ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

水天宮(東京都中央区)

2016年06月14日 23時09分28秒 | 社寺仏閣

二日間あまり歩かなかったので、少し歩こうと思い自転車で中央区の水天宮に行きました。新大橋を渡って行ったので横の出入り口に着きました。

早速階段でと思いましたが、杖と手すりを頼りに登りました。

初めてきたので、以前がどんな本殿だったのかわかりませんが、今のはこの2016年4月に新築されたもののようです。

旧澱の写真があったので、お借りしました。こんなものだったようです。

★ランドマーク水天宮(東京都中央区):水天宮(すいてんぐう)は、東京都中央区日本橋蛎殻町にある神社で福岡県・久留米市にある久留米水天宮の分社だということです。

久留米の水天宮は久留米藩歴代藩主(有馬家)により崇敬されていたが、文政元年(1818年)9月、9代藩主有馬頼徳が江戸・三田の久留米藩江戸上屋敷に分霊を勧請した。これが江戸の水天宮の始まりである。藩邸内にあったため一般人の参拝が難しかったが、江戸でも信仰者の多い水天宮への一般参拝の許可を求める伺書を幕府へ提出、幕府のこうした事例は関与しないとの見解を得た上で、同年から毎月5の日に一般開放された。その人気ぶりは「情け有馬の水天宮」という地口も生まれたほどであった。有馬家の会計記録には「水天宮金」という賽銭や奉納物、お札などの販売物の売上項目があり、その金額は安政年間の記録で年間2000両に上り、財政難であえぐ久留米藩にとって貴重な副収入だった。

明治4年(1871年)、有馬家屋敷が移転することになり、それとともに赤坂に遷座したが、翌明治5年(1872年)、有馬家中屋敷のあった現在の日本橋蛎殻町二丁目に移転した。

どんな御利益が?江戸時代より安産・子授けの神として人々から厚い信仰を集め、妊婦や子供を授かりたい夫婦あるいは無事出産できた夫婦などが、安産や子授かりの願掛けやお礼参りなどで訪れる遠いうことらしいです。

若い御夫婦や女性が多く見らた理由がわかりました。

これは安産子育河童だそうです。足下と胸、肩に赤ちゃん河童がしがみついている姿が印象的な、仲睦まじい河童の親子像ということです。

 
犬の親子像がありました。
子宝いぬと書いてありました。
愛らしい子犬を見つめる母犬からは情愛を表しているということです。周囲を取り巻く十二支のうち自分の干支を撫でると安産、子授け、無事成長など様々なご利益があるといわれております。
 
ほかとはちょっと違う狛犬がありました。
水天宮のHPには「一方は口を開けて前足で玉を守り、もう一方は口を閉じ子犬を守る姿が印象的な一対の狛犬です。其々、吐く息と吸う息「阿吽(あうん)」を表し、魔除けとしての意味合いもございます。※ブリヂストンの創立者である石橋正二郎氏によるご奉納。」とありました。像の後ろに石橋正二郎と書かれていたので、どこかで聞いた名前でしたが思い出せませんでした。
普段のお寺さんなどには金剛力士像があり阿吽の姿をしているのです、狛犬がそれも兼ねているようです。
そのためが入り口階段の両側(ガラスの所)に人形が飾ってありました。
こちらは弁財天
 
今年の四月の5日新オープンの幟がははためいていました。
 
清澄通り側の入り口には
歩道には
御神燈が建っています。
ここから清澄通りを渡って江東区に戻ります。
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理性院(柳原寺)・柳原稲荷神社

2016年06月08日 22時52分11秒 | 社寺仏閣

リハビリを受けて体が軽くなったので、前から行きたかった牛田薬師堂ということで、柳原の理性院に向かいました。

 

足立区柳原にありました。

このお寺も真言宗ですが柳原の名がついているように柳原村の唯一の寺院でした。もともと村の北のはずれにあったのですが荒川放水路を掘る時その敷地は全て河川敷とされてしまいました。そのため2キロ南の現在地へ移転したそうです。

左側に墓地があります。

本堂です。

理性院は、南葛八十八ヶ所霊場80番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場61番札所だそうです。

本堂の右手に太師堂と

水子地蔵尊がありました。

よくよく調べて見ると牛田薬師堂は理性院ではなくて西光院のようです。いずれにしても牛田薬師堂のあったところは荒川放水路になってしまったようです。

しかたなく、寺の前の案内を見て近くにある柳原稲荷神社に向かいました。昔からの街並みで狭い道が続いています。

いきなり広い空き地がありました。

本堂

稲荷神社の駐車場に使われていました。

★ランドマーク柳原稲荷神社(やなぎはらいなりじんじゃ):当社の創建は詳らかではないが、『葛西誌』に「慶長4年(1599)の鎮守と云」とある。しかし、柳原村は、元禄年間に葛飾郡小谷野柳原村より分村独立しているので、それ以降に村の鎮守として祀られたものであろう。江戸期にあっては理性院持ちであった。祭神は、宇迦御魂神。明治12年の東京府神社明細簿によると、本社殿、拝殿、境内235坪(官有地)とあり、境内社として、高木神社(産霊神)と日枝神社(大山咋神・東照宮)の2社があり、氏子は35戸と記されている。

高木神社は江戸期の第六天社で、神仏混淆を禁止された明治以降に改称した。また明治44年に日枝神社は高木神社に合祀された。昭和8年、柳原富士講により浅間神社が勧請され、富士塚が築かれた。これは、昭和59年度区登録有形民族文化財である。講中により七富士巡りなどが行われている。また、当社に奉納される柳原箕輪囃子は、江戸期より伝わる民族芸能で、昭和57年度区登録無形民族文化財である。  平成2年10月   東京都足立区教育委員会

ここにも富士講の浅間神社がありました。

富士浅間神社

いろいろなところに富士塚があります。富士山信仰はすごかったのですね。

 

昭和8年(1933年)に富士北壁から貨車で運搬した溶岩や丸石を配して富士塚が築造されました。ということだそうです。

神楽殿

高木神社

第六天社だそうです。

第六天神社を調べてみました。関東地方(旧武蔵国)を中心としてその周辺に存在する神社で、元々は神仏習合時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代における第六代のオモダル・アヤカシコネ(面足命・惶根命)に祭神を変更した。

ということだそうですが調べてもあまりよくわかりません。

柳原箕輪囃子の碑がありました。

 

 

 

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荒川放水路の犠牲、白髭神社と木下川薬師

2016年06月03日 10時25分35秒 | 社寺仏閣

西光寺の散策を終え、一度行ったことのある木下川薬師に向かいました。途中でこんな標札があり、寄り道しました。

小学校の校庭の隣に社がありました。

鳥居です。

こちらは神楽殿

社殿

古い建物でなかなか趣がありました。

裏にはこんな碑もありました。

狛犬も欠けていあした。

神楽殿のところに黒猫さんがいたので、写真を撮ろうしたら隣の駐車場に逃げられてしました。

★ランドマーク王子白髭神社:『東京府志料』上木下川村の条に、「王子神社 社地三十六坪」とのみある。社伝によれば、清和天皇の第七皇子貞辰親王が東国遊行の途次、元慶元年 (九三八)この地に薨じた。たまたま浄光寺に留錫中の比叡山慈覚大師は良本阿闍梨に命じて、親王の遺骸を葬り、王子権現として慰霊を行って以来、浄光寺がその古塚を管理したという。記録類は明治二十九年の洪水で流失したが、もと上木下川村にあり、その地が荒川放水路の敷地となり、大正八年、浄光寺とともに現在地に移った。
葛飾区神社調査報告 (葛飾区教育委員会) より

大正8年にこの神社と一緒に移転させられた浄光寺(木下川薬師)がすぐそばにあります。

この地図は荒川放水路ができる前のものです。西光寺と木下川薬師が載っています。

昔の荒川(隅田川)は江戸時代に頻繁に洪水が発生していましたが、明治時代になっても洪水が頻発しました。

明治43年の大雨で都内が甚大な洪水被害を契機として、荒川の洪水対応能力を向上させるために荒川放水路の基本計画が策定されました。

 綾瀬川に沿って木下川薬師のところを荒川放水路が掘られました。地図では読み取れませんが白髭神社も木下川薬師の近くにあったようです。今は綾瀬川と中川交差するところにあります。荒川放水路の工事中には、風水害の発生によって工事の予定が遅れることも少なくありませんでした。また、大正12年(1923) には関東大震災が発生して工事に影響を与えました。荒川放水路事業は明治44年(1911) に着手され昭和5年(1930)に完成しました。

荒川放水路の開削工事は、必要な用地も広大なもので、工事で移転を余儀なくされた住民は1,300世帯にのぼりました。また、移転対象地域には、民家や田畑をはじめ、鉄道や寺社も含まれた大規模なものでした。た。。

明治の地図では薬師道も左右に延びています。こんな道しるべがあったようです。

浄光寺山門

脇に高札が

★ランドマーク青龍山浄光寺浄光寺の歴史は平安時代の嘉祥二年(849)にさかのぼりる。延暦七年(788)に伝教大師が比叡山に一乗止観院(延暦寺)を開き、自ら彫刻された薬師如来像を安置すると、さらに東国教化を願い再び薬師如来像を彫られました。 途中まで彫り進めたところ神霊のお告げがあり、下野国に帰国する大慈寺の廣智菩薩に託されました。廣智菩薩は下総国木下川で唱翁に出会い請われるままに薬師像を唱翁の草庵に安置しました。その後浅草寺に滞在していた慈覚大師円仁はこの話を知り貞観二年(860)、弟子の慶寛に命じてその草庵に一寺を建立し浄光寺と名づけました。以来当山は木下川薬師として七堂伽藍を備え人々の信仰を集めることになりました。それから中世の戦乱の中でしばしば荒廃しますが、そのつど復興され近世を迎えます。

江戸時代の薬師寺

キャプション『江戸名所記』に、「いにしへより毎月八日ならびに元三の朝(あした)にして、かならず本尊の御前に竜灯のあがるを、 はいする人少なからず」とあり。されどこのこと、いまは絶えたるにや、土人もしらずといへり。

江戸時代に入り徳川家康公は当山に薬師如来供養料として朱印地を寄進され、当山は浅草寺の末寺筆頭の寺格を保つことになりました。家康公亡き後、江戸城紅葉山の霊屋の別当職に浄光寺が任ぜられ将軍家がたびたび当山へ訪れました。享保五年(1720)には将軍家御鷹狩りの御膳所ともなり、鎮護国家の道場として長く将軍家の祈願所とされました。江戸時代が最も花開いたとされる文化文政(1804~1830)のころになると寺運はますます隆昌し、寺域も広く、本堂、東照宮、観音堂、鐘楼、仁王門、大客殿、講堂、太神宮殿、山王権現、弁天堂、白髭社などの諸堂宇が甍を並べました。幕臣勝海舟も浄光寺を愛した一人で海舟の書簡なども当山に残されています。また明治十二年(1879)七月、西郷隆盛(南洲)の死を悼んだ海舟が南洲の留魂祠、留魂祠の碑を浄光寺境内に造立しましたが、現在は、洗足池公園に移転されています。

伝教大師童形御尊像と書いてあります。

キャプション木下薬師如来の霊像は延暦年間伝教大師叡山に在せし頃、東国化益のために彫造せられやや半ばなる頃一夜この本尊の霊示あるをもって、 つひにその像腰を刻さずして錦繍をもてこれを纏い、下野国大慈寺の広智といへる沙門の東国に帰らんとするに付属ありしかば、 本尊有縁の地なるをもって木下川に安置なし奉りしこと浄光寺縁起に詳らかなり。

阿形吽形で両方合わせて阿吽(あうん)ということですか

門を入った右手にある庚申塔です。青面金剛と、見ざる、聞かざる、言わざるの謹慎態度を示す三猿が刻されています。庚申の信仰は、 庚申の夜は眠らずに言行を慎み、健康長寿を祈念するという信仰です。

これは馬頭観音明治38年と書かれています。

水屋

大イチョウ

薬師堂・釈迦殿

太子堂

 不動明王像

大正8年に移転してきて建てられたようです。大正八年(1919)荒川放水路の開削工事のため浄光寺は南東600メートルの現在地に移転しました。釈迦堂の再建、仁王尊・仁王門の修復再建を経て平成十年には新薬師堂を再建し、明治維新より130年振りの秘仏本尊薬師如来の開帳大法会を行いました。その後12年ごとに秘仏本尊薬師如来の開帳法会を行うというとです。

綾瀬川と中川が交差しているところの堤防から中川の上流を見ています。

こちらが綾瀬川です。

下流を見ています。

綾瀬川と荒川放水路に架かる木下川橋です。

手前が綾瀬川先が荒川放水路です。

橋を渡って少し下流にこんな社がありました。

白髭神社と書いてあります。

社殿です。

由緒や経緯が書いた石碑がありました。

★ランドマーク東墨田白髭神社

延暦七年(七八八)伝教大師半体作の薬師像を下野国の広智という僧が背負って武州にきたところ中川の辺にて不思議な老翁にあった。翁は名を唱翁といい、願わくは像を草庵に安置すべしといわれ、像を草庵に安置して広智は本国に帰った。その後、慈覚大師が東国に下った時に不思議な告げにより、その草庵を修理じて一寺とした。さきに出た唱翁とは白髭明神であったといわれる。

貞観二年(八〇六)に堂宇が完成した時、薬師の守神として祀った。のちに霊験あらたかのために、近郷の人たちも信仰して下木下川村の鎮守となった。現在の荒川放水路中央に鎮座していたが、荒川改修工事のため大正四年現在地に移転鎮座した。(東京都神社名鑑より)

荒川放水路の真ん中にあったものが王子白髭神社と東墨田の白髭神社に分割されたようです。

 

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眞性寺・巣鴨

2016年05月31日 22時41分59秒 | 社寺仏閣

自宅ではあまり歩く機会がないので、リハビリを兼ねて江戸六地蔵のひとつ巣鴨の眞性寺に出かけて見ました。

巣鴨駅から見て、とげぬき地蔵の商店街の入り口の左手にあります。とげぬき地蔵には3回ほど来て、ここにお寺さんがあるいうことはわかっていたのですが、散策したことはありませんでした。

正面に大きな座地蔵が見えます。

入った右手に地蔵の案内看板が出ています。

江戸六地蔵尊の一つとして知られるこのお寺は、真言宗豊山派醫王山東光院眞性寺と申します。起立年代不詳。元和元年(1615年)境内には松尾芭蕉の句の石碑があります。大きな傘をかぶり、杖を持つお地蔵様。江戸の六街道の出入口に置かれ旅の安全を見守ってくれました。 (巣鴨は中山道の出入り口でした)関八州江戸古地図、江戸絵図ほか多くの文献から眞性寺界隈は交通の要として賑わっておりましたことが伝わっております。(巣鴨地蔵通り商店街のHPより)

江戸名所図会より、下の通りが中山道で左手の門から入ったところの左側の盛土の上に乗っているのが地蔵さんでしょうか。

中山道はタネ屋街道という看板が入り口の左手のところにかかっていました。

真性寺の由緒書きです。

★ランドマーク眞性寺:江戸六地蔵の一つと知られる醫王山東光院眞性寺は真言宗豊山派に属しており、奈良県の桜井市初瀬の総本山長谷寺の末寺です。開基(寺の始まり)は不明分ですが、聖武天皇(在位:724年2月4日 - 749年7月2日)勅願。行基菩薩が開いたものと伝えられています。

_「地誌御調査上」(文久9年1826年)によれば、今から380年前、元和元年(1615年)に祐遍法印により中興開基(一度哀運にあったものを再建)が行われたのが記録として残っています。時代的には大阪夏の陣で徳川氏が勝利し天下を掌握した年です。
 同書によれば、当寺は元禄の頃から田端東覚寺の末寺であったのですが、正徳元年(1711年)にはそこを離れ、京都御室御所仁和寺の末寺になったといいます。そのご明治33年に至って仁和寺を離れ、真言宗豊山派総本山長谷寺の末寺になって今に至ります。(巣鴨地蔵通り商店街HPより)

 

江戸六地蔵 - 旅の無事を祈るお守り役 -

 境内の左手に、高さ2m68cm、蓮花台を含めると3m45cmの大きなお地蔵様が、蓮座に趺座しています。これを称して江戸六地蔵尊といい、江戸御府内に6箇所造立されている地蔵尊の一つです。
 眞性寺の地蔵尊は江戸深川に住んでいられた地蔵坊正元という方が願主となって、宝永3年(1706年)造立の願を発してから14年間の間に、大凡同型の地蔵尊菩薩像6体を造立された中の一体で、4番目に作られた唐銅製の座像です。眞性寺の地蔵尊が完成したのは正徳4年9月(1714年)です。

 その他の六地蔵は、東海道の尊像として品川寺(第一番)、奥州街道沿いの東禅寺(第二番)、甲州街道沿いの江戸三大閻魔の寺として有名な太宗寺(第三番)、水戸街道沿いの霊巌寺(第五番)にあります。第六寺は廃寺となり消滅した千葉街道沿いの永代寺にありました。

地蔵さんの脇にも

子安地蔵だそうです。

どちらも線香で煙っていました。

芭蕉の句碑がありました。

脇の門です。本堂です。

社務所の前にこんな像がありました。

弘法大師の像でしょうか。

社務所の前から見た地蔵さんです。

地蔵通りを抜けると、徒歩10分庚申塚があると書いてありましたが、今の足では少し無理と思いあきらめて帰ってきました。

昔は庚申塚の所は賑わっていたようです。江戸名所図会より

下の古地図で左手の茶屋と書いてあるところです。今は都電が通っているので、そのうち散策しようと思っています。

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素盞雄神社・熊野神社、荒川区

2016年05月30日 10時58分10秒 | 社寺仏閣

以前東京のお祭りの名所ということで、わざわざ訪ねましたが、今回は千住大橋を渡ると橋の袂にある素戔雄神社に偶然出合いました。その前に千住大橋を降りで来るとこんな標識がありました。

熊野神社門前に材木問屋があったと書いてあり、鳥居が見えたので右手の坂を下りました。

鳥居の前は施錠してあり中には入れませんでした。

仕方なくアップで撮ってみました。

★ランドマーク熊野神社創建は永承五年(一〇五〇)、源義家の勧請によると伝えられる。
大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は当社に成就を祈願し、文禄三年(一五九四)橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行なった。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった。
また、このあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並んで川岸とよばれ、陸路奥州道中と交差して川越夜舟が行きかい、秩父・川越からの物資の集散地として賑わった。(荒川区教育委員会掲示より)

古地図を見ても熊野神社がよくわかりませんでしたが、天王社の川寄りにクマノと書いてあるところのようです。千住宿から橋を渡ってきたことになります。材木問屋があったという隅田川とクマノ神社の間を通って左に折れるとこんな建物がありました。中には橋本左内像がありました。

ここの脇に自転車を止めて先に行くと鳥居がありました。古地図のアキ地と書かれているところから神社に入ってみました。

左手に神楽殿がありました。まだ、前に来たところとは気づきませんでしたが、

この赤い社で思い出しました。この前はこの日光街道側から入ったので、風景が違って見えました。

中に入っていろいろと思い出しました。

★ランドマーク素盞雄神社区内で最も広い地域(町屋地区・南千住地区・三河島地区)の61カ町に氏子を持つ神社です。

 この素盞雄神社のある千住は、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅へ出発した地点として知られ、「奥の細道」には「千じゅと云所にて船をあがれば前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」と記されています。 この時芭蕉が詠んだ「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の矢立初めの句碑(松尾芭蕉の碑)が境内にあります。

 また、3年に一度の大祭で2日間かけて氏子域を渡御する二天棒の千貫神輿は、左右に振りながら担ぐ神輿振り姿が圧巻です。

祭りの準備をしていましたが、今年の天王祭は6月2日-4日のようです。例大祭です。

江戸名所図会では小塚原天王宮と書かれています。

この絵の奥から入って神楽殿、本殿、正面にある鳥居はこちらになります。鳥居から見て右手に塚があるのが富士塚になります。

こちらは瑞鉱石

浅間神社となっています。裏側日光街道から入ったところに石が置いてあります。

塚の向かいