さっちゃん 空を飛ぶ

認知症で要介護5の妻との楽しい日常を 日記に書き留めたいと思います

日常的に僕が自由に出来る時間が少なくなっています

2021-04-28 23:52:39 | 些細なことだけど
今日はこのブログを夜の10時45分から書き始めまています。
いつもと同じくらいの長さの文面ならば、このまま書き進めると寝るのは2時くらいになってしまいそうです。
ですから今日は、短く済ませるつもりです。

この3日間、ブログに書くネタはたくさんあっても、実際に書くことは出来ませんでした。
さっちゃんが眠りに就いて僕の自由時間が訪れると、普段できないダラダラモードになってしまうことがあります。
人間はたまには(しょっちゅう?)ダラダラすることが必要です。
ぼお~っとして過ごすことが大切です。

夕方、布団の中のさっちゃんの隣りに入って、つい横になったら、目覚めると9時を過ぎていた日もありました。
可哀想なことに、その日のさっちゃんの晩ご飯は抜き。
僕も簡単に済ませて、再び早く寝てしまいました。
もちろん、さっちゃんは一度も起き出して来ません。

その逆に、なかなかさっちゃんが寝てくれなくて、ブログを書くどころではない夜もありました。


ここ3日間ブログを書けなかった理由は兎も角として、日頃の生活の中で、僕の自由時間が削られていっていることを痛感します。
そのことが顕著に分かる幾つかの事象を列記したいと思います。

●言語リハビリ等がある水曜日の病院通い、以前は読めていた新聞が読めなくなりました。
その日の朝刊を電車の中、病院の待合室、会計での待ち時間、そんな時間でほぼ読み終わっていました。
しかし今は、常にさっちゃんから目が離せません。
手を握っていてあげたり、さっちゃんの喋りに耳をきちんと傾けていないと駄目なんです。

●その新聞ですが、最近全然目も通せていません。
僕は新聞を読むのが好きです。(好きでした)
2、3年前までは朝夕刊ともに取っていました。
読めなかった日に溜まった新聞も後日読んでいました。
でも、だんだんと夕刊までは読めなくなり、今は朝刊だけを取っています。
ただ、その朝刊すら、最近は読めていません。
毎年毎年、新聞を読む時間が取れなくなって来ています。

●読書する時間がありません。
さほど多読ではありませんでしたけれど、週に1冊くらいのペースではいろんなジャンルの本を読んでいました。
それがこの数年間、ほとんど読めていません。
学生時代、大学の先生が「積ん読でもいいから、興味を抱いた本は買っておけ」と言われた言葉が心に沁みました。
読む時間や金銭事情もありますから、全部はその通りに出来ませんが、積まれた本は多かったと思います。
でも、いつかは読んでいましたね。
ここ数年間で買った本は積まれっ放しです。
最近は積ん読する気持ちにさえなりません。
読む時間がないことが明らかだからです。
今も続いている僕の唯一の読書(?)は漫画です。
ビックコミックオリジナル(月2回)、スピリッツ(月曜日)、モーニング(木曜日)の3冊。
僕は子供の頃にマガジン、サンデー、キング、ジャンプ、チャンピオン等が続々と創刊され、その洗礼を浴びた世代です。
鷹揚な時代でしたから、子供たちは本屋で立ち読みばかりしていました。
たま~には罪滅ぼしに何かを買っていましたけれど。
だんだんと読む雑誌数を減らして、今は3冊になっているのです。
以前は、毎日の長風呂とトイレだけで十分に読めていました。
でも今は、お風呂は週に2回ですし、トイレも長居できません。
漫画3冊が限界ですね。
今は主に寝る前、布団の中で読んでいます。

