小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

93 丹後の姫たち

2013年02月02日 00時57分45秒 | 日記
大国主の誕生93 ―丹後の姫たち―


 『播磨国風土記』の世界でずいぶんと時間をかけてしまったような
気がします。
 もう忘れてしまった人もいるかと思いますが、5世紀の日本、すな
わち倭の五王の時代、吉備は巨大古墳を造りだす勢力を誇り、出雲西部
にも影響を与えていました。しかし、5世紀の終盤には、吉備に地盤沈
下が起こります。
 中央政権によってその力を削られてしまったとみられるのです。
 それが、『日本書紀』に記された、吉備上道臣田狭の寝返りや、星川
皇子の反乱だと考えられています。
 同じ頃に、勢力を失った地域が丹後です。
 丹後は現在の京都府西北部ですが、この時代はまだ丹波国と呼ばれて
いました。丹波と丹後に分かれるのは後のことです。
 この丹後にも、4世紀から5世紀のはじめにかけて、全長198メー
トルの銚子塚古墳や190メートルの神明山古墳、145メートルの蛭
子山古墳などが造られましたが、5世紀の後半になると、これらのよう
な巨大古墳は造られなくなってしまいました。
 その背景に、この地方に、大和政権の直轄地である県(あがた)が設
置されたことは無関係ではないと思われます。

 丹後にはかつて竹野郡(たかの郡、たけの郡)という郡が存在しまし
た。京丹後市もこの竹野郡でした。
 今もこの地方を流れる川に竹野川という名が残されています。

 記紀には竹野ヒメなる女性が登場します。

 11代垂仁天皇の皇后サホビメは、その兄サホビコの反乱の時に兄と
運命を共にします。
 天皇が、
 「そなたを失ったなら私はどうすればよいだろう」
と、おっしゃられますと、
 「タニワノヒコタタスミチノウシの王の娘で名はエヒメとオトヒメの
ふたりを。このふたりの姫は優れた女性たちです。どうぞ彼女たちをお
迎えなさいませ」
と、サホビメは答えます。
 サホビコの乱が終わった後、新しい皇后としてヒバスヒメを迎えるの
ですが、『古事記』には次のように記されています。

天皇は、亡き皇后サホビメの遺言に従って、ミチノウシの王の娘たち、
ヒバスヒメノミコト(比婆須比売命)、オトヒメノミコト(弟比売命)、
ウタゴリヒメノミコト(歌凝比売命)、マトノヒメノミコト(円野比
売命)の4名をお迎えになられました。
 ところが、ヒバスヒメとオトヒメの2人だけを入内させ、あとの2人
は容姿がよくなかったために国元に帰してしまわれました。
 マトノヒメは、
 「同じ姉妹でありながら容姿が劣るという理由で帰されてしまうなん
て、なんという恥辱だろう」
と、言って、山代の相楽まで来た時に、木にさがって死のうとしました
が、死ぬことができませんでした。それでその地を懸木(さがりき)と
呼ぶようになりました。今は相楽といいます。
 結局、弟国(おとくに)まで来た時に、深い谷に身を投げて死んでし
まいました。ゆえにその地を堕国(おちくに)といいます。今は弟国と
いいます。

 ひとりだけ、容姿がイマイチということで帰されてしまうとはまこと
にひどい話でございます。
 だけど、どこかで聞いた話だなあ、なんて思っていると、上巻に似た
ような説話が記載されていたのでした。
 天孫降臨で、天つ国から降って来たホノニニギはオオヤマツミノ神
(大山津見神)の娘コノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜毘売)という
美しい女神を娶ろうとします。この時に父神はサクヤビメの姉イワナガ
ヒメ(石長比売)も一緒にホノニニギの妻にしようとしますが、姉の方
は容姿が美しくなかったのでホノニニギは帰してしまうのです。
 このことにオオヤマツミは、
 「娘ふたりを並べて奉ったのは、イワナガヒメを娶れば御子の御命は
どんなことがあっても岩のように動じないようになるから。コノハナノ
サクヤビメを娶れば花のように栄えるから。それなのにイワナガヒメを
帰しコノハナノサクヤビメだけを娶ったなら御子のお命は花のようには
かないものになるでしょう」
と、言います。この話はそんなわけで、神の子孫である天皇にも寿命が
あるのだ、というものです。

 ところで、このヒバスヒメ姉妹たちのエピソードですが、ちぐはぐな
部分が見られます。


・・・つづく

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