小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

出雲大社その2 出雲国造の神賀詞

2014年01月29日 23時54分39秒 | パワースポット
パワースポット編 ―出雲大社その2 出雲国造の神賀詞―


 出雲大社に着く。
 いよいよ、ここから参道。
 木製の鳥居が立つこの場所を勢溜(せいだまり)という。



 出雲大社の正しい読み方は「いずもおおやしろ」。一般的に「いずもたいしゃ」と呼ばれる
けど、これは通称。

 それと、出雲大社という名称は明治になってからのもので、それ以前は杵築大社(きづき大社)
といった。

 祭神は言うまでもなく大国主命。

 しかし、初めから大国主を祀っていたのかと言うと、これが怪しい。
 実際、中世には大国主ではなくスサノオが祭神だった時期があるのである。

 ↓ 勢溜付近の参道



 それにしても、出雲の一地方神である大国主が、記紀神話に取り上げられるまでになったのは
どうしてだろう?その理由として、出雲国造の神賀詞奏上を挙げている研究家は多い。

 これは何かと言うと、出雲国の国造(くにのみやつこ。こくそう、とも。現在の県知事のよう
なもの。ただし、当時の日本の中心地大和に大和国造と葛城国造のふたりの国造がいたように、
一国に2人以上の国造がいた場合もある)が代替わりし、新しい国造が就任すると、一族百余人
とともに大挙上京し、数々の神宝や供え物の献上とともに、天皇の長久と若返りを祈る神賀詞
(かむよごと)を唱和するもののことである。

 新しい国造の就任の際には、まず朝廷で行われる補任式があり、新国造が上京して辞令を受け
取るが、その後国に帰り、1年間物忌みをした後、一族を率いて再び上京し、神賀詞を奏上する。
その際に、おびただしい数の、水晶や瑪瑙(めのう)などの玉、剣、鏡、布、白馬、白鳥などを
献上する。

 それが終わると、国造たちは一度出雲に帰り、また1年間の物忌みをした後、再び上京して前回
と同じ神賀詞と神宝を奉じる。

 これらの、旅費などを含む費用はすべて出雲国造の自己負担で、その負担はかなり大きなもので
あったと想像できる。

 しかしながら、そこまでして神賀詞奏上が行われたことで、記紀をして出雲神話を取り上げさせる
ことになった、とも言える。


 さて、神賀詞の中に、いわゆる国譲り神話の部分があって、ここには次のようなことが歌われ
ている。
 なお、文中のオオナモチとは大国主のことである。

 「高天の原のタカミムスヒの神は天孫に地上を治めさせようと思い、アメノホヒの命を調査に
向かわせた。
 アメノホヒは、
 『地上は禍々しい世界ですが、これを天孫の住まわれる世界にいたしましょう』
と、言って、わが子アメノヒナドリの命にフツヌシの命を副えて地上に遣わせた。
 アメノヒナドリは、荒ぶる神を払い伏せ、国作りましし大神オオナモチの命を媚び鎮めた。
 オオナモチは、自分の和魂を、大物主くしみたまの命と名を添えて大和の大三輪の神奈備に坐
せ、子のアジスキタカヒコネの命の御魂を葛城の鴨の神奈備に坐せ、コトシロヌシの命の御魂を
宇奈堤に坐せ、カヤナルミの命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せ、自らは皇室の守り神とならんと、
杵築の宮に静まった」


 このような内容の神賀詞が出雲国造によって奏上されたということは、出雲大社の祭祀に出雲
国造が大きく関与していたこからである。
 いや、古代のみならず、現代においても、出雲大社の宮司は出雲国造の家系が代々受け継いで
いるのだ。

 それから出雲大社教(神道大社教)の管長も出雲国造の家系である。

 ちなみに、出雲大社教とは、出雲大社の中にあった教会組織のことである。この宗教団体は、
大国主大神を奉斎主神とし、出雲国造の祖天穂日命(アメノホヒノミコト)を教祖としている。

 ところが明治15年に宗教法令が改正されると、神社は宗教活動ができなくなってしまった。
 これは、仏教などの他の一般宗教よりも神道を一段高いところに位置づけようとする国の方針
によるものだったが、当時の出雲大社宮司八十代国造千家尊富は、大国主の御神徳をさらに多く
の人々に伝えて社会教化を進めるべきと考え、出雲大社教を出雲大社から分離させ独立宗教法人
とし、「神道大社教」と改称した。そして、出雲大社宮司の職を弟千家尊紀に譲り、みずから神道
大社教初代管長に就いた。

(つづく)