ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

待乳山聖天・今戸橋

2016年05月10日 13時59分59秒 | 社寺仏閣

今戸神社の近くに山谷堀(今戸橋)と待乳山があります。14年4月にも仕事の途中で待乳山聖天は訪れたことがあります。http://blog.goo.ne.jp/sa194520131207/e/5833535fd07f9811fa5e9cb136d25476

桜の咲いて、天気も良い日でした。今回はテントが出ていてしたの看板は見ることができませんでした。

雨が降りそうな天候でしたが、今戸橋跡を渡ってきました。

 

山谷堀は暗渠になっています。

ここから吉原に船で通ったということで、

1803年の古地図にこのようになっています。隅田川のちょうど中ごろの三角になっている金龍山と書かれているところが聖天さんです。上の四角に囲われているところが吉原になります。濃い黒線は堤のようです。向かい側は三囲稲荷(神社)になります

この場所は浮世絵の歌川広重(初代)にも数作品で描かれています。

歌川 広重(初代) 名所江戸百景 真乳山山谷堀夜景

歌川 広重(2代)  江戸名勝図会 真乳山

歌川 広重(2代) 東都三十六景 今戸橋真乳山

いづれも川向こうの向島側から見た風景になっています。

歌川 広重(初代) 東都名所 真土山之図

下の川(堀)北十間川になりますか。

栄松斎 長喜

こちらは浅草側から聖天さん越しに隅田川を見ています。

階段がたくさんあ りましたが手すりと杖でどうにか本堂まで行けました。

★ランドマーク待乳山聖天PHより「古い縁起によりますと、推古天皇3(595)年9月20日、突然この土地が小高く盛り上がり、そこへ金龍が舞い降りたと伝えられています。
 この不思議な降起は実は十一面観音菩薩の化身「大聖歓喜天」がご出現になるおめでたい先触れであったのです。それから6年後、天候不順に人々は悩まされていました。永い日照りが続き、人々を飢えと焦熱の地獄におとしいれました。そのとき大聖歓喜天がご出現になり、こうした人々を苦しみからお救いになられたそうです。
それ以来、民衆からの篤い尊信が集まり、平安時代になると天安元(857)年、慈覚大師が東国巡拝のおり、当山にこもって21日の間浴油修行をなされて国家安泰、庶民の生活安定を祈願し、自ら十一面観世音菩薩像を彫って奉安されたと伝えられています。そして、ここに当山の信仰の基礎が形成され、その後ますます民衆の尊信をあつめるに至りました。
 ことに江戸時代元禄華やかなりし頃には境内地、諸堂が整備されて今日の土台が完成されました。
 以来、関東大震災、東京大空襲などにも遭いましたが今日まで篤い尊信は続いています。」となっています。

階段の所の大根と巾着が描かれていましたが、大根と巾着は御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表しているということだそうです。

一段上がったところに「トーキー渡来記」と書いてある碑がありましたが読む気になりませんでしたが

自宅で調べて見たらこれをしっかり読んで表記している人がたくさんいました。こんなことが書いてあるようですが長いので最初だけ写しました。

リ・デ・フォーレスト博士は明治6年米国アイオワ州に生まれ無線電信の開拓者として三百有余の特許権を得ラジオの父と仰がる。大正12年更にトーキーを発明、紐育市に於けて上映世人を驚かせたり。大正13年故高峰譲吉博士令息エヴエン氏来朝の際、親しくその詳細を聴きて将来に着目す、翌年渡米、博士の好意により東洋におけるトーキーの製作および配給権を獲得したり、依て米人技師を帯同帰国。大正14年7月9日宮中に於天皇皇后両陛下の天覧に供し、各宮殿下の御覧を仰ぎ足る後一般の公開せり。トーキーの我国に招来されたる之を以て初めとす。(以下略です。)

その上はこの階段の

左側に

お地蔵さんがたくさいて、社がありました。

歓喜地蔵尊でした。

右側の観音様は出世観音です。

社務所の横の壁は築地塀だそうです。

塀越しにスカイツリーが見えます。

奥の本殿の右手には

宝篋印塔がありました。前回も撮っています。

雨水受け?大根が描かれています。

裏に回ると

糸塚です。

隅田川からの登りは天狗坂と呼ばれていたようです。

今は階段になっています。戸田茂睡の歌碑がありましたが、あまり知らない人なので写真を撮りませんでした。これは聖天さんのHPのものです。

調べてみると「戸田茂睡は江戸時代元禄期の歌人(1629 ~ 1706)です。渡辺監物忠の六男として駿府城内で生まれました。父の死後、伯父戸田政次の養子になります。名は馮(たのむ)、後に恭光(やすみつ)と改めます。茂右衛門、茂睡などと号します。一時期、三河岡崎藩本多家に仕えますが出家し、浅草寺近くに居を構えました。形骸化した伝統歌学への積極的批判者として知られます。代表作に江戸の最初の地誌である『紫の一本(ひともと)』のほか『御当代記』『梨本集』などがあります。」

ということで浅草公園内に墓があるようです。 墓石は、牛込萬昌院より発見され大正2年(1913)に浅草公園に移されたものです。自然石の土台、宝篋印塔の基壇、五輪塔の順にのせられています。五輪塔は茂睡自身が生前に自らの後世を供養した逆修塔です。

隅田川側の山の下には庭園がありました。

反対側には池波正太郎の碑がありました。

池波正太郎の脇には旧町名由来案内が立っていました。

 

 

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