さっちゃん 空を飛ぶ

認知症で要介護5の妻との楽しい日常を 日記に書き留めたいと思います

洗面所での手洗いは随分以前から出来なくなっていますが・・・・

2021-08-25 23:03:39 | 出来なくなったこと
今日はさっちゃんの手洗いについて書いておこうと思います。
今更ながら思いますが、こういう些細なことをきちんと記録しておけばよかったなぁと後悔しています。
洗面所の蛇口を捻って水を出し、手を洗って、タオルで手を拭く。
そんな当たり前のことが、その時その時、何は出来ていて、何が出来なくなってしまったのか、記録しておくことの大切さをいま感じています。
それを記録しておくことが何の役に立つの? と聞かれても、僕は明確な返事を持ち合わせている訳ではありません。
とりたてて今後に向けて役立つ目算などこれっぽっちもありません。

でも、もの凄く個人的レベルで語らせてもらうと、こんな感じでしょうか?
例えば、僕もそうでしたが、思春期や青年時代、あまり継続性はありませんでしたが、日記を書いていたことがあります。
あるいは、友人や好意を抱いていた女性などに書いたけれども投函しなかった長文の手紙が残っていることがあります。
そんな文章を発見し読み返した時の感じに似ているんだと思います。
そんなことを書いた頃の、ほろ苦くも甘い記憶が蘇って来るのです。
その記憶は長い時を経て、悦ばしい記憶や情感だけが蒸留されたアルコールのように心地よいものとして昇華されているのです。

手洗いの記録も同じだと思います。
生活の中のひとこまが詳細に記述されていることで、将来この記録を再読した僕の心の中に、ありありとその情景が蘇ると思うんです。
それはさっちゃんの姿、さっちゃんへの想いが蘇ることです。
手洗い、というそんな些細なことを記録しておくことが、
僕のさっちゃんとの日々の生活の中の心温まったり心締め付けられるような宝物の存在を教えてくれるのです。

一方で、このブログを読んでくださっている方々にとってを考えると、こんなことも言えるのでしょうか?
とりわけ、身近な方が認知症になったり、介護をされていたりする方々にとっては、進行していく症状の具体的な一例を知ることになります。
さっちゃんが蛇口を全開に近く捻って水道水を大量にほとばしらせたり、水の入ったコップを倒して水を床にこぼしたり、
手拭き用のタオルを引き抜いて放り捨てたり、歯磨きの載った歯ブラシをポ~ンと投げ捨てたり、・・・・、

そんなことどもも記録しておけば良かったと今になって思います。
そんな仕打ちを受けて、僕は怒ったり切れたりすることも多くありました。
でも、今ではこんな風に思います。
そんなことをされて怒るのではなく、まだそんなことが出来るんだと喜ぶ方が楽しいと。



▲我が家の洗面所。今のさっちゃんは蛇口を自分で捻ることはしません。僕が水を出しても、その水で自分の手を洗おうとはしません。僕がさっちゃんの右手を掴んで水をかけ洗ってあげます。続いて左手を。さっちゃんは自分で拭こうとはしません。僕がさっちゃんの手にタオルを握らせます。でも、大抵さっちゃんは何をしていいのか分からずにタオルを離してしまいます。タオルを両手で挟むように持たせても結果は同じ。結局、僕が拭いてあげることになります。

でも、ほ~んのたまにですが、自分で両手を水道水の流れに出すことがあります。
ほ~んのたまにですが、タオルを持たせると、自分で手を拭こうとすることがあります。
そんな些細なことが僕にとっての喜びになる生活、それも悪くはないなと最近思うようになりました。

そして、この洗面所でもうひとつ嬉しいことが。
前からいつか書こう書こうとは思っていたのですが、どのように記述すればいいのだか分からなかったのです。
今でも分からないのですが、現象だけを洗面所ついでに書いておきますね。
この写真に鏡が映っていますが、その鏡に関係したことです。
さっちゃんは鏡に映った自分の姿に向かって、嬉しそうに話しかけるんです。
自分の姿とは分かっていないように、僕には思えるんですが、確証はありません。

これは鏡像自己認知の問題ですから、僕にはまったく専門的知識はありません。
ヒトの子供は大体2歳ころから鏡に映った姿が自分自身だと認識できるようになるんだそうです。
脳のどの部位が自己認知に関わっているのかも研究中のようですね。
さっちゃんも認知症の核心である海馬以外に、前頭葉や側頭葉にも委縮している部分がありますから、その影響もあると思います。
鏡像自己認知が出来ていない可能性もありますね。

そんな理屈は兎も角として、鏡の中の自分に対して、さっちゃんは好感を抱いているようで、常に朗らかに話しかけるんです。
そんなさっちゃんを見て、僕も幸せになります。


いつものように、今日の散歩です。


▲18:05。17時50分までには家を出たかったのですが、やっぱり18時になってしまいました。今日は昼間は蒸し暑く、それが夕方になっても続いていました。こんなに蒸し暑い中、散歩に出かけるのは嫌だなぁ、などと渋ってる間に時が過ぎてしまったのです。さっちゃんにとっての貴重な運動タイムですから、出かけることにしました。それにしても、風もなく、蒸し暑い! 棟を出て、道路を歩いている時は夕陽全体が見えていましたが、多摩川土手に下りて行くと、見えなくなってしまいました。雲の色あいはまずまずですね。写真の右に写っている山並は奥多摩の馬頭刈(まずかり)尾根です。


▲18:09。またしても、夕景とさっちゃん。夕景の明るい箇所にフォーカスして、さっちゃんにはフラッシュを当てる。そんな手法にも慣れて来ました。
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