ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

仙寿院

2016年05月22日 10時53分49秒 | 社寺仏閣

鳩森八幡宮から会場に向かう途中に仙寿院がありました。

鳩森八幡宮から出て、坂をおりたところは新国立競技場の建設現場です。明治公園のあった場所です。

いつも通っているところで、

右側にトンネルがあることはわかっていたのですが、散策したことはありませんでした。じつはこの上が墓地だったのです。この写真を撮っている場所は昔お団子屋さんがあったあたりだそうです。物の本に「仙寿院の参道下、現在のビクタースタジオ付近には、江戸時代から明治元年まで『お仲だんご』という団子屋があった。『お仲だんご』は、江戸名所図会や歌川広重の浮世絵にも描かれており、美人と評判のお仲さんや竹の皮で包んだ「古代餅」などから、仙寿院などを訪ねる人々などのあいだで人気を博していた。」と書かれていました。

階段の上に仙寿院があります。

★ランドマーク仙寿院由緒書きより「当山は、正保元年(1644年)紀伊の太守徳川頼宣の生母お萬の方(法名養珠院妙紹日心大姉)の発願により里見日遥(安房の太守里見義康の次子)を開山として創立された。従って江戸期は、紀伊徳川家、伊予西条松平家の江戸表における菩提寺祈願所として、十万石の格式をもって遇せられ、壮大な堂宇と庭園は江戸名所の一つに数えられ、新日暮里(しんひぐらしのさと)とも呼ばれていた。
お萬の方は、徳川家康の側室で紀伊徳川家の祖、頼宣水戸徳川家の祖、頼房の生母でもあり、また法華経の信仰篤く日蓮宗門の大外護者として知られている。
開山里見日遥(一源院日遥上人)は、後に飯高檀林へ招かれ多くの法弟を育成し、更に越後村村田妙法寺へ瑞世した。日遥を祖とする千駄ヶ谷法類は、当山を縁頭寺とする。
江戸期において隆盛を誇った当山も明治維新の変革によって衰微し、明治十八年には火災によって全山焼失、その後里見日玞により復興されるも、昭和二十年戦災で再び全山焼失した。更に昭和三十九年東京オリンピックの道路工事などによって寺観は一変したが、昭和四十年には本堂・書院を再建、昭和五十九年には書院・客殿を増改築し、昔日には遠く及ばずながら復興し現在に至っている。」

仙寿院は正式名称は「法霊山仙寿院東漸寺」ということらしく

東禅寺と書かれた石碑がありました。

千駄ヶ谷トンネルは前回の東京オリンピックのための道路拡張で墓の下を貫通したようです。

上には墓地が

おおきなイチョウの木がありました。

神宮第二球場のネットが見えます。

こちらが本堂

本堂の脇に標札がありました。

墓のところに布袋尊があります。

仙寿院は鬼平犯科帳にも時々出てくる場所です。

江戸時代、この地は谷中の日暮里に風景が似ていることから「新日暮里(しんひぐらしのさと)」とも称され、浮世絵や『江戸名所図会』にもしばしば登場している。日暮里があまりに有名になったために、西方に新日暮里ができたのである。また、桜の名所として知られ、桜の季節には遠方からも花見客が集まり、酒屋や団子・田楽の店などが現れて賑わったという。ことだそうです。

江戸名所図会の塗り絵です。その様子がよく表れています。

また、鬼平犯科帳には鳩森八幡宮や仙寿院が時々登場します。「鬼平犯科帳   21-1「泣き男」(文庫版p12 新装版p12)より」

ともかく細川は、這うようにして千駄ヶ谷八幡宮の境内に入り人目を避けた後・・・・・・近くの仙寿院という寺の門前を流れる小川に架けられた橋を渡ったのはおぼえているが・・・・・

右下に小川と橋があります。

仙寿院 庭園桜

私は当日会場に向かうのに橋を渡らずに左手に行ったことになります。

古地図にある鉄砲場の方からくる道が仙寿院の下を貫通したことになるのでしょうか。

地下鉄の外苑前から会場に向かう途中で、水野左近と書かれているところの高徳寺や熊野社も訪れたことがあります。

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鳩森八幡宮

2016年05月20日 23時26分35秒 | 社寺仏閣

神宮前の近くの施設で会合があったので、千駄ヶ谷駅で降りて、向かいました。早めに出たので、途中で鳩森八幡宮を散策しました。古地図を見たら八幡宮は富士山が描かれていました。真ん中にある川は玉川上水から分かれてきたものです。上部に千駄ヶ谷町と書かれているあたりが千駄ヶ谷駅になります。

