小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

263 二皇子の亡命ルート②

2014年10月17日 01時59分18秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生263 ―二皇子の逃走ルート②―


 『日本書紀』では、日下部連使主(くさかべのむらじおみ)と吾田彦(あたひこ)
の親子が二皇子に同行したと伝えます。
 このことは、『播磨国風土記』にも、日下部連意美(くさかべのむらじおみ)が
付き従っていた、と記されています。
 最初、日下部連使主は播磨ではなく丹波国余社郡(後に丹後国与謝郡)に二皇子を
連れて行った、と『日本書紀』にはありますが、この地は「丹後国風土記逸文」に、

 「與謝郡日置の里。この里に筒川の村あり。この人夫、日下部首等が遠祖の名を
筒川の嶼子と云いき。為人、姿容秀美しく風流なること類なかりき。是は謂わゆる
水の江の浦嶼(うらしま)の子という者なり」
(與謝郡日置の里(与謝郡ひおきの里)。この里に筒川の村あり。この村に日下部首
(くさかべのおびと)らの祖で名を筒川の嶼子(しまこ)なる者がいた。容姿流麗で
風流なる事類を見ない。この者はいわゆる水の江の浦嶼(うらしま)の子という者で
あった)

と、記されており、日下部氏の拠点のひとつであったと考えられます。
 それから、日下部氏もまた日子坐王系なのです。
 『古事記』には、

「沙本毘古王(サホビコノミコ)は、日下部連、甲斐国造の始祖」

と、記されており、この沙本毘古王は、日子坐王と、春日の建国勝戸売(タケクニカ
ツトメ)の娘沙本之大闇見戸売(サホノオオクラミトメ)との間に生まれた人物で、
同母妹に垂仁天皇の皇后となった沙本毘売命(サホビメノミコト)がいます。

 サホビメは、自分の次の皇后に丹波道主王の娘を垂仁天皇に推薦した話はこれまで
に何度となく採り上げてきましたが、道主王も日子坐王の子です。
 道主王の生母は、近江の天之御影神の娘息長水依比売ですが、近江で天之御影神を
祀る神社と言えば、滋賀県野洲市の御上神社です。
 ここに、偶然では片づけられないことがあるのです。
 野洲市に隣接して、蒲生郡竜王町がありますが、竜王町鏡は、『日本書紀』に、

 「近江の鏡村の谷の陶人は天日槍(アメノヒボコ)の従人なり」

と、ある鏡村の比定地なのです。
 『日本書紀』によれば、新羅からやって来たアメノヒボコは最初播磨にいましたが、
その後、莵道河(宇治川)をのぼって近江国の吾名邑(あな邑)にしばらく住み、
それから、若狭国を経て但馬国にやって来て、この地に定住した、とあります。
実際、鏡に鎮座する鏡神社はアメノヒボコを祀っているのです。

 前回紹介したように、応神天皇の生母神功皇后は、アメノヒボコの子孫の多遅摩比
多訶(タヂマヒタカ)と、同じくアメノヒボコの子孫で多遅摩比多訶の姪の菅竃由良
度美(スガカマユラドミ)との間に生まれた葛城の高額比売命(タカヌカヒメノミコト)
が生んだ娘です。
 応神天皇は仁徳天皇の父君で、履中天皇や允恭天皇の祖父です。市辺之押歯王は履中
天皇の皇子で二皇子の祖父です。

 しかし、何よりも見過ごせないことは、市辺之押歯王が大長谷王子に殺害された近江
の久多綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)が蒲生郡の蒲生町、日野町に比定されている
ことです。
 そうすると、市辺之押歯王が大長谷皇子の誘いを受けて近江の蚊屋野まで出向いて行った
のも、この周辺に市辺之押歯王ゆかりの地だった可能性も考えられるのです。

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