、海外にまで出るということは日本への不信をさらに強めるだろう。まして、日本は太平洋戦争の侵略・加害責任への反省が不十分なのだ。
 加害も被害も経験のある日本、もう戦争はしないは当然の帰結。世界は経済が絡み合っている。ASEANのように外交と国際世論で紛争を解決する努力が必要ではないのだろうか。

民主主義と国体護持の攻防 NHKスペシャル 日本国憲法の誕生 その2(K)

2013-08-21 | 憲法問題
国体護持の政府案にGHQは不信感 民間の憲法草案も参考にして草案作りに

2月1日 毎日新聞に衝撃的ニュース。政府の憲法調査会は天皇の統治権はそのまま認める、というもの。


GHQ は天皇の行為が制限されていない、きわめて保守的であるとして、自らが草案を作らなければならないと民政局のスタッフ25名を緊急に招集。マッカッサー元帥は歴史的任務をコートニー・ホイットニーを局長とする民政局に与えた。しかも、極東委員会が動き出すまでの1週間で草案を作成する、という指示。
マッカッサーはいわゆるマッカッサーノートで新憲法の基本原則は、「天皇」と「戦争の放棄」とする。天皇については最上位(Emperor is at the head of the state)と明記。戦争の放棄は自衛権も否定。
条文の作成はラウエル陸軍中佐、ケーディス陸軍大佐、ハッシー海軍中佐による運営委員会があたる。ケーディス大佐は
「マッカッサーノートの条文は日本が攻撃された時に防衛する権利さえも奪っているように思える。どんな国でさえ自衛の権利は本来的にもっていて当然です。自国が攻撃されたら自分で守るという権利を否定するのは非現実的だと思ったのです。」
その一方でケーディスは「武力による威嚇又は攻撃」という一文を加え、侵略戦争の否定を明確にした。そして次のようになった。

「国権の発動たる戦争は廃止する。いかなる国であれ他の国との間の紛争解決の手段としては、武力による威嚇又は武力の行使は、永久に放棄する。」

国の最上位という言葉も「政治的権限を持たせない」という意味で「象徴」という言葉に変えた。


 民間の「憲法研究会」草案についても、ラウエルは次のように証言している。
 憲法研究会の草案に関する私のリポートをケーディスと議論し、ホイットニー准将に提出する前に彼の承認を受けたはずです。私たちは確かにそれを使いました。私は使いました。意識的あるいは無意識的に影響を受けたことは確かです。

ベアテ・ゴードンが書いた条文

2月12日 11章92条からなる草案が完成した。

国体護持の政府案 
GHQ:GHQの草案を日本政府が拒否すれば、日本国民に公表し国民投票にかける


2月8日 政府の松本委員会は「憲法改正要綱」をGHQに提出。
2月13日 GHQと日本政府との会談
松本国務相と吉田外相は自分たちが出した草案の回答が聞けるものと思っていた。
しかし、GHQの民生局長のホイットニーは「あなた方の憲法草案は自由と民主主義の文書として受け入れることは全く不可能です。」とGHQ草案を受け入れるように求め、受け入れないならば「マッカッサー元帥は天皇制に対する連合国の批判に耐えきれなくなるかもしれない。しかし、我々の草案の基本原則を受け入れれば天皇は安泰になるであろう。・・・逆にあなた方日本政府が拒否すればこの草案を日本国民に公表し国民投票にかけることを決断しました」と。
2月22日 幣原首相は天皇制を守るためにGHQ草案を受け入れることを決断。2週間で草案をまとめることを指示。

政府とGHQ 不眠不休の30時間の攻防
3月4日10時 佐藤はGHQに行った。日本文のまま民政局に渡した。
ケーディスらが一文一文翻訳を始めた。天皇に関する条文が微妙に変えられていたなど、激しい議論になる。
結局、天皇の国事行為に関しては内閣の「助言と承認」という言葉になる。

3月5日午前2時 女性の人権について
日本 条文の削除を提案。日本の国民に、歴史に、文化に合わないと。
GHQ 優秀な通訳として日本側が好感を持っていると見たケーディスは「女性の権利についてはベアテさんも心から望んでいる。長く日本に住んでいたので日本の女性のことを考えていたから採用したらどうか」と提案。そうしたら佐藤さんとみんなはびっくりした。そしてパスした。
 30時間の不眠不休の議論の末、ようやくすべての条文が完成した。

3月6日 政府は緊急の記者会見で憲法改正草案を発表。「世界に戦争放棄の宣言を憲法中に明記し世界唯一の新憲法を起草せんと命じているものなり」。マッカッサーは全面的支持を表明。

 執拗に国体護持を潜り込ませようとする日本政府。GHQがそれでも確信をもって民主化を貫けたのは「日本政府が拒否すればこの草案を日本国民に公表し国民投票にかける」と言える民間世論や、「ベアテさんも心から望んでいる。長く日本に住んでいたので日本の女性のことを考えていたから」という事実が存在していたからではないだろうか。GHQ草案は民間の憲法草案・民意が反映されていたからこそ、貫けたのではないだろうか。