千駄ヶ谷のプールの脇を抜けてくると見えてきました。

★ランドマーク鳩森八幡宮神社のHPより『江戸名所図会』によると大昔、此の地の林の中にはめでたいことが起こる前兆の瑞雲(ずいうん)がたびたび現れ、ある日青空より白雲が降りてきたので不思議に思った村人が林の中に入っていくと、突然白鳩が数多、西に向かって飛び去った。この霊瑞(れいずい)に依り 神様が宿る小さな祠(ほこら)を営み鳩森『はとのもり』と名付けた。貞観2年(860年)、慈覚大師(円仁)が関東巡錫の途中、鳩森のご神体を求める村民の強い願いにより、山城国石清水(男山ともいう)八幡宮に宇佐八幡宮を遷座し給うた故事にのっとり、神功皇后・応神天皇の御尊像を作り添えて、正八幡宮とし尊敬し奉ったと伝えられている。

江戸名所図会の塗り絵版です。入ると左手に富士塚があったので、この図の縁の部分から入ったようです。

 

こちらからも富士山の登り口があります。

入るとすぐに大銀杏の木がありました。戦火を逃れ生き抜いたご神木とされています。

社殿に続く参道です。

右手に御堂のようなものがありました。

中には王将が飾ってありあす。千駄ヶ谷には将棋の対局が行われる将棋会館があるそうです。これは日本将棋連盟より奉納された高さ1.2mもある大駒です。そして神社と日本将棋連盟の協力のもと、その大駒を納める六角堂が建てられたとうことで、将棋の技術向上を目指す人の守護神として奉られています。

こちらが富士の登山口です。

鳩森八幡神社の名物といえば、この富士塚です。「千駄ヶ谷富士」とも呼ばれています。江戸時代の寛政元年(1789)に築造されたもので、土が円墳形に盛られています。富士塚とは、富士山を信仰の対象としている「富士浅間信仰」に基づいて作られたものです。

「富士浅間信仰」では富士山への登山が修行とされていましたが、江戸時代に富士山に登るということは現在と違ってとても実現困難なものでした。そこで江戸の人達は富士山を模したミニチュアを作って、そこに登ることで富士登山を疑似体験しようと考えました。その富士山のミニチュアが「富士塚」だということだそうです。

この富士塚は寛政元年(1789)に築造されたものと言われています。東京都の有形民俗文化財にも指定されていて、都内に残る富士塚のうち最も古いものとされています。大正12(1923)年の関東大震災の被害をうけ一部修復されてはいますが、ほぼ建造当時の状態で現在にその姿を残している貴重な富士塚だということです。

途中にある浅間神社(里宮)です。

こちらは富士五湖でも表現しているのでしょうか。

池のようなところにアヤメが咲いていました。

こちらが正面でしょうか。鳥居から続く参道の正面に本殿です。

熱心にお参りしていました。

こちらは神楽殿です。

甲賀稲荷神社です。

こちら側にも登山口があります。

社殿の裏に祠が

こちらは神明社です。

 

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霊巌寺・江戸六地蔵

2016年05月19日 23時22分03秒 | 社寺仏閣

リハビリを兼ねて自転車で門前仲町まで行き、帰りに清澄庭園に近くで、江戸六地蔵のある霊巖寺に行ってきました。

江戸六地蔵(えどろくじぞう)は、宝永から享保年間にかけて江戸市中の6箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像です。
江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706年)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立しました。

病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものだそうです。

江戸六地蔵一覧
第一番 品川寺 宝永5年(1708)品川区南品川3-5-17(東海道)

第二番 東禅寺 宝永7年(1710)台東区東浅草2-12-13(奥州街道)

第三番 太宗寺 正徳2年(1712)新宿区新宿2-9-2(甲州街道)

第四番 真性寺 正徳4年(1714)豊島区巣鴨3-21-21(中仙道)

第五番 霊巌寺 享保2年(1717)江東区白河1-3-32(水戸街道)

第六番 永代寺 享保5年(1720)江東区富岡1-15-1(千葉街道)

昨日見た東禅寺が3カ所目だったので、品川寺、太宗寺とこれで4カ所見ることができました。永代寺は廃寺になって地蔵尊もないようです。

霊巌寺の山門です。

左手に

松平定信の墓があることと銅造地蔵菩薩坐像の碑がありました。

右手にはこんな碑もあります。

本堂です。

江戸六地蔵の碑

江戸六地蔵の5番目と書いてあります。

奥に松平定信の墓がありました。

門は閉まっています。

★ランドマーク松平定信の墓松平定信(1758~1829)は8代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白川藩主となり白河楽翁を号していた。天明7年(1787)6月に老中となり寛政の改革を断行、寛政5年(1793)老中を辞している。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本、御家人などの借金救済)七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の建て直しを計った。
 また、朱子学者でもあり「花月草紙」「宇下の人言」「国本論」「修身録」などの著書もある。

