小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

631物部氏と出雲 その19

2018年08月12日 02時04分05秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生631 ―物部氏と出雲 その19―


 『出雲国風土記』の伝承は、ヤマトタケルが神門臣古禰を屈服させた後、景行天皇が神門臣の
一族を建部(たけるべ)にした、というようにも解釈できますが、そうではないでしょう。いかに
伝承とは言え、建部は朝廷の私有民である部民のひとつですから地方豪族を私有民の身分に落と
してしまったことになるのです。
 これは、景行天皇が建部を作り、神門臣古禰をその管轄者としたので以降、神門臣は建部臣を
称するようになった。という意味でしょう。

 と、なるとフルネは大和政権から追討されるべき存在ではなかったということにもあるわけです。
 そこであらためて『日本書紀』と『古事記』を対比してみます。

 『日本書紀』は、出雲振根が、飯入根(イイイリネ)の刀を木刀にすり替えた後に、飯入根を
斬殺し、

 八雲たつ 出雲タケルが佩ける太刀 黒葛(つづら)わさまき さ身なしにあわれ

と、歌う。
 しかし振根は大和政権が派遣した武渟川別と吉備津彦の軍に討たれた、という内容です。

 『古事記』は、倭建命(ヤマトタケルノミコト)が、出雲建(イズモタケル)を木刀にすり替えた
後に、斬殺し、

 やつめさす 出雲タケルが佩ける刀(たち) 黒葛(つづら)さわまき さ身無しにあわれ

と、歌う、というものです。

 たしかに、登場人物を除けば、伝承そのものは同じものと考えるべきでしょう。
 ただ、これまで、ヤマトタケル=武渟川別と吉備津彦、出雲建=出雲振根、という図式で解釈
されてきたきらいがあります。これは大和政権側の人間が出雲の首長を討った、という図式で見た
からではないでしょうか。
 ふたつの伝承を重ね合わせてみたなら、この話は一方が策略を用いてもう一方を斬殺して
「出雲タケルが佩ける太刀」と詠んだという内容のものであることがわかるでしょう。
 この内容に従えば、ヤマトタケル=出雲振根、出雲建=飯入根、という図式になるわけです。
『出雲国風土記』もフルネが大和政権に討たれた、とは記していないのです。

 しかし、それならなぜ吉備氏の始祖(吉備津彦)と阿倍氏の始祖(武渟川別)がフルネを討つ
話が加えられたのか、という疑問が生じます。
 この答えを求めると、一見すれば少し意外に思えるところにヒントが隠されているのです。

 それは『播磨国風土記』です。
 『播磨国風土記』の美嚢郡の項に、市辺之忍歯王(イチノベノオシハ王)の御子、オケ王と
ヲケ王の話が登場します。
 市辺之忍歯王は、石津ヶ丘古墳の被葬者と伝えられる履中天皇の皇子で、履中天皇は仁徳
天皇と葛城氏の女性との間に生まれた天皇です。履中天皇も葛城氏の女性を妃に迎えて市辺之
忍歯王を生み、さらに市辺之忍歯王も葛城氏の女性を妻にしてオケ王とヲケ王を生んでいます。
つまり仁徳天皇から市辺之忍歯王までの三代が葛城氏から妻を迎えているわけで、葛城氏に
とってオケ王とヲケ王はプリンスの中のプリンスであったことになります。
 しかし、葛城氏の本宗が滅亡した後、市辺之忍歯王は雄略天皇に謀殺され、危険が身に及ぶ
ことを恐れたオケ王とヲケ王は逃亡します。
 その後、『日本書紀』では清寧天皇の在位中、『古事記』では清寧天皇の薨去後にこの
ふたりの皇子が播磨で発見されるのですが、『古事記』、『日本書紀』、『播磨国風土記』が
ともにほぼ同じ内容のことを記しているのです。

 『古事記』には、播磨に宰(後の国司にあたる役職)として赴任してきた山部連小楯(やまべの
むらじおだて)が志自牟(しじむ)の家で開かれた新築祝いの宴に招かれた時に、ヲケ王が舞い、
その歌の中に、
 「吾は履中天皇の御子市辺之押歯王の子なり」
という一節を入れたので、小楯はこの兄弟が行方不明となっていた二皇子であると知る、という
いきさつが記されています。

 次に、『日本書紀』では、新嘗の供物を求めに播磨にやって来た、播磨国司山部連の祖、伊予
来目部小楯(いよのくめべのおだて)が縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)の忍海部造細目の
家で開かれた新築祝いの宴に招かれた際にヲケ王が舞い、その歌の中に、
 「吾は履中天皇の御子市辺之押歯王の子なり」
という一節を入れたので、小楯はこの兄弟が行方不明となっていた二皇子であると知る、という
いきさつが記されています。

 最後に『播磨国風土記』では、播磨に来ていた山辺連小楯が志深村首(しじみのむらのおびと)
伊等尾(いとみ)の家で開かれた新築祝いの宴に参加した際、宴の席でヲケ王が舞い、その歌の中に、
 「吾は履中天皇の御子市辺之押歯王の子なり」
という一節を入れたので、小楯はこの兄弟が行方不明となっていた二皇子であると知る、という
いきさつが記されています。

 記紀と播磨国風土記のすべてが同じ内容のことを伝えているわけですが、それぞれの違いについて
言うと、二皇子が匿われていた家の主の名が異なる点と、あとヲケ王の歌った歌の詞が異なるのです。
それは、歌い始めから自分の正体を明かす箇所に至る部分の歌詞なのですが、『古事記』、『日本書紀』、
『播磨国風土記』でそれが異なっているのです。
 そして、『播磨国風土記』が伝えるこの時の歌詞とは、

 「たらちし 吉備の鉄の 狭鍬持ち 田打つ如す 吾は舞ひせ」

というものなのです。

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