小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

421 百済王子の帰還

2015年08月25日 01時17分54秒 | 大国主の誕生

大国主の誕生421 ―百済王子の帰還―

 

 『日本書紀』の応神天皇八年の記事には次のようにあります。
 
 「八年の春三月に百済人が来朝した。「百済記」にいわく、(百済の王)阿花王は即位して
以来、日本に対して朝貢することはなかった。そのために、枕彌多礼、峴南、支侵、谷那、
東韓の地を奪われてしまった。そこで王子の直支を天朝に遣わして修好を求めてきた」
 
 百済領を侵攻したのは、岩波古典文学大系『日本書紀』の頭註では日本が侵攻した、と
していますが、これは高句麗が、と見るべきだと思います。
 この阿花王は、「百済本紀」では、阿莘王(アシン王)で王子は腆支となっています。後の
腆支王です。
 
 この直支王が帰国したのは『日本書紀』では応神天皇十六年のこととなっています。
 すなわち、
 
 「この年、阿花王が薨去した。天皇、直支王を召して、『汝は国に帰って王位に就け』と
言った。また、東韓の地を賜り遣わした」
 
と、あるのがそれです。
 
 一方の「百済本紀」にも、阿莘王六年に、王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を
人質として送った、とあります。
 そして、十四年に阿莘王が薨去すると、阿莘王の二番目の弟の訓解が政事を代理で
務めたが、末弟の碟礼が訓解を殺害して自ら王位に就いた。腆支は倭国でこの訃報を
聞き、泣いて帰ることを請うと、倭王は兵一千名をもって護衛した、と「百済本紀」は伝え
ます。
 結果として碟礼は国の人々に殺され、入京した腆支は王位に就きます。
 
 『日本書紀』では、直支(腆支)が日本にいたのは応神天皇八年から十六年の間とあり、
「百済本紀」では阿莘王六年から十四年の間とあるので、どちらも8年ということで一致
しています。
 もっとも、この一致は『日本書紀』を編纂する際に「百済本紀」を参照したものだろう、とも
言われています。
 
 さて、阿莘王六年から十四年というと、西暦に直すと397年から405年になります。
 新羅の未斯欣が日本にいた期間は、「新羅本紀」の記事を西暦に替えると、402年から
418年の間ということになります。
 つまり、402年から405年の間は腆支と未斯欣がともに日本にいたことになるのです。
 
 ところで、このふたりの帰国の事情は大きく異なります。
 百済王子の腆支の場合は、護衛の兵1000人をつけてもらっての帰国で、しかもそれは
百済王として即位するための帰国でした。
 一方、新羅王子の未斯欣の場合は、策略を用いて脱出するというもので、「新羅本紀」は
倭の将帥たちがついていたことが記されていますし、『日本書紀』でも葛城襲津彦がついて
いた、と記されており、これは明らかに監視役として描かれているのです。
 この違いは何なのでしょうか。
 『日本書紀』は一貫して百済については好意的、新羅については悪しざまに書いているの
ですが、「新羅本紀」の中でも、卜堤上が日本に向かう時に妻に向かって、
 「敵国に行く」
と、言っているのです。

 


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