上が定信の墓、下は、松平定信の夫人の墓です。

本堂の裏に墓地があり、霊巌寺の六地蔵がありました。

門前にある江東区の案内です。

★ランドマーク霊巌寺霊巌寺は寛永元年(1624年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建された。数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなった。

明暦3年(1657年)、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になったという。万治元年(1658年)に徳川幕府の火事対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転した。

霊巌寺には、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ、今治藩の松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在する。また、境内には江戸六地蔵の第五番が安置されている。

幕末江戸の7大火葬場(荼毘所)のひとつ、境内除地に火屋があり火葬執行の責任者が置かれていた。

古地図にある永代寺方面から寺の並んでいる通り(二つ目通り=清澄通り)を抜けて霊巌寺に来ました。

 

 

 

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東禅寺・玉姫稲荷神社

2016年05月18日 19時43分33秒 | 社寺仏閣

リハビリ病院の帰り、気持ちの良い五月晴れに誘われて、池波正太郎の小説に出てくる玉姫稲荷に行こうとおもい水神大橋を渡って白髭橋に向かいました。

スカイツリーがきれいに見えたので撮りました。

いつもながら地図を持たずに行くので、なかなか目的地に着きませんでした。

古地図で左上にある四角に囲まれた吉原の入り口大門まで行ってしまいました。

そこから戻って街中をうろうろしていたら大きな地蔵さんのあるお寺に出合いました。

東禅寺でした。古地図では千住大橋に向かう通りの途中に東セン寺と書いてあるところです。

地蔵さんは江戸の六地蔵の一つでした。

すでに

品川寺http://blog.goo.ne.jp/sa194520131207/e/e9c535aa1e305a03b802b7324196fb56

太宗寺http://blog.goo.ne.jp/sa194520131207/e/32a7c4515db063a189421b72cd297b91

にも偶然行って撮りました。

こちらの坐像はあんパン考案で有名な銀座木村屋総本店創業者の夫婦(木村安兵衛、ブン)の像です。

玉姫稲荷神社

あちこち迷いながらようやく玉姫稲荷に到着しました。古地図では中ほどにイナリと書かれている場所です。

鳥居の右には神社の碑が

左側には常夜灯がありました。

★ランドマーク玉姫稲荷神社:「社伝に天平宝宇四庚(七六〇)の創建とあり、江戸時代に至りて稲荷神の流行とともに神威現われ江戸庶民の信仰を得るが、享保年間(一七一六ー三六)に出版された『江戸砂子』に「標茅原玉姫稲荷のあたり、此社は山城国稲荷山のいなり移せしなり。王子村岸稲荷と神縁ありと云ひつたふ。」と記され、また新田義貞公と社号にまつわる故実もあわせて述べている。昭和二十年三月十日の大空襲により、一宇を残さず焼失。(新編武蔵風土記稿より)」

我々には「あしたのジョー」の方がわかりやすかも知れません。

本殿の前に

こんなものが立っていました。

江戸名所図会「妙亀明神社 浅茅が原 玉姫稲荷」より塗り絵 奥の森が玉姫いなりです。

こちらは口入稲荷です。

八神殿

ここに八つの神様が入っている?

ここから家に帰る途中で大きな地蔵さんに会いました。

お化け地蔵だそうです。

曹洞宗寺院の松吟寺は、寛永2年に総泉寺の庵室松吟庵として創建、前永平勅特賜大智恵光禅師円月江寂が中興開山したということだそうです。総泉寺は板橋区に移ってしまって、松吟寺が残ったようです。

それとここには古地図の浅ヂガ原の下に載っている総泉寺があったところのようです。

江戸名所図会で総泉寺と不動が描かれています。塗り絵にしたものです。手前が不動イン、奥が総泉寺です。

 

相変わらず「犬も歩けば棒にあたる」的に散策しています。

 

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待乳山聖天・今戸橋

2016年05月10日 13時59分59秒 | 社寺仏閣

今戸神社の近くに山谷堀(今戸橋)と待乳山があります。14年4月にも仕事の途中で待乳山聖天は訪れたことがあります。http://blog.goo.ne.jp/sa194520131207/e/5833535fd07f9811fa5e9cb136d25476

桜の咲いて、天気も良い日でした。今回はテントが出ていてしたの看板は見ることができませんでした。

雨が降りそうな天候でしたが、今戸橋跡を渡ってきました。

 

山谷堀は暗渠になっています。

ここから吉原に船で通ったということで、

1803年の古地図にこのようになっています。隅田川のちょうど中ごろの三角になっている金龍山と書かれているところが聖天さんです。上の四角に囲われているところが吉原になります。濃い黒線は堤のようです。向かい側は三囲稲荷(神社)になります