●テレビの録画時間が減りません。
昔から、テレビ番組のほとんどを録画してから観ることが多かったですね。
地上デジタルになってからは、本当に便利になりましたよね。
ビデオテープの時代は録画した番組をすべて見終わってからでないと、再び同じテープに録画は出来ませんでしたからね。
僕は今、2019年9月に録画された番組を観ています。
ドラマや時事ネタの番組はすぐに観るのですが、そうでないものは後回しになります。
録画可能な残り時間も後60時間ほどしかありません。
でも、50時間ちょっとになると、家のテレビは録画番組を再生できなくなってしまいます。
そんな時は、過去の番組で観なくてもいいかなと思うのを消去しなければならなくなるんです。
今は、その録画番組を観るのもひと苦労なんです。
一昨年くらいまではさっちゃんも一緒に観てくれていました。
でも、さっちゃんは次第に興味関心を失っていき、さっちゃんをほったらかして僕だけテレビを観ることができ難くなりました。
ですから、前述のように観ないまま消去せざるを得ないケースが増えています。



他にも様々な事柄があるでしょうけれど、ひとまず思いつくものを記しました。
ダラダラして、ぼ~っとして、無為に過ごして、今日する必要がないことは絶対にしない、
そんな怠惰でグ~タラな本来の僕でいた~い!

まあ思えば、さっちゃんのお陰でそんな暮らしも出来ていたんでしょうけどね。
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さっちゃんは庭先の花を見て「綺麗ね」と言うことが時々あります

2020-11-28 23:55:51 | 些細なことだけど
さっちゃんは言葉が不自由で何を喋っているのか分かりません。
怒っている、喜んでいる、不機嫌、心が沈んでいる、、、とかの感情はだいたい分かります。
とはいえ、微妙な感情は分かりませんし、さっちゃんに繊細な感受性があるのかどうか、僕には理解不能です。

ただ、さっちゃんなりの美意識は残っているみたいです。
それは道を歩いていて、何かを指差しながら、時々「綺麗ね」と言うからです。
僕は「そうだね。綺麗だね。菊の花じゃないかな」とか応じます。

2年くらい前だったでしょうか?
さっちゃんはその頃も「綺麗ね」とよく言ってました。
でも、それは自動車や家の壁を指差してのことでした。
僕は返答に困りましたね。
一応「そうだね」と言ってはおくんですが、何故わざわざ「綺麗ね」と言うほどのことなのか分からなかったんです。
確かに、「綺麗ね」と言われた車に共通していることは、よく洗われていてピカピカだったこと。
壁も洗った直後のようにピカピカな雰囲気がありましたね。

さっちゃんの美意識が変わっちゃったんだろうか? と当時は不思議に感じていました。
さっちゃんは車とかには興味はなかったはずですから。
しかも、車には「綺麗ね」と言うことがあっても、お花とかには言うことはあまりなかったんです。
その後、車に対しては「綺麗ね」と言うことがなくなりました。

それが今年になると、変わって来ました。
お花に対して「綺麗ね」と言うことが増えたんです。
とりわけ、今年の初夏くらいからだったでしょうか。

駅やスーパーに行く時、家を出てすぐに通る細い路地があります。
その路地の舗装した路面とブロック塀の境目に、一見すると雑草のような紫色の花が咲いていました。
さっちゃんはそこを通るたびに、その花に目をやって「綺麗ね」って言うんです。
ほぼ毎回、その紫色の小さな花に気付いて「綺麗ね」と言うんです。
認知症ですから、そこにその花が咲いていることを記憶できているはずがありません。
毎回毎回、新鮮な気分でその花にハッと気付いて、綺麗だなぁと感じているんでしょうね。

人の家の庭先に咲いている花で、同じように毎度毎度「綺麗ね」と言うお花が他にも3、4ヶ所ありました。
黄色いキク科の花だったり、少しだけ変わっている青いアジサイの花だったり、薄紫色の唇形の花だったりしました。
そこを通るたびに必ず「綺麗ね」と発するのは不思議でもありました。

