小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

505 難波王自害の背景⑯

2016年06月01日 00時25分17秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生505 ―難波王自害の背景⑯―
 
 
 和泉の日下に鎮座する等乃伎神社周辺は、今は富木といいますが(正式な住所は高石市取石。
JR阪和線の駅に富木駅があるなど名残があります)、その富木の人が登場する説話が『播磨国
風土記』に
登場します。
 
 『播磨国風土記』の讃容郡の項には次のようにあります。
 
 昔、天智天皇の時代に丸部具(わにべのそなう)という者がいた。この者は仲川の里人である。
 この人は河内の菟寸(とのき)の村人が所有する剣を買い取った。が、剣を得てから家族すべてが
死に絶えてしまった。
 その後、苫編部の犬猪(とまみべのいぬい)が、具の住んでいた跡地に畑を作ることにしたが、
この時に剣を発見した。柄の部分は朽ちてなくなってしまっていたが、刃の部分は錆びずに光って
いて、まるで鏡のようだった。
 犬猪は不思議に思い、この剣を家に持って帰ると、鍛冶師を呼んで打ち直してもらうことにした。
すると、その時、剣は伸び縮みしてまるで蛇のようであったので、鍛冶師は大変驚き、打ち直すのを
やめてしまった。
 犬猪はますます不思議に思い、朝廷に献上することにした。
 後、天武天皇の時代に、曾禰連麿(そねのむらじまろ)を派遣して剣を元の場所に戻した。
 
 河内とあるのは、この当時和泉国が分国される前でまだ河内国に含まれていたためです。
 「蛇のように」という表現は製鉄に携わる人々の伝承によく登場するもので、もっとも、だからと
言って富木の人が製鉄に携わっていた断言できるものでもないのですが。
 ただ、富木の村人が所有していた剣を手にしたのが丸部具と、和邇部(わにべ)が絡んでいる
のが興味深くもあります。おそらくこの人物は和邇臣の一族ではなく和邇部の人なのでしょうが、
最後に登場する曾禰氏も製鉄に携わったと考えられている氏族です。
 
 この説話は、太陽信仰と剣の関係、そして太陽信仰と製鉄集団の関係も示しているものでは
ないでしょうか。
 
 
 そういったところで、最後となる3つ目の注目点に話を移したいと思います。
 それは、五十瓊敷命が和泉鳥取にいた、とあり、和泉鳥取は鳥取部の拠点といわれていること
から、では五十瓊敷命と鳥取部のつながりは何なのか、ということです。
 
 そもそも鳥取部や鳥養部(とりかいべ)はどのような部民なのかということにも触れておかなくては
ならないのでしょうが、これについてもよくわかっておりません。
 鳥取部は鳥(主に白鳥)を捕え、鳥養部はその鳥を飼育する職務だとする説があり、鳥を飼育する
目的については、皇族の観賞用とする説と古墳の堀で放し飼いにするためとする説があります。
 それとはまったく異なり、大湯坐部や若湯坐部と同じく皇子の養育を担当する職務であったとする
説もあります。これはホムチワケ伝承に鳥取部と鳥養部が置かれたとあることから来た説です。
 
 ときにそのホムチワケ伝承ですが、『日本書紀』では鳥を捕らえたのがアメノユカワタナで『古事記』
では山辺大タカ(タカは鳥に帝)と両書で異なります。
 山辺大タカは山部氏(山辺氏)の一族の者ではないのでしょうか。この仮説で話を続けていきたい
と思います。
 
 山部氏の一族とされる人物の中でおそらくもっとも有名なのは万葉歌人として知られる山部赤人
でしょう。山部赤人も山辺赤人と表記される場合があります。
 山部赤人がその生涯を閉じた地は滋賀県東近江市下麻生町と伝えられ、赤人を祀る山部神社や
赤人の創建と伝えられる赤人寺があります。
 ここにも近江国との関わりが現れるのです。
 しかし、ここで採り上げたい山部氏の人物は山部連小楯(やまべのむらじおだて)です。
 播磨国明石郡縮見の忍海部造細目の元に身を隠していたオケ王とヲケ王兄弟(後の仁賢天皇と
顕宗天皇)は、播磨の宰(後の国司にあたる役職)として赴任してきた山部連小楯(やまべのむらじ
おだて)に「発見」されたのです。
 
 それでその山部氏がどう関係するのか、ということですが、その前に少し前に採り上げたことを思い
出していただきたいのです。
 奈良県天理市和爾町には和邇坐赤坂比古神社が鎮座し、同じ天理市櫟本町と大和郡山市横田町に
和爾下神社が鎮座します。
 一方、天理市櫟本町に在原寺があり(明治時代に廃寺)、大和郡山市額田部には在原業平にまつ
わる伝承が残されています。
 
 大和郡山市額田部は、現在の大和郡山市の額田部北町、額田部寺町、額田部南町にあたりますが、
かつては生駒郡平端村大字額田部で、さらにそれよりも古くは平群郡(へぐり郡)と称していました。
 この大和郡山市の西に隣接するのが生駒郡斑鳩町で、ここはかつての平群郡夜摩郷で、法隆寺に
残る古記録には、それ以前は「山部」、あるいは「屋部郷」と記されているものがあるので、元々は
山部郷だった、と考えられています。ちなみに改称の理由は桓武天皇の即位に際して桓武天皇のそれ
までの名前の山部王に憚ったもの、と伝えられています)
 そして、この平群郡山部郷(夜摩郷)が山部氏の本拠に比定されているわけです。
 
 この平群郡を本拠にしていたのが平群氏です。
 平群氏の初代は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)で武内宿禰の子ですが、木菟宿禰は応神天皇の
子である仁徳天皇と同日に生まれた、と伝えられています。
 それを伝える『日本書紀』によれば、仁徳天皇の産殿に木菟(ミミズクのこと)が飛び込み、木菟宿禰の
産屋には鷦鷯(さざき。ミソサザイのこと)が飛び込んだので、それぞれの父親である応神天皇と武内宿禰が
それぞれの鳥の名を交換して、応神天皇の子に大鷦鷯尊、武内宿禰の子には木菟宿禰の名が与えられた、
といいます。
 
 上記の話は多分に伝承の要素が強いのですが、平群氏の初代が木菟宿禰、その子で、雄略朝時代に
大臣となった平群臣真鳥と鳥に関わる名前や伝承に彩られているのです。
 
 山部氏はその本拠が平群郡というところから、平群氏の影響下にあったとも考えられているので、もしも
山辺大タカが山部氏のひとりだとすれば、その名がやはり鳥に因むものであることからも平群氏との関わりが
あったと見られるのです。
 
 一方で、山辺大タカを、大和国山辺郡を本拠するとする見方もあります。
 ただ、これについて興味深い記事が『日本書紀』にあります。
 それによると、仁賢天皇六年に、天皇は日鷹吉士を高句麗に遣わして技術者を求め、日鷹吉士は技術者の
須流枳(スルキ)、奴流枳らをつれて戻って来た、と。その技術者の子孫が山辺郡の額田邑にいる、とあるの
です。
 そうすると、額田郷はその昔は平群郡ではなく山辺郡に属していたと解釈することができます。
 そして、額田部氏と平群氏も強く結びつくのです。

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