小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

後には縄跳び名人さん

2014年01月31日 00時55分30秒 | 日記
 少し出雲大社を訪れた時のレポートが3回続いた
ので、ここらでメインの、言葉のエピソードを。

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2011年4月10日(日)(3歳0か月)

 今、ゆうきとりえは、学校の体育の授業で縄跳びを
しているそうだ。

 家でもよく練習をしている。

 春奈もそれを見ているせいだろうか、今日、家の中
でロープをゆうきとりえに回させて、その前で春奈が
ピョンピョン跳ねる。

 3歳なりたての春奈には、まだ縄跳びはできない。

 今だって、ロープを跳んでいるわけじゃなく、ただ
ロープを回してもらって、少し離れたところで跳んで
いるだけ。

 それでも、本人にとっては、これは縄跳びをしてい
ることなのである。

 つまりは、大まか、というやつだ。大波でお姉ちゃ
んのマネっこをしている。


 ただ、このマネっこを甘く見てはいけない。

 赤ん坊は周りの人が話している言葉をよくマネっこ
するし、ヒッポファミリークラブの多言語活動だって、
ストーリーCDのマネっこをして言葉を育てる。


 この時はまだ、縄跳びのマネっこをしているな、と
思っていただけだけど、後に、春奈が保育園に通うよう
になった時には、保育園で「縄跳び名人さん」の称号を
いただくことになる。

 ※ 下の写真は4歳6か月の頃の春奈。縄跳び練習中。
 


 うーむ・・・。

 やっぱりマネっこはバカにできない。


出雲大社その3 出雲国造とアメノホヒ

2014年01月31日 00時09分36秒 | パワースポット
パワースポット編 ―出雲大社その3 出雲国造とアメノホヒ―


 出雲大社教(神道大社教)は出雲国造を祖天穂日命(アメノホヒノミコト)
の子孫としている。

 それでは、この出雲国造は数多く存在した古代出雲の豪族の、どの氏族だっ
たのだろう?
 手がかりとなるのは、出雲大社教が、出雲国造の祖アメノホヒを教祖として
いることだ。
 つまり、アメノホヒを始祖にする豪族ということになる。それに該当するの
が出雲臣である。


 『日本書紀』の「崇神紀」には、「出雲臣の遠祖出雲振根(イズモフルネ)」
なる人物が登場する。
 同じ『日本書紀』の「仁徳即位前紀」には、「出雲臣の祖淤宇宿禰(オウノ
スクネ)」なる人物が登場している。
 
 また、「崇神紀」に登場する出雲フルネと同じ名を持つ人物、建部臣古禰(た
けるべのおみフルネ)が、『出雲国風土記』の出雲郡の条に見ることができる。

 建部臣フルネは、神門臣古禰(かむどのおみフルネ)であったが、景行天皇よ
り建部臣の氏族名と姓(かばね)を賜った、と記されている。
 この建部臣は、出雲郡建部郷に居住していた、と『出雲国風土記』は記すが、
同じ『出雲国風土記』の神門郡の条には、神門臣の一族が古くから神門郡に住み
続けている、と記す。
 もっとも、これだけでは、出雲郡の神門臣(建部臣)と神門郡の神門臣が同族
かどうか判断の難しいところではあるけども、ちなみに『新撰姓氏録』には、

 「出雲臣、天穂日命十二世孫鵜濡渟命の後なり。
 神門臣、同上」

と、あり、神門臣と出雲臣は、アメノホヒを始祖にする同族であるとする。
 しかし、『日本書紀』には、

「天穂日命。これ出雲臣、土師連らの祖なり」

と、あり、神門臣の名は見えない。
 もっとも、「土師連(はじのむらじ)ら」とあるので、省略されているだけとの
解釈もできる。

 ただ、出雲国府が意宇郡(おう郡)に置かれていたことを考慮すると、オウの名
を冠した淤宇宿禰が出雲国造の家系のように思える。
 しかし、一方の神門臣は、その名から神門郡を拠点にしていたと思われる。
 意宇郡が出雲東部なのに対し神門郡は出雲大社のある出雲西部である。
 すると、神門臣もまた出雲国造の有力候補である。

