小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

403 十市郡の竹田神社

2015年06月23日 02時28分15秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生403 ―十市郡の竹田神社―
 
 
 橿原市竹田町は旧の十市郡に属し、ここに鎮座する竹田神社は式内社
です。
 また、多神社の若宮であると伝えられ、祭神は天香久山命です。
 天香久山命は天香語山命ともいわれますが、『海部氏勘注系図』や『先代
旧辞本紀』などでは天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と道主日女の御子神と
あります。
 なお、『海部氏勘注系図』と『先代旧辞本紀』によれば、天香語山命(天香
久山命)の御子神の天村雲神と丹波の伊加里姫命との間に生まれた倭宿禰命
という神が倭氏の祖とありますが、天香語山命の母とされる道主日女は『播磨
国風土記』託賀郡荒田の項に盟酒の伝承を残しています。このことについては
これまでにも何度か紹介したことなのでここでは割愛しますが、荒田の地名は
オオタタネコゆかりの地に陶荒田神社が鎮座することと何やら関係がありそう
です。
 
 つまりは『日本書紀』の崇神天皇の神々の祭祀に関係する多神社、大倭神社、
大神神社がすべからず竹田神社と関係を持つことになるのです。
 
 さて、竹田神社の祭祀氏族は竹田氏ですが、竹田氏にも諸流があり竹田
神社の竹田氏は竹田川辺連です。
 竹田神社がある橿原市竹田町には猛田縣主(たけだのあがたぬし)がいた
ともいわれます。
 竹田町は、猛田縣主が管轄する猛田縣(たけだのあがた)の比定地だからです。
 もっとも、猛田縣の有力な比定地としては宇陀市も有力で、そのため橿原市が
猛田縣であるとは断定できないわけなのですが、『日本書紀』によれば、シイネ
ツヒコとともに香久山の土を取りに行った弟猾(オトウカシ)が神武天皇から
猛田邑を与えられ猛田縣主となった、とあります。
 オトウカシは兄の兄猾(エウカシ)とともに菟田郡の在地勢力で、エウカシは
神武天皇に従わなかったために討たれ、オトウカシは神武天皇に従って活躍して
います。『日本書紀』には、
 
 「弟猾に猛田邑をたまう。よりて猛田縣主とす。これ菟田主水部の遠祖なり」
 
と、記されており、シイネツヒコが倭国造となり、剣根が葛城国造になったのも
この時のことです。
 ちなみに、『播磨国風土記』に載る道主日女の盟酒の伝承ですが、これは鴨縣主の
始祖伝承の後半と酷似しており、鴨縣主もまた主水司であったといわれています。
 さらに言えば、鴨縣主の始祖伝承の前半はオオタタネコの始祖伝承と酷似して
います。
 このオオタタネコの出身地とされる陶邑の比定地に陶荒田神社があることは先に
お話ししたとおりなのですが、陶荒田神社の祭祀氏族である荒田氏の始祖は
剣根命で、上記の剣根のことであろう、といわれています。剣根命は高魂命(高御
産霊神)の五世の子孫とされる神です。
 
 そういったところで竹田神社に話を戻します。
 竹田神社の祭祀氏族の竹田川辺連の方は、『新撰姓氏録』に、「火明命五世の孫、
建刀米命の後」とあり、同族に湯母竹田連がいます。
 また、竹田連という氏族もおり、こちらは「神魂命(カミムスヒノミコト)十三世の孫、
八束脛命の後」とあります。
 このことから、竹田連と竹田川辺連・湯母竹田連は別系統となり、この辺りは少々
ややこしくもあります。
 
 平安時代のはじめに編まれた医学書『大同類聚方』に「たけた薬」が載っています。
「たけた」は竹田のことで、「太計太薬」、「太計多薬」と表記されていますが、『大同
類聚方』は次のように記します。
 
 「太計太薬、大和国十市郡竹田神社祝、竹田川辺連秀雄之家之方なり」
 
 「太計多薬、対馬国下県郡阿麻氐留神社の宮人箘田連(竹田連)重宗の家伝流所方」
 
 竹田川辺連が十市郡の竹田神社の祝とあるのは何もきにするところではないの
ですが、竹田連が対馬の阿麻氐留神社(あまてる神社)の宮人というのは見過ごす
わけにはいきません。