この場所は浮世絵の歌川広重(初代)にも数作品で描かれています。

歌川 広重(初代) 名所江戸百景 真乳山山谷堀夜景

歌川 広重(2代)  江戸名勝図会 真乳山

歌川 広重(2代) 東都三十六景 今戸橋真乳山

いづれも川向こうの向島側から見た風景になっています。

歌川 広重(初代) 東都名所 真土山之図

下の川(堀)北十間川になりますか。

栄松斎 長喜

こちらは浅草側から聖天さん越しに隅田川を見ています。

階段がたくさんあ りましたが手すりと杖でどうにか本堂まで行けました。

★ランドマーク待乳山聖天PHより「古い縁起によりますと、推古天皇3(595)年9月20日、突然この土地が小高く盛り上がり、そこへ金龍が舞い降りたと伝えられています。
 この不思議な降起は実は十一面観音菩薩の化身「大聖歓喜天」がご出現になるおめでたい先触れであったのです。それから6年後、天候不順に人々は悩まされていました。永い日照りが続き、人々を飢えと焦熱の地獄におとしいれました。そのとき大聖歓喜天がご出現になり、こうした人々を苦しみからお救いになられたそうです。
それ以来、民衆からの篤い尊信が集まり、平安時代になると天安元(857)年、慈覚大師が東国巡拝のおり、当山にこもって21日の間浴油修行をなされて国家安泰、庶民の生活安定を祈願し、自ら十一面観世音菩薩像を彫って奉安されたと伝えられています。そして、ここに当山の信仰の基礎が形成され、その後ますます民衆の尊信をあつめるに至りました。
 ことに江戸時代元禄華やかなりし頃には境内地、諸堂が整備されて今日の土台が完成されました。
 以来、関東大震災、東京大空襲などにも遭いましたが今日まで篤い尊信は続いています。」となっています。

階段の所の大根と巾着が描かれていましたが、大根と巾着は御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表しているということだそうです。

一段上がったところに「トーキー渡来記」と書いてある碑がありましたが読む気になりませんでしたが

自宅で調べて見たらこれをしっかり読んで表記している人がたくさんいました。こんなことが書いてあるようですが長いので最初だけ写しました。

リ・デ・フォーレスト博士は明治6年米国アイオワ州に生まれ無線電信の開拓者として三百有余の特許権を得ラジオの父と仰がる。大正12年更にトーキーを発明、紐育市に於けて上映世人を驚かせたり。大正13年故高峰譲吉博士令息エヴエン氏来朝の際、親しくその詳細を聴きて将来に着目す、翌年渡米、博士の好意により東洋におけるトーキーの製作および配給権を獲得したり、依て米人技師を帯同帰国。大正14年7月9日宮中に於天皇皇后両陛下の天覧に供し、各宮殿下の御覧を仰ぎ足る後一般の公開せり。トーキーの我国に招来されたる之を以て初めとす。(以下略です。)

その上はこの階段の

左側に

お地蔵さんがたくさいて、社がありました。

歓喜地蔵尊でした。

右側の観音様は出世観音です。

社務所の横の壁は築地塀だそうです。

塀越しにスカイツリーが見えます。

奥の本殿の右手には

宝篋印塔がありました。前回も撮っています。

雨水受け?大根が描かれています。

裏に回ると

糸塚です。

隅田川からの登りは天狗坂と呼ばれていたようです。

今は階段になっています。戸田茂睡の歌碑がありましたが、あまり知らない人なので写真を撮りませんでした。これは聖天さんのHPのものです。

調べてみると「戸田茂睡は江戸時代元禄期の歌人(1629 ~ 1706)です。渡辺監物忠の六男として駿府城内で生まれました。父の死後、伯父戸田政次の養子になります。名は馮(たのむ)、後に恭光(やすみつ)と改めます。茂右衛門、茂睡などと号します。一時期、三河岡崎藩本多家に仕えますが出家し、浅草寺近くに居を構えました。形骸化した伝統歌学への積極的批判者として知られます。代表作に江戸の最初の地誌である『紫の一本(ひともと)』のほか『御当代記』『梨本集』などがあります。」

ということで浅草公園内に墓があるようです。 墓石は、牛込萬昌院より発見され大正2年(1913)に浅草公園に移されたものです。自然石の土台、宝篋印塔の基壇、五輪塔の順にのせられています。五輪塔は茂睡自身が生前に自らの後世を供養した逆修塔です。

隅田川側の山の下には庭園がありました。

反対側には池波正太郎の碑がありました。

池波正太郎の脇には旧町名由来案内が立っていました。

 

 

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