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小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

198 上毛野西部と物部氏

2014年05月17日 00時11分10秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生198 ―上毛野西部と物部氏―


 4世紀から巨大古墳を造っていた群馬県東部の勢力が上毛野氏とみて、まず間違い
のないことだと思われます。
 ただし、ここで注意したいのは、一口に上毛野氏といっても、ひとつの氏族では
なかったであろう、ということです。
 それは、吉備のおける吉備氏に、上道臣、下道臣、笠臣、三野臣などの家系があり、
実際にはこれらは自立した氏族であったと考えられることと同様です。
 ひとつの地方にいくつかの氏族があり、おそらくはそれら複数の氏族による連合体
をなしてその地方を治めていたと思われるのですが、それが、中央の大和政権には、
吉備氏や上毛野氏、というようにひとつの氏族として映っていたのでしょう。

 上毛野君も、群馬県東部に地盤を持つ氏族だったと考えられています。

 ただし、これら東部の勢力は7世紀にはその力を失ってしまいます。
それは、『日本書紀』に記された武蔵国造笠原氏の内紛に関係していると思われます。
『日本書紀』の記事では、笠原小杵が国造の笠原直使主を殺害して国造の地位を奪お
うと、上毛野君小熊に支援を求めた、とありますが、実際にはこの時、上毛野君だけ
でなく上毛野東部の氏族たちが小杵の要請に応えた可能性も考えられるわけです。

 結局この紛争は、大和政権が派遣した軍勢に小杵が討たれて決着をみますが、小杵
に助勢した上毛野東部の氏族たちも同時に大和政権の軍に力を削がれる結果になった
ものと思われます。
 それが、群馬県東部から巨大古墳が消滅し、50メートル級の古墳しか造れなくなって
しまった理由なのでしょう。

 これとは反対に、西部の氏族は大和政権と結びつくことで勢力を伸ばしたと考えら
れます。
 『日本書紀』は、笠原氏の内紛に乗り込んできた軍について詳細を記していません
が、軍事氏族の物部氏が派遣されてきた可能性が高いと思われます。

 上毛野西部の氏族が物部氏と結びついた、という仮説は『続日本紀』にある2つの
記事からうかがうことができるのです。

 『続日本紀』の天平神護元年十一月の記事に、

「上野国甘楽郡の人中衛物部蜷淵ら五人に物部公の姓を賜わる」

と、いうものがあり、上毛野に物部氏を称する氏族がいたことがわかります。
 さらに『続日本紀』の天平神護二年五月の記事には、

「上野国甘楽郡の人外大初位下礒部牛麻呂ら四人に物部公の姓を賜わる」

と、磯部氏の牛麻呂らも物部の姓を与えられたとあります。

 高崎市山名町に金井沢碑と呼ばれる古碑があります。
 国定特別史跡に指定されており、山ノ上碑、多胡碑とともに上野三碑と呼ばれている
もののひとつです。
 これには、上野国群馬郡下賛郷高田里の三家氏(みやけ氏)の子孫らが七世の父母と
現在の父母の為に、仏に祈り、天地に請願し仕え奉る、という内容のことが刻まれて
いますが、この子孫の中に、物部君午足と磯部君身麻呂の名があるのです。
 ここでの物部氏と磯部氏は三家氏の一族ということになります。

 このことから察するに、上毛野の物部氏は中央の物部氏とは異なる、在地の氏族で
あろうと考えられるわけですが、物部公の姓を賜わっていることなどから、中央の物部氏
と同族を称していたとも想像できます。

 ところで、戦国時代、西上野を支配していた長野氏は、かつては石上氏を称していたと
いわれています。
 石上(いそのかみ)は、物部氏本宗滅亡後に、物部氏がその名を改めたものと同じです。
 しかも、長野市の菩提寺は布瑠山石上寺(ふるさんせきしょうじ)といい、物部氏ゆか
りの布留社(石上神社)と同じ「ふる」を山号に持ちます。

