小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

405 もうひとつの香久山伝承

2015年06月29日 01時12分00秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生405 ―もうひとつの香久山伝承―
 
 
大彦命(オオビコノミコト)について、『古事記』は8代孝元天皇と内色許売命(ウツシシ
コメノミコト)との間に生まれた御子として、
 
大毘古命(オオビコノミコト)
少名日子建猪心命(スクナヒコタケイココロノミコト)
若倭根子日子大毘毘命(ワカヤマトネコヒコオオビビノミコト=開化天皇)
 
の3名を記します。
 これに対して『日本書紀』では、孝元天皇とウツシコメとの間に生まれた御子たちは、
 
第一子を大彦命(オオビコノミコト)
 第二子を稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオビビ天皇=開化天皇)
 第三子を倭迹迹姫命(ヤマトトトヒメノミコト)
 
と、します。
 『古事記』と『日本書紀』はともに大毘古(大彦)と開化天皇を、孝元天皇とウツシシ
コメの子としながらもその兄弟(妹)については異なる記載をしています。
 『日本書紀』が伝える倭迹迹姫命とは、大物主の妻となった倭迹迹日百襲姫命(ヤマ
トトトヒモモソヒメ)と同一人物であろうと言われています。
 なお、モモソヒメについては、『古事記』も『日本書紀』もともに、7代孝霊天皇の皇女
とし、同母弟にヒコイサセリビコノミコト(『古事記』は比古伊佐勢理毘古命、『日本書紀』は
彦五十狭芹彦命)がいる、とします。
 ヤマトトヒメとモモソヒメが同一人物ということは、つまり7代天皇の皇女とする伝承と
8代天皇の皇女とする伝承の2通りがあったためであろう、と言われています。
 
 大毘古とモモソヒメに関しては次のような伝承があります。
 10代崇神天皇の時代、大毘古が将軍として高志に向かう時、山城の幣羅坂(へらさか)
にて、腰裳を着て歌を歌う少女に出会います。その歌の内容が、
 
 ミマキイリヒコはや ミマキイリヒコはや 己が緒を 盗み殺せむと 後つ戸よ い行き違ひ 
 前つ戸よ い行き違ひ うかがわく 知らせにと ミマキイリヒコはや
(ミマキリヒコよ ミマキイリヒコよ あなたの命を奪おうと 宮の前の戸から 宮の後ろの戸
から うかがっている者がいることも知らないで ミマキイリヒコよ。※ミマキイリヒコは崇神
天皇の名)
 
 これを耳にした大毘古は天皇の元に戻り、このことを報告しました。
 それを聞いた天皇は、
 「私が思うに、山城にいるタケハニヤスビコ王(大毘古の異母兄弟)が反乱を企てている
お告げであろう。伯父上(大毘古のこと)は兵を率いて討ってください」
と、副将に日子国夫玖命(ヒコクニブクノミコト)を付けて、建波邇夜須毘古命(タケハニヤス
ビコノミコト)を討たせた、といいます。
 
 上記の内容は『古事記』に書かれているものですが、『日本書紀』も同じ内容の記事を
載せるとともに、『古事記』には記されていない部分をも載せています。
 その部分とは、大彦(大毘古)の報告に続いてモモソヒメが天皇に、
 「タケハニヤスビコ王の妻の吾田媛(アタヒメ)が天の香久山の土を取ってそれを布にくるみ、
『これは倭国の物代』と呪言を唱えた、と聞きました。これは謀反のしるしでしょう」
と、告げたというものです。
 
 吾田媛が天の香久山の土を取る話は、『日本書紀』の「神武紀」にあるシイネツヒコとオト
ウカシが香久山の土を取る話、『住吉大社神代記』の古海人老父(こあまのおきな)為賀
𥿻悉利祝(いかしりのはふり)が香久山の土を取る話と同じものでしょう。
 阿閉臣の始祖である大毘古もまた、香久山の土を取る伝承に関わっているのです。