つづく

日本国憲法は民間の意を反映したもの 第一次安倍内閣の頃のNHKスペシャル日本国憲法の誕生より(K)

2013-08-21 | 憲法問題
NHKスペシャル「日本国憲法誕生」(2007年4月29日放送)を図書館で借りたDVDで見た。
第一次安倍政権は2006年9月26日~2007年9月26日までである。2007年5月14日 日本国憲法の改正手続に関する法律(国民投票法)を成立させている。この放送はこの間に放送されたもの。

あらすじ
 日本国憲法の施行から60年、今、改憲や戦後体制の見直しが唱えられている。
そもそも日本国憲法は第2次世界大戦後の世界の中でどのようにして誕生したのだろうか。
これまで、ともすればGHQによる「押しつけ」憲法か否かに関心が集中していた。しかし、近年、憲法の制定過程をGHQとの密室の攻防にとどまらず、時間的にも空間的にもより広い視野からとらえ直そうという研究が進んでいる。
 特に国会の憲法改正案委員小委員会の秘密議事録が公開されると、GHQ草案に様々な修正が施され、「日本化」「土着化」と呼ばれる過程を経ていることが明らかになってきた。生存権や義務教育の無償化などここでの日本人の修正によって盛り込まれた条項は多い。また、当時の極東委員会の議事録から、ソ連や中国が憲法制定過程に注目し、議論を重ねていたことが分かってきた。第9条のいわゆる芦田修正について、極東委員会で日本の再軍備化の可能性が指摘され、新たにシビリアンコントロールの条項が付け加えられることになった。
 最新の資料と証言をもとに、戦後日本の形を決めた憲法誕生の舞台裏を世界史的スケールで描く。

本編
GHQは天皇を残しつつ、日本の非軍事化・民主化を基本とする憲法を自ら作成することを期待

 終戦直後、当時、GHQはどのように憲法を考えていたか。終戦直後、憲法草案に関わったミルトン・エスマンは「明治憲法は解体が必要。日本の非軍事化と民主化という基本的条件を満たす憲法草案を日本国政府が自ら作成することを期待していた。」

10月11日 マッカッサーは幣原喜重郎と面談し、憲法の自由主義化は避けられないと示唆。幣原は憲法学者や官僚をメンバーに憲法問題調査委員会を設置。委員長は国体護持を最優先に掲げる松本烝治国務大臣だった。

 一方、マッカッサーは言論の自由化を進め、これまでタブーとされてきた天皇に関する議論を解禁。政党も復活し、国体護持の保守政党から天皇制廃止を訴える共産党まで憲法改正の議論が活発化。民間からも様々な改正案が公表された。GHQは日本の世論を注視していた。民間の草案を英訳し分析を始める。憲法草案を作成した時の中心的役割を果たしたGHQ民政局法規課長マイロ・ラウエル中佐は次のように言っている。「私は民間グループから提出された憲法に感心した。これで(憲法改正が)大きく前進すると思った。」
 そこには、日本国の統治権は日本国民より発す、とある。国民主権が明確にうたわれていた。男女平等や言論の自由、基本的人権を保障し、平和主義の思想も盛り込まれている。これを提出した憲法研究会は戦前から言論界で活躍してきた学者やジャーナリストがメンバーだが、そのほとんどが言論統制で投獄されたりして、執筆の場を奪われてきた。


 ラウエルは詳細に吟味し、報告書を作成。マッカッサーに提出。ここに含まれる条文は民主的で受け入れられると記す。「私はこの民間草案を使って若干の修正を加えれば、マッカッサー最高司令官が満足しうる憲法ができると考えた。それで、私たち民生局の仲間たちも安心したのです。」

天皇制を残す、幣原・マッカッサー二人だけの会談
 極東委員会が発足する下で、GHQは憲法制定を急いだ
1946年1月24日 幣原がマッカッサーを訪問。二人だけの会談。
(幣原)自分が生きている間は天皇制を維持したいが協力してくれるか。
(マッカッサー)一滴の血も流さずに進駐できたのは天皇の力によるところが大きい。できるだけのことは協力したい。
(幣原)世界から信用を無くしてしまった日本にとって戦争を放棄するというようなことをはっきりと世界に声明することそれだけが日本を信用してもらえる唯一つの誇りとなることではないだろうか
・・・大いに二人は共鳴したと記されている。
 1月25日マッカッサーはワシントンに極秘の書簡を送る。「天皇を訴追すれば日本人の間に激しい混乱を引き起こし、占領軍を大幅に増員しなければならない。最低でも100万の軍隊が必要」


 当初、日本国政府に委ねて新憲法を作ろうとするGHQの様子がよくわかる。タブーとされてきた天皇に関する議論を解禁する中で、民間の学者・ジャーナリストが、現在の日本国憲法と同じような草案を提出していたことも見えてくる。現在の憲法は基本的なところで民間の意を反映したものということがよくわかる。
同時に、GHQが占領政策に天皇の存在は重要ととらえていたこともわかる。
*憲法草案要綱 憲法研究會案はこちら
つづく