もちろん、違う所を通った時に、別の花に「綺麗ね」と言うことだってあります。
僕が先に「綺麗だね」と言って、それに同意してくれる時もあります。

さっちゃんが「綺麗ね」と言う花に共通していることがありました。
こんもりとたくさんのお花が咲いていることです。
ただ、最初に例に上げた道端の紫色の花は例外でしたね。
さっちゃんは昔は小さくて可憐な花が好みでした。
そういうお花を美しいと感じる精神性は、ちょっと複雑な美意識が作用しているのでしょうね。
今は、そんなタイプの花が咲いていても、あまり注目することは少ないようです。

お花に対して「綺麗ね」と言ったりする心を僕はとっても愛おしく感じます。
いつまでもそんなことがあって欲しいと思っています。
散歩などで歩きながら、綺麗な花、可愛いい猫、元気な子犬、美しい夕焼け空や夕焼け雲、塒へ急ぐカラスの群れ、
飛んでいくアオサギやシラサギ、水路の鯉、水路の鴨、空に浮かぶ三日月や上弦の月や満月、宵の明星、・・・・
その瞬間に僕自身が美しいな可愛いな珍しいな、などと感じたものをさっちゃんにも指差して語りかけるんです。
さっちゃんはいい反応をすることもあれば、まったく無視することも、僕を急かして、そんなことを言う僕を怒ったりもします。

言葉での意思疎通が困難なさっちゃんですが、身の回りの世界の姿に心動かされる感受性が少しはあることが僕にとっては本当に救いです。
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改めて言われてみると、確かにそうではあるけれど・・・・

2019-12-27 23:51:37 | 些細なことだけど
一昨日のことですが、さっちゃんのすぐ下の妹さんからお歳暮が届いていました。
どういう風の吹き回しなんでしょうか? お歳暮なんて初めてのことです。
早速、お礼の電話を入れました。
2回ほど繋がらなかったので、彼女の方から電話がかかって来ました。
さっちゃんは寝てしまっていたので、僕と妹さんとで少しだけ話しました。

彼女も、もう何年前になるでしょうか? 十何年前だったでしょうか?
ご主人が脳梗塞で倒れ、後遺症が残ったものですから、それ以降ご主人を介護する生活が続いているのです。

「さっちゃんはどう? 元気?」
「元気ですよ。でも、こういう病気ですからね。少~しずつ出来ないことが増えて来ますよね」
「そうよね。貴方も大変でしょ。体は大丈夫?」
「ええ、元気ですよ」
「でもね、ずうっと束縛されているから大変よね」


彼女が“束縛”という言葉を発した時、僕はちょっとドキッとしました。
電話が終わって、心の中で反芻しました。
・・・・束縛ね~ぇ・・・・確かに束縛ではあるけれど・・・・
彼女も献身的にご主人を介護している方ですから、その“束縛”という言葉には色々な意味合いが含まれているはずです。

でも、僕はちょっと違うイメージを抱きました。
そもそも結婚生活自体が“束縛”だもんなぁ。
相手の人格を貶めるような“束縛”でなければ、こんな“束縛”は悪いけど、別の“束縛”ならいい、なんてことはないはず。
確かに今は時間的、肉体的、行動的、いろんな面で“束縛”されているのは確か。
デイサービスやショートステイも僕自身を“束縛”から解放する、そんな側面があることも確か。
ただ、今のこの“束縛”も長~い結婚生活の中のひとつの時期に過ぎないと思うんですよね。
夫婦は互いに“束縛”しあっていて、今の僕の介護生活もその“束縛”のひとつの形に過ぎない、と。
恐らく、僕はさっちゃんに言われたことはないけれど、僕がさっちゃんを“束縛”していたこともたくさんあるはず。

長~い目で見れば、今のこの瞬間振り子が僕の方に振れて来ているだけ、そんな気がするんです。
それに、さっちゃんに僕からしてあげること、こんな体験は滅多に出来ることではありません。
辛かったり、きつかったりすることもありますけれど、僕の心は確実に成長していると感じますしね。
ある意味、僕にとっては非常に豊かな時間が流れているのです。
この年齢になって、初めて「大人になりつつある」ような気もします。

