小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

396 安曇氏と三島

2015年06月04日 01時15分43秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生396 ―安曇氏と三島―
 
 
 『日本書紀』には、神功皇后の新羅遠征に際して、磯鹿の海人名草なる者が
登場します。
 この原文は、「磯鹿海人名草」で、これを日本古典文学大系『日本書紀』は、
「磯鹿の海人、名は草」と読み下していますが、「名草」が名前であるとする解釈も
あるのです。
 もしも名草という名前の人物だと解釈するならば、ここでも紀伊の名草郡と
重なります。
 
 なによりも磯鹿の海人は、『住吉大社神代記』で香久山の土を取りに行くのが
古海人老父とあることに留意する必要があるでしょう。
 磯鹿は「しか」と解釈され、すなわち志賀島のことだと解釈されます。
 志賀島は安曇氏の本拠とも言われています。と、言うのも、志賀島には式内社
である志賀海神社(しかうみ神社)があり、これは全国の綿津見神社、海神社の
総本社を称しているからです。
 
 その志賀海神社の「志賀海大明神」と、『八幡愚童訓』に記されるのが安曇磯武
良(あずみのいそたけら)です。
 安曇磯武良は安曇磯良(あずみのいそら)ともいいますが、『太平記』でもやはり
神として描かれています。
 伝承では、神功皇后が三韓に出兵する時に、対馬の琴崎(きんざき)の海辺で
軍船の碇が沈んで上がらなくなったのを、安曇磯武良が潜って引き上げたといい
ます。
 神功皇后の朝鮮遠征に関わるところなどから、安曇磯武良は磯鹿の海人名草と
重なります。
 
 安曇磯良(安曇磯武良)は綿津見神社(わたつみ神社)などでも祭神として祀ら
れていますが、そのひとつが大阪府茨木市の磯良神社で、ここで磯良は磯良大神
として祀られています。
 礒良神社は別名を疣水神社(いぼみず神社)といい、やはり神功皇后にまつわる
伝承が残されています。
 神功皇后が三韓に出兵する時にこの神社から湧く「玉の井」で顔を洗うと、疣や
吹き出物ができて、醜く男のような顔になったが、無事に出兵を終えて再びここの
玉の井で顔を洗うと元の美しい顔に戻った、というものです。
 
 『播磨国風土記』の揖保郡の項には、安曇連百足が難波から揖保郡浦上の里に
移って来たという記事がありますが、谷川健一(『青銅の神の足跡』)は、疣は播磨国の
揖保郡(いぼ郡)に通じる、とします。
 
 さて、茨木市はかつての三島郡(摂津三島)に属しますが、同じく三島郡に属して
いた高槻市には三島鴨神社が鎮座します。
 この三嶋鴨神社は愛媛県の大山祇神社、静岡県の三嶋大社とともに三三島と
呼ばれる神社なのですが、「伊予国風土記逸文」によれば、大山祇神社の祭神、
大山祇(大山積)は、摂津三島より遷ってきた、といいます。
 
 さらに、『播磨国風土記』の揖保郡の項には、興味深い説話が記されています。
 それが大田の里の伝承で、
 
「大田というのは、昔、呉の勝(すぐり)が韓国より渡来して来て、最初は紀伊の
名草郡大田の村にいたが、その後枝分かれして摂津の三島の賀美郡大田の村に
移ってきた。
それが、今度は揖保郡の大田の村に移って来た。大田というのは元は紀伊の
大田の地名が由来である」
 
と、あります。ここに出て来る摂津の三島の大田とは、茨木市太田とされていますが、
ここで注目すべきは、紀伊の名草郡がここにも登場していることなのです。
 
 三三島で祀られているのは大山祇神ですが、三島鴨神社と三嶋大社では同時に
事代主も祀られていることに注意が必要です。