 ここで問題となるのが、出雲郡の、神門臣古禰の一族である。
 出雲郡こそが出雲大社が鎮座するところだからだ。
 ちなみに、神門郡は出雲郡の南隣に位置する。

 で、神門臣フルネの何が問題になるのかと言うと、『日本書紀』には、出雲臣の
遠祖出雲振根(イズモフルネ)について、次のような記事を載せているからだ。

 「天皇は、出雲大神の宮にある神宝を見たいと望まれたので、矢田部造の遠祖武諸隅
(タケモロスミ)を派遣した。
 出雲の神宝は、出雲臣の遠祖出雲フルネが管理をしていたが、ちょうどその時筑紫に
出向いており不在だったので、出雲フルネの弟飯入根(イイイリネ)が代わりに勅命を
承り、弟のウマシカラヒサとその子のウカヅクネに神宝を献上させた。

 その後、筑紫から戻ってきたフルネは、このことを聞き、
 『なぜ神宝を渡したのか!』
と、激怒し、その怒りは収まることなく、ついには弟を殺してしまおうと考えた。

 フルネは、真剣そっくりの木刀を作らせると、イイイリネを、
 『近頃、止屋(やむや)の淵に藻がたくさん発生した。それを査察に行くのだがお前
も一緒に来てくれるか?』
と、声をかけて誘い出した。
 二人で止屋の淵まで行くと、
 『淵の水は清らかではないか。せっかくだから、ここで一緒に沐浴しよう』
と、フルネが言った。
 二人はともに沐浴をして、先にフルネが水中から上がると弟の太刀を佩き、剣を抜い
た。
 イイイリネは驚いて兄の太刀を手にしたが、これは本物に似せて作った木刀であった
から、フルネに斬り殺されてしまった。
 このことで、人々は、

 八雲たつ イズモタケルが 佩ける太刀 黒葛(つづら)多(さわ)巻き
 さ身なしにあわれ

と、歌った。
 ウマシカラヒサとウカヅクネが朝廷に参上し、事の次第を伝えると、天皇は、吉備津
彦(キビツヒコ)と武渟川別(タケヌナカワワケ)を遣わしてフルネを討たせた。
 この一件以来、出雲臣たちが大神を祭祀することをやめてしまった期間が生じた。
 時に丹波の氷上郡の人で氷香刀辺(ヒカトベ)が、皇太子活目命(イクメノミコト=後
の11代垂仁天皇)に、次のような訴えをした。
 『私には子がおり、まだこどもなのですが、それがこのようなことを言い出したのです。

 玉藻鎮石 出雲人の祭る 真種の甘美鏡 押し羽振る 甘美御神 底宝御宝主 
山河の水泳る(みずくくる)御魂 静かかる甘美御神 底宝御宝主 』

 皇太子は天皇にこのことを報告し、天皇は出雲の大神の祭祀を復活させるよう勅命を出
した」


 以上の記事によれば、出雲フルネはこの時に滅ぼされてしまったことになるのである。
 もっとも、大和政権による出雲郡制圧が歴史の事実として存在し、それが『出雲国風土
記』の建部臣の話になったと、推理できなくもない。
 それよりも問題は、一連の騒動の原因となった「出雲大神の宮にある神宝」が、『日本
書紀』が、「武日照命(タケヒナテルノミコト)が天より持ち来れる神宝」と記している
ことである。

 タケヒナテルについては、「一に云わく、武夷鳥(タケヒナトリ)という。又云わく、天
夷鳥(アメノヒナトリ)という」との注釈が付けられている。
 『古事記』には、「天菩比命(アメノホヒノミコト)の子武比良鳥命(タケヒラトリノミコ
ト)は出雲国造らの祖」と、あり、出雲国造の神賀詞には、天孫降臨の使者を、「ア
メノホヒの子天夷鳥命(アメノヒナトリノミコト)」としている。
 つまり、出雲大神の宮にある神宝とは、大国主ではなく、アメノヒナトリの神宝だった
わけだ。

 すると、この時に出雲大社(杵築大社)で祀られていたのは大国主ではなくアメノホヒ
系そのものだったのかもしれない。


 それから、出雲の大神の祭祀を復活させることとなった神託が、出雲ではなく丹波の子
に降りたのはどうしてなのだろう?
 丹波には「元出雲」と呼ばれる出雲大神宮が鎮座している(現在の京都府亀岡市)。
 出雲の出雲大社が明治になるまで「杵築大社」と称していたのに対し、こちらの方は古
くから「出雲神社」と称していた。
 その関係もあるのかもしれない。

(つづく)