さっちゃんの妹さんが発した“束縛”という言葉で、いろいろと考えさせられたこの三日間でした。
ちなみに、お歳暮はイタリアの赤ワイン2本でした。
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さっちゃんが何を怒ってるのか分からないんです

2019-07-07 22:00:42 | 些細なことだけど
さっちゃんがいろんなことでストレスが溜まるんだろうなぁ、とは理解できます。
その矛先が僕に向かって来て、僕に文句を言ったり、怒ったり、不満をぶつけたりすることがあります。
でも、何を言っているのか、言語不明瞭ですから、
僕は自分がなぜ怒られなきゃならないのか一切分からないんです。

何となく想像がつくときもありますから、そんな際には何らかの対応が取れるのでいいのですが、
まったく予測できないケースの方が多いのです。
僕自身が静かに一人パソコンへ向かっている時や、新聞に長く目を通している時もよく怒られます。
まあ、さっちゃん本人が何もすることがなくて、退屈でイライラするのかもしれません。
僕にとってはとんだとばっちりです。
「何をしてるの!」と聞かれ、「パソコン見てるんだよ」と答えると、
酷い時にはパソコンを落とされそうになったり、閉じられたりします。
最近は、そうなる手前でさっちゃんに何かしらの愛想を打つので大丈夫なんですが。

いろんなストレスがあるんでしょう。
怒ったと思ったら泣き始めたりもします。
そんな時には僕はさっちゃんを抱きしめてあげます。
でも、僕に対して怒っていて、抱きしめさせてくれない時はそおっと放っておくしかありません。

怒られたり、泣かれたりすると、僕にもストレスがかかります。
ストレスに強くなるということは、無感情になることとは違いますから、難しいですよね。
でも、解決法は分かってるんです。
さっちゃんをしてあげること。
愛することは知ることでもありますから、さっちゃんのことをよく知って(理解して)あげること。

ただ、これがいちばん難しいのですけどね。
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お玉がない! お玉はどこだ!

2017-09-17 16:05:14 | 些細なことだけど
我が家の食器洗い担当はさっちゃんです。
その後の食器類や鍋等の片付けもさっちゃんがやってくれてます。
でも、お茶わんやお皿が所定の場所に片付けられていないことは日常茶飯。
所定の場所じゃなくても、割と近くに置いてあるので僕が直しておきます。

でも時々、とんでもない場所に置いてあるケースもあって、びっくりしてしまいます。
先に見つけたら、正しい位置に戻せばいいので楽なんですが、
先に必要になると、探さなければなりません。

昨晩からお玉が見つかりません。
今日のお昼にもお玉が見つかりません。

あああ、あれ~~~っ!
ありました!
その場所を説明するのは難しいのですが、目の真ん前です。
あまりにも眼前過ぎて気付かなかったんでしょう。

ついでですが、昨日の朝のレタスの残り物が、流しのシンクの下の鍋の上に置いてありました。

ただ、ほとんどは間違わずに正しい位置に戻してくれてます。
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自動的に閉まるってのは、やっぱり不思議なんでしょうね。

2017-08-30 17:44:37 | 些細なことだけど
外出したりすると、自動ドアがあったりします。
そんな時のさっちゃんの行動がちょっとびっくりするというか、笑ってしまいます。
自動ドアを通った後で、そのドアを閉めようとするのです。
自動ドアから離れませんから、ドアは開いたまま。
そのドアを力いっぱい閉めようとするのです。
「これは自動ドアだよ」とか「そんなことすると、壊れちゃうよ」とか言うと、
何となく分かるのか、離れます。
それでも、本当かなぁ? てな感じで眺めています。
当然閉まりますから、それでやっと納得の表情。
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