小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

265 二皇子の亡命ルート④

2014年10月21日 00時27分53秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生265 ―二皇子の亡命ルート④―


 当麻は、アメノヒボコの系譜にも登場します。
 それが、前にも採り上げた『古事記』に載るアメノヒボコの系譜の中に
ある一文、

「清日子、当麻の斐(タギマノメヒ)を娶して、生める子、須鹿之諸男。
次に妹菅竃由良度美。
上に伝える多遅摩比多訶、その姪、由良度美を娶して、生める子、葛城の
高額比売命(タカヌカヒメノミコト)。此は息長帯比売命の御祖(母)なり」

です。

 ここで、話を野見宿禰に戻します。
 当麻蹴速との決闘の結果、当麻の領地を与えられた野見宿禰は土師氏の
始祖でもあります。
 土師氏には、土師贄部(はじににえべ)と呼ばれる部民がいましたが、
このことは以前にも採り上げました。『日本書紀』の雄略天皇十七年の記
事に、

 「土師連らに詔(みことのり)して、
 『朝夕の御膳を盛るべき清器をたてまつらしめよ』
とのたまえり。
 ここに土師連の祖吾笥(あけ)、よりて摂津国の来狭狭村(くささ村)、
山背国の内村、俯見村(伏見村)、伊勢国の藤形村、および丹波、但馬、
因幡の私の民部(かきべ)をたてまつる。
 名づけて贄土師部という」

と、あるのですが、この記事から、土師氏発祥の地である因幡は当然の
こととして、丹波にも土師氏の部民がいたことがわかります。

 さて、以前に丹波と丹後を採り上げえた時に、日置氏について少々詳しく
見てきました。
 丹波における日置氏の本拠は多紀郡ですが、前々回に紹介した「丹後国
風土記逸文」には、

 「與謝郡日置の里。この里に筒川の村あり。この人夫、日下部首等が遠祖の
名を筒川の嶼子と云いき」

とあり、二皇子が亡命した余社郡にも日置氏がいたようなのです。
 これが何を意味するかと言うと、大和の日置氏の本拠は葛城の朝妻で、葛城
ゆかりの氏族がいた地に亡命していた、ということなのです。
 二皇子につき従った日下部連使主の日下部氏が余社郡に拠点を持っていた
から、という理由だけではなかったようです。

 それから、これも丹波と丹後のところで紹介したことですが、日置氏は出雲に
おいて神事にたずさわっています。

このことは、出雲大社の西北に位置する出雲市大社町の日御崎神(ひのみさき
神社)の祠官は日置氏で、『集古文書』所収の建長五年(1253年)三月の
文書に、

 「補任日置政家、出雲国日御崎検校職」

と、あり、元弘三年(1333年)四月の文書には、

 「日御崎検校職 神領使日置政友」

と、あることから知ることができるのです。

 葛城には、大国主の御子神とされるアヂスキタカヒコネを祀る高鴨神社が上社、
同じく大国主の御子神とされる事代主を祀る鴨都波神社が下社とされ、スサノオの
孫とされる御歳神を祀る御歳神社が中社とされています。
 つまり、スサノオや大国主といった出雲の神々の御子神たちが祀られているの
です。
 もっとも、本来は別個の神であったのが、スサノオや大国主の御子神だとされる
ようになったのだ、とは言われていますが、出雲系の神の御子神にされた背景には、
日置氏や、アメノホヒを始祖にする土師氏の影響があったのでしょう。

 さて、丹波国余社郡に逃げ込んだ二皇子でしたが、さらにそこから、今度は播磨国
へと移っていきます。

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