 すなわち、これらのことは、上毛野西部に物部氏と結びついた氏族たちが存在したこと
を物語っているのです。

 この点は武蔵国の物部氏とも通じるものがあります。

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2 コメント

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Unknown (井上正明)
2017-03-25 10:59:55
私は天照と大国主の国譲りを調べています。上野国一ノ宮貫前神社の祭神姫大神は稚碑女命=丹生都比売命(世界遺産高野山天野の丹生都比売神社)に鎮座。
うら若きとき、甘楽郡南野牧(荒船神社)で建御名方命と出会い夫婦となったと神道集一宮事に記されています。
丹生都比売神社の由緒では大日女=天照大神の妹とありますが、私は長女であると考えています。この時の天照は自称で有り、持統天皇が名を騙ったと考えております。
国譲りが行われたのは『持統天皇3年』西暦689年の事で、翌689年元旦に即位しています。その鍵は日本三古碑のひとつ、那須国造碑にあります。
天智天皇が関東地方の制圧を始め、香島・香取神郡が造られ筑波国や陸奥国方面が押さえられ、那須の国が下野国に合併・那須郡が置かれました。二荒山に居たと推定する大国主命は敗れ、稲背脛に事代主命に連絡を命じました。事代主も敗れ、建御名方命が力比べをして力及ばず諏訪へ逃げたとされます。
稲背脛は大国主が祀られる『杵築の大社』(きづきのおおやしろ)現在は出雲大社と呼ばれますが…
この大社から真北に進むと稲背脛が鎮座しています。
又、不思議な事に諏訪社の元宮と考える下諏訪町大和(おわ)に鎮座する『先宮神社』の御祭神は『下光姫命』ですが、驚くことに別名を『稲背脛』とあります。

話は遡りますが587年、丁未の乱が起こり物部守屋は滅ぼされ二男乙麻呂は諏訪の南守矢山の東麓へと逃れ、ミシャグジ神を信奉する縄文人の洩矢一族(御柱)の娘と結ばれ、後の諏訪大社五官筆頭、神長官となりました。この時のことと思われますが、上野国碓氷郡磯部郷に流された物部一族が居り、その由緒が咲前神社にあります。www.sakisaki.net/
そこには出雲から経津主・建御雷鎚命に追われて逃げた話と異なり、甘楽郡から荒船山に追われたとあります。その裏付けが多々有り、その調査をしています。
又、信濃国小県郡・『古須和』(長野県上田市)塩田平の南東に古安曽と石神地名が残り、石上神社が有ります。富岡市一ノ宮貫前神社北側に阿蘇岡地名あり。
どちらが古いのかは不明ですが…
現在の貫前神社社殿は『菖蒲しょうぶの谷』旧抜鉾神社跡で、旧社殿は徳川家康建立の西側高台に移された『蓬の岡』日枝神社で、こちらが貫前神社跡地です。
磯部一族は各地の重要遺跡付近に名を残し、阿蘇の出身で伊勢・志摩を拠点として各地に展開しています。大洗磯前神社・ひたちなか市酒列磯前神社も磯部と同義と捉えています。
因みに建御名方と丹生都比売の子供が建御名方八男
興萩命(おきはぎのみこと)として佐久市臼田町新開三社神社に祀られ、諏訪湖の御神渡りにも父母と共に一人だけ現れます。E-mail;office_i.m@cap.ocn.ne.jp
0qdf
私はホームページやブログはありません。
返信する
re (サダロン)
2017-03-31 02:38:34
 貫前神社の伝承については、正直初めて知りました。
 大変貴重な情報をありがとうございます。
 東国には記紀神話と異なる神話が多く残されているのでとても興味深く思っています。
 ただ、京都や奈良から見て地方の神社に残された伝承や民間伝承はなかなか集めにくいので、こういう話を知ると思わず興奮してしまいますよ。
 とても楽しく読ませて頂きました。
 ありがとうございます。
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