小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

478 難波と大和と神婚譚⑦

2016年02月09日 01時26分37秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生478 ―難波と大和と神婚譚⑦―
 
 
 これまでにも何度か採り上げたように、大阪府における日読みには、代表的なものとして、
等乃伎神社からのぞむ夏至の朝日と生國魂神社の旧社地のからのぞむ冬至の朝日がともに
高安山の山頂から昇るものがあり、その高安山の中腹には天照大神高座神社が鎮座します。
 ところが、この天照大神高座神社の祭神である天照大神は、多神社社伝の「社司多神命
秘伝」によると多神社の祭神である天祖賢津日女神尊と同神とあるわけです。
 多神社と大神神社の関係からみれば、天祖賢津日女神尊は大物主の妻であり巫女である
ということになります。
 
 つまり難波における太陽信仰のひとつである高安山に坐す神は太陽神そのものではなく、
太陽神の巫女だというわけなのです。
 そして、本当の太陽神は三輪山に坐す大物主ということになるわけです。
 
 ただし、高安山に坐す神が天照大神というのはもう少し後世のことで、当時は太陽そのものか、
春日戸氏の祭祀する神が信仰の対象となっていたものと考えられます。
 また、多神社の天祖賢津日女神尊も伊勢神宮の天照大御神とは別の神、あるいは伊勢神宮の
天照大御神の原型と思われるものなのです。
 つまりは何を言いたいのかと言うと、現代人の考える伊勢の天照大御神そのものを天照大神
高座神社や多神社の祭神に当てはめてはいけないということです。
 
 そして、この神が大物主の妻であり巫女であった、と考えられる理由のひとつに次の事が挙げ
られます。
 『古事記』に登場する天照大御神は神服を織っていますが、これは巫女が神の召す神服を織って
いることを意味するものと解釈されています。
 その上で気になる記事が、『日本書紀』の雄略天皇十四年に、身狭村主青(むさのすぐりあお)らが
呉国から工女を連れ帰った際、そのひとり衣縫の兄媛を大三輪の神に仕えさせた、というものです。
 大三輪の神がはたして大物主のことなのか判断の難しいところですが、御諸山と書かずに大三輪
とするところに大物主ではないかと思わせます。 
 ともかく三輪山に坐す神に巫女が神の服を織って捧げる神事があったと想像できるわけです。
 
 ここで少しまとめてみます。
 難波における太陽信仰とは生駒山系から昇る太陽であり、それを神格化したものが高安山の
天照大神高座神社の神だったのです。
 しかし、ある勢力によれば、高安山に坐す神は大物主の妻であり巫女である、つまりは大物主
こそが太陽神である、ということになるのです。
 
 では、「ある勢力」とは具体的には何者を指すか、ということが問題になります。
 これを解くカギが少し前に採り上げた神婚譚なのです。
 注目したいのは、雷神の神婚譚と大物主の神婚譚には共通している部分が見られるということ
です。
 また、その際に、中臣氏と建御雷神(タケミカヅチ)との関係もお話しました。
 
 実は、大物主とタケミカヅチには関連があるのです。
 『古事記』は、大物主の四世の孫として建甕槌命(タケミカヅチ命)名を記しているからです。
 もっとも、多くの研究者は建甕槌命と建御雷神を別の神と考えています。『古事記』には、建御
雷神は天之尾羽張の子となっており明らかに天神で、一方の建甕槌は明らかに国つ神だからです。
 しかし、『日本書紀』は建御雷神を「建甕槌」と表記していますし、そもそもタケミカヅチとは鹿島
神宮の海の底にあった巨大な甕だったと言われます。
 それが、後世、建御雷神として国譲りで活躍する神にされ、また建甕槌として大物主の系譜に
連なる神にされたのでしょう。
 大物主の系譜に建甕槌が組み込まれたのが後世のこと、というのは『古事記』が、大物主の
四世の孫建甕槌の子がオオタタネコとしているのに対し、『日本書紀』の方は大物主の子がオオ
タタネコとしているからです。

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