ドイモイ政策の状況など「ベトナム最新事情」を16日、富士国際旅行社の学習会で聞いてきた。ドイモイ、民主化、日本からの原発輸入、いま、ベトナムはどうなっているのか。
話は社会主義と民主化という、これまでは相反するテーマをどう実践しているのか、というところから始まったが、ベトナムの社会主義と民主化は独立直後から同時進行しているようだ。
選挙・国の歴史
1945年9月2日のベトナム民主共和国が誕生し、ベトナム独立宣言後、ホー・チ・ミン主席は「国を愛する者は誰もが立候補する権利を持ち、全国民が投票権を持つ。男女、貧富、民族、階級、党の別はない」として、独立を戦ってきたベトミン(ベトナム独立同盟)以外からも選挙名簿に名を連ねるように広く呼びかけた。
総選挙は1946年1月6日に行われ、ベトミンに反対するベトナム国民党、ベトナム革命同盟会からも立候補した。各地で定数を大きく上回る立候補があり、ハノイでは定数6に対し47候補など。ハノイの立候補名簿にはホー・チ・ミン主席の名もあった。各地の人民委員長やハノイの村代表はホー・チ・ミンの選挙を免除することで一致したが、ホー・チ・ミンは「皆の提案にはとても感謝している。だが、ベトナム民主共和国の一国民である私が、総選挙のルールを破るわけにもいかない」と、選挙に立候補した。
国民は、どこの選挙区でも、投票用紙にホー・チ・ミンの名はどこにあるのか、と質問が相次いだという。
ベトナムは複数政党から始まった。しかし、次第にベトミン以外の政党が少数になり、消滅していった。
共産党が政府を指導するというベトナムの一党独裁について、80代の元政府幹部は「小国であるベトナムがフランスや米国と戦い、冷戦時代を生き延びるためには、ソ連と中国の支援が必要だった。引き換えに彼らの要求にも応じなければならなかった」と振り返る。
国家・法律研究院院長は「独立、自由、幸福の3つを守るために、憲法は時代の状況に応じて変化した。」しかし、ベトナム憲法は「ベトナムは人民の人民による人民のための国家である。すべての権力は人民に属する」(第2条)を変えずに持ち続けている。
2011年1月第11回党大会が開かれた。「民主化」を公平、豊かよりも優先し、「人民による人民のための法権(法治)国家をめざす」ことが明確にした。
幹部による深刻な土地取り上げ問題
農民数百人が、最近、土地取り上げ問題でハノイ市内の国会事務局に陳情している。地方政権(省、県、村の行政機関)が都市計画などを名目に農民の土地を取り上げて、幹部間で分配する問題が起きていて、ベトナムの深刻な社会問題になっている。
深刻な党・国家幹部の汚職問題
ベトナムの世論が高級住宅を阻止。メディアが不正を暴露して、9日目には首相が住宅取得の取り消し・返還を指示。
前ハノイ市長が、市長引退を機に、市長時代に市から借りていた高級住宅(時価約1億7000万円)を約700万円以下で取得したことについて、メディアが暴露し返還させた。
ドイモイの成果
1986年までは、年間50万tくらいのコメの輸入国だったが、ドイモイ後、数年間で年間400~500万tのコメ輸出国になった。それ以前は合作社で生産していたため収入は均等割りで、農作物は自分のものという意識がなく生産が落ちた。ドイモイ以降、合作社があっても請負制という形で、何割かは作物は自分のものになり、自分のものという意識になり、輸送も活用し生産は発展した。
社会保障について
戦時中は「等しく貧しい」教育も医療も金がかからなかったが、それが良かった。しかし、安定した時代になると、それが桎梏となった。ドイモイによって、これを解き放っただけで、生産が伸びた。
しかし、逆にセーフティーネットが崩壊した時期があった。保険を使って受けると後回しになる。お金のある人から先に受けるようになった。今はこれをどうするかに直面して四苦八苦している。
貧困率削減のプロジェクトが一定成功しているが、格差は拡大している。ストライキも日本よりも多い。
税について
所得税の制度があるが高額所得者は払わない。税をチェック機関が未熟。そこで、消費税10%をいきなり導入したが、反発が大きい。
日本からベトナムへの原発輸出問題
昨年6月23日、原子力研究所の元所長のファム・ズイ・ヒエン氏は菅直人首相に公開書簡を送った。その中で、「ベトナムの原発プロジェクトは、日本のエネルギー産業グループがこの10年間をかけて協議に参加し、推奨してきたものです。彼らは気前よく多くのベトナム人が日本の原発を視察する条件をつくり出し、そこから彼らが帰国して「安全神話」の合唱に加わるように仕向けました」といい、ベトナムには原子力発電技術がわかる人材がいるのか、と疑問を呈し、「このプロジェクトの開始を10年間、遅らせて、その期間に日本が私たちを援助してすぐれた専門家を要請し、再生エネルギー・プロジェクトを促進」することを提案しています。「あわてて原発プロジェクトを開始して、人々に不安を引き起こす必要はありません」「あなたが(日本から輸出する原発プロジェクトを)再検討されることされることを切望します」と述べている。
ベトナムには国民の7割くらいが原発に反対しているという。インターネットの声にも誠実に答えている。しかし、政府は自動車を買うように考えているようだ。その後、ベトナム政府はプロジェクトを2年遅らせると態度を変えた。
19世紀からのフランスの占領、第2次世界大戦ではフランスと日本からの支配、戦後、ようやく独立したもののフランスの再植民地化への第一次インドシナ戦争(1946年~54年)、その後のベトナム戦争(1960年~75年)、ソビエト型モデルに従わず、独立直後に普通選挙を実施して、民主憲法を制定し、一党独裁とはいえ、党員以外も普通選挙に立候補できるベトナム。これからも学ぶことが多いと思う。(K)
話は社会主義と民主化という、これまでは相反するテーマをどう実践しているのか、というところから始まったが、ベトナムの社会主義と民主化は独立直後から同時進行しているようだ。
選挙・国の歴史
1945年9月2日のベトナム民主共和国が誕生し、ベトナム独立宣言後、ホー・チ・ミン主席は「国を愛する者は誰もが立候補する権利を持ち、全国民が投票権を持つ。男女、貧富、民族、階級、党の別はない」として、独立を戦ってきたベトミン(ベトナム独立同盟)以外からも選挙名簿に名を連ねるように広く呼びかけた。
総選挙は1946年1月6日に行われ、ベトミンに反対するベトナム国民党、ベトナム革命同盟会からも立候補した。各地で定数を大きく上回る立候補があり、ハノイでは定数6に対し47候補など。ハノイの立候補名簿にはホー・チ・ミン主席の名もあった。各地の人民委員長やハノイの村代表はホー・チ・ミンの選挙を免除することで一致したが、ホー・チ・ミンは「皆の提案にはとても感謝している。だが、ベトナム民主共和国の一国民である私が、総選挙のルールを破るわけにもいかない」と、選挙に立候補した。
国民は、どこの選挙区でも、投票用紙にホー・チ・ミンの名はどこにあるのか、と質問が相次いだという。
ベトナムは複数政党から始まった。しかし、次第にベトミン以外の政党が少数になり、消滅していった。
共産党が政府を指導するというベトナムの一党独裁について、80代の元政府幹部は「小国であるベトナムがフランスや米国と戦い、冷戦時代を生き延びるためには、ソ連と中国の支援が必要だった。引き換えに彼らの要求にも応じなければならなかった」と振り返る。
国家・法律研究院院長は「独立、自由、幸福の3つを守るために、憲法は時代の状況に応じて変化した。」しかし、ベトナム憲法は「ベトナムは人民の人民による人民のための国家である。すべての権力は人民に属する」(第2条)を変えずに持ち続けている。
2011年1月第11回党大会が開かれた。「民主化」を公平、豊かよりも優先し、「人民による人民のための法権(法治)国家をめざす」ことが明確にした。
幹部による深刻な土地取り上げ問題
農民数百人が、最近、土地取り上げ問題でハノイ市内の国会事務局に陳情している。地方政権(省、県、村の行政機関)が都市計画などを名目に農民の土地を取り上げて、幹部間で分配する問題が起きていて、ベトナムの深刻な社会問題になっている。
深刻な党・国家幹部の汚職問題
ベトナムの世論が高級住宅を阻止。メディアが不正を暴露して、9日目には首相が住宅取得の取り消し・返還を指示。
前ハノイ市長が、市長引退を機に、市長時代に市から借りていた高級住宅(時価約1億7000万円)を約700万円以下で取得したことについて、メディアが暴露し返還させた。
ドイモイの成果
1986年までは、年間50万tくらいのコメの輸入国だったが、ドイモイ後、数年間で年間400~500万tのコメ輸出国になった。それ以前は合作社で生産していたため収入は均等割りで、農作物は自分のものという意識がなく生産が落ちた。ドイモイ以降、合作社があっても請負制という形で、何割かは作物は自分のものになり、自分のものという意識になり、輸送も活用し生産は発展した。
社会保障について
戦時中は「等しく貧しい」教育も医療も金がかからなかったが、それが良かった。しかし、安定した時代になると、それが桎梏となった。ドイモイによって、これを解き放っただけで、生産が伸びた。
しかし、逆にセーフティーネットが崩壊した時期があった。保険を使って受けると後回しになる。お金のある人から先に受けるようになった。今はこれをどうするかに直面して四苦八苦している。
貧困率削減のプロジェクトが一定成功しているが、格差は拡大している。ストライキも日本よりも多い。
税について
所得税の制度があるが高額所得者は払わない。税をチェック機関が未熟。そこで、消費税10%をいきなり導入したが、反発が大きい。
日本からベトナムへの原発輸出問題
昨年6月23日、原子力研究所の元所長のファム・ズイ・ヒエン氏は菅直人首相に公開書簡を送った。その中で、「ベトナムの原発プロジェクトは、日本のエネルギー産業グループがこの10年間をかけて協議に参加し、推奨してきたものです。彼らは気前よく多くのベトナム人が日本の原発を視察する条件をつくり出し、そこから彼らが帰国して「安全神話」の合唱に加わるように仕向けました」といい、ベトナムには原子力発電技術がわかる人材がいるのか、と疑問を呈し、「このプロジェクトの開始を10年間、遅らせて、その期間に日本が私たちを援助してすぐれた専門家を要請し、再生エネルギー・プロジェクトを促進」することを提案しています。「あわてて原発プロジェクトを開始して、人々に不安を引き起こす必要はありません」「あなたが(日本から輸出する原発プロジェクトを)再検討されることされることを切望します」と述べている。
ベトナムには国民の7割くらいが原発に反対しているという。インターネットの声にも誠実に答えている。しかし、政府は自動車を買うように考えているようだ。その後、ベトナム政府はプロジェクトを2年遅らせると態度を変えた。
19世紀からのフランスの占領、第2次世界大戦ではフランスと日本からの支配、戦後、ようやく独立したもののフランスの再植民地化への第一次インドシナ戦争(1946年~54年)、その後のベトナム戦争(1960年~75年)、ソビエト型モデルに従わず、独立直後に普通選挙を実施して、民主憲法を制定し、一党独裁とはいえ、党員以外も普通選挙に立候補できるベトナム。これからも学ぶことが多いと思う。(K)