小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

483 難波と大和と神婚譚⑫

2016年02月28日 01時20分22秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生483 ―難波と大和と神婚譚⑫―
 
 
 それでは、尾張氏が養蚕に関係していると思われることについてですが。
 
 『古事記』と『日本書紀』には、ヤマトタケルの妃のひとりに尾張氏の女性であるミヤズヒメが
いたことが記されていますが、『熱田大神宮縁起』によれば、建稲種公(建稲種命)の妹と
あります。
 ヤマトタケルは伊勢神宮の斎宮であったヤマトヒメから授かった草薙剣(クサナギの剣)を
ミヤズヒメに預けていき、それが熱田神宮の御神体となったわけですが、『日本書紀』の記す
ところでは、草薙剣という名称は後世にヤマトタケルの事績に由来して名づけられたもので、
元の名は「天叢雲剣(アメノムラクモの剣)」であったというのです。
 この「アメノムラクモ」の名称ですが、『先代旧辞本紀』にある、天香語山命の子で、天忍人
命・天忍男命・忍日女命の父の名は天村雲命(アメノムラクモノミコト)なのです。
 
 「尾張国風土記逸文」によると、ヤマトタケルがミヤズヒメのもとを訪ねた時、草薙剣を桑の
木に立て掛けた、とあり、これと同様の話が『熱田大神宮縁起』にもあります。
 ヤマトタケルにはミヤズヒメの他にも数人の妃がいましたが、正妃である布多遅比売(フタ
ヂヒメ)との間に生まれた子は稲依別王(イナヨリワケ王)といい、吉備建比売(キビタケヒメ)
との間に生まれた子は建貝児王(タケカイコ王)いうのです。
 ただし建貝児王については、『日本書紀』は武卵王(タケカイゴ王)としていますので、蚕に
関係するものなのか判断の難しいところです。
 
 
 さて、次に紹介したいのが京都市の木島坐天照御魂神社です。
 この神社は「蚕の社」とも呼ばれており、摂社には養蚕神社(こかい神社)もあります。蚕と
いうところから想像されるように、この神社の祭祀氏族は秦氏です。
 
 大和岩雄(『神社と古代王権祭祀』)によれば、この地は日読みの地であるといいます。
 木島坐天照御魂神社は「三柱鳥居」と呼ばれる三本脚の鳥居があることで有名ですが、
その三柱鳥居は境内の、元糺(もとただす)の森の池にあります。
 元糺というのは、下賀茂神社の糺の森、この「糺」は木島坐天照御魂神社の糺を移したもの
とされていることからこう元糺よばれているのです。
 大和岩雄は糺という地名の意味について、「朝日が直刺す(たださす)」から来たものと考察
していますが、比叡山の四明岳と松尾山を結んだ線上に下賀茂神社の糺の森と木島坐天照
御魂神社の元糺の森が位置します。
 そのため、糺の森と元糺の森からのぞむ夏至の朝日は四明岳から昇り、糺の森と元糺の森
からのぞむ冬至の夕陽は松尾山に沈みます。
 つまりは日読みの地なのです。
 しかし、問題となるのは渡来系の秦氏がなぜ天照神を祀るのか、ということです。
 高安山の天照大神高座神社の場合も、その祭祀氏族の春日戸氏は渡来系でしたが、祭神の
天照大神は後にこの神に替えられたもので、元は太陽そのものを信仰していたといわれています。
 木島坐天照御魂神社の場合は、本来秦氏とは別の氏族が祭祀していたものが秦氏に替わった
ものだとするのが有力です。
 すると、次の問題として、木島坐天照御魂神社の祭神はどの神なのか、ということになります。
 現在、木島坐天照御魂神社で祀られているのは、天之御中主神(アメノミナカヌシ神)、大国
魂神(オオクニタマ神)、穂々出見命(ホホデミノミコト)、鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)、
瓊々杵尊(ニニギノミコト)の五柱となっています。
 ですが、「天照御魂」とあるから、本来の祭神は太陽神で、おそらくは尾張氏らの祖である天照
國照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアマノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)では
ないか、とも言われています。
 木島坐天照御魂神社から4キロ離れた京都市右京区梅ケ畑中地町から4個の銅鐸が発見され
ていることも尾張氏の関連を思わせます。
 なぜ、これが尾張氏と関係するかと言えば、田中卓(『神宮の創祀と発展』)による、
 「全国の銅鐸の出土地は約230ヶ所であるが、それ等の出土地付近に上古尾張氏の居住の跡の
みられる約190ヶ所で80パーセントの一致をみる」
という報告があるからです(『神宮の創祀と発展』は1959年発刊で、データもその当時のもの)。

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