小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

417 新羅王子の奪還①

2015年08月17日 00時59分28秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生417 ―新羅王子の奪還①―
 
 
 さて、武内宿禰と葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が関わる朝鮮半島との
伝承の中で、
『日本書紀』の神功皇后摂政五年の記事に注目したいと思います。
 これは、新羅王が汙礼斯伐(ウレシカン)、毛麻利叱智(モマリシチ)、富羅母智
(ホラモチ)らを遣わして日本に人質に出されていた王子の微叱許智伐旱(ミシ
コチホッカン)を新羅に脱出させた事件を記しており、この時に王子を新羅に一時
帰国させるために襲津彦がついて行きますが、使者たちは対馬で襲津彦を欺き、
微叱許智を密かに船に乗せて新羅に逃します。
 謀られたことを知った襲津彦は使者たちを焼き殺していまいます。
 
 この話をさらにまとめると、
①    新羅王は日本に人質に出している王子を奪還したいと希望した。
②    新羅の使者たちは策略を用いて王子を新羅に逃すが、そのために日本側に
焼き殺されてしまった。
という内容になります。
 
 この王子、微叱許智伐旱(ミシコチホッカン)は同じ『日本書紀』の神功皇后摂政
前紀に、神功皇后が新羅に攻め入った際に、新羅王が人質に出した、とあります。
 
 「新羅王波沙寐錦(ハサムキム)は、王子の微叱己知(ミシコチ)と官僚の波珍
干岐(ハトリカンキ)のふたりを人質として日本に送ることにした」
 
と、あるのがそれです。
 
 この人質となった新羅の王子については朝鮮側の記録にも登場します。もっとも、
朝鮮側の記録は少々異なります。
 『三国史記』の「新羅本紀」、実聖尼師今元年の記事には、
 
 「倭国と友好関係を設定し、奈勿尼師欣(ナコツニシキン)の子、未斯欣(ミシキン)を
人質とした」
 
と、あります。この未斯欣(ミシキン)が『日本書紀』の微叱許智(ミシコチ)のことで
ある、とされています。
 「新羅本紀」によれば、18代新羅王実聖尼師欣(ジッセイニシキン)が倭国と友好
関係を結ぶ際に、倭国の側から未斯欣を人質に送るよう要求してきた、となってい
ます。
 以下はその「新羅本紀」に書かれた内容を要約したものです。
 
 
 実聖王はかつて未斯欣の父、17代新羅王奈勿尼師今によって高句麗に人質に
出された過去があり、そのことから奈勿尼師今のことを恨んでいたので、倭国の
要求を拒まず未斯欣を人質に出した。
 さらに、今度は高句麗から未斯欣の兄、卜好を人質に出す要求があった時にも
拒まずに卜好を人質に送った。
 しかし、実聖尼師欣の次に、奈勿尼師欣の子の訥祇麻立干(トツギマリカン。訥祇
尼師今、吃祇尼師今とも)が19代新羅王として即位すると、訥祇麻立干は高句麗と
倭国に人質に出されている弟たちを奪還したいと願った。
 訥祇麻立干は3人の賢人に、どのようにして弟たちの奪還できるだろうか、と尋ね
ると、彼ら全員が、
 「卜堤上という男は豪勇で知恵もあるので彼ならば王の期待に応えられるでしょう」
と、答えた。
 そこで訥祇麻立干は卜堤上を召し、二王子の奪還を頼むと、堤上は了承し高句麗に
赴いた。
 そして、高句麗王の説得に成功し、人質であった卜好とともに新羅に帰国したの
だった。