小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

413 河内の渡来人氏族

2015年08月04日 01時00分18秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生413 ―河内の渡来人氏族―
 
 
 縄文時代、大阪府のほとんどは海であったと考えられています。
 それが弥生時代になると次第に海が引き始め、現在の河内平野を形成して
いくようになったとされているのです。
 もっとも大阪市に関しては、古墳時代に入った頃にもまだ上町台地以外は
海であったとされ、海は生駒山の麓、つまりは東大阪市のほとんども海だった
と考えられているのです。
 いわば、上町台地は当時の大阪湾に南から突き出た半島だったということに
なります。
 時代が下り、上町台地の周辺も陸地化していき、大阪市の東部から東大阪市
などにかけて、それまでの大阪湾は内海となり、やがて淡水化して河内湖と
呼ばれるものなりますが、その後も次第に縮小していき、やがては消滅して
しまいました。
 
 元禄二年(1689年)、生駒山の麓を旅行していた貝原益軒は、『南遊紀行』の
中で、現在の大東市を中心にして深野池という南北二里(8キロ)、東西半里~
一里(2キロ~4キロ)の湖状の地形があり、その中には島があった、と記して
います。
 また、この地を訪れたルイス・デ・アルメイダの見聞として、長さ2レグア強(約10
キロ)、幅半レグア(約2.5キロ)の湖があり、その中に島があって教会が建てられ
ていた、とルイス・フロイスの『日本史』にあります。
 ちなみに深野池の中の嶋にあった教会というのは、三好長慶の家臣だった三箇殿
(キリシタンとしての洗礼名はサンチョ・サンガ)が建てたもの、とあります。
 この深野池も河内湖の名残だと言われていますが、これも江戸時代、貝原益軒の
記録よりしばらく後に干拓されて消滅してしまいました。
 
 さて、時代は弥生時代から古墳時代。
 河内平野の誕生はひとつの変化をも招きました。
 渡来人の玄関口が新たに生まれたのです。
 それまで渡来人が本州にやって来て居住する場合には日本海側でしたが、河内
平野の誕生で、瀬戸内海を通って河内平野に居城するという選択肢が生まれたの
です。
 河内における渡来人氏族の数は畿内においても突出しています。
 『新撰姓氏録』に載る畿内の氏族を見てみると以下のようになります。
 
 山城国 氏族数90。うち渡来人氏族が21。
 大和国 氏族数88。うち渡来人氏族が26。
 摂津国 氏族数103。うち渡来人氏族29。
 河内国 氏族数164。うち渡来人氏族55。
 和泉国 氏族数113。うち渡来人氏族20。
 
 河内の場合、すべての氏族のうち実に3分の1が渡来人氏族という割合で他と
比べてもかなり多いのです。
 これは河内と同じく現在の大阪府である和泉国が、すべての氏族の中で渡来人
氏族が全体の20パーセント弱であることを考えるとより特異であることがわかり
ます。
 その点、やはり現在の大阪府である摂津国もすべての氏族の中における渡来人
氏族の割合が三分の一弱とおおいのですが、摂津国は現在の兵庫県南東部も
含んでいる(神戸市も摂津国に含まれます)ことから参考として扱うべきで、しかし、
渡来人氏族が現在の兵庫県に集中していたとも考えにくいので、やはり大阪府
(大阪市と北摂地域)における渡来人氏族の数は多かったと考えることができます。
 
 ただ、これまで見てきましたように、伝承における葛城氏の勢力範囲は河内をも
含んでいたのです。
 当然、葛城氏と河内の渡来人氏族たちと関係が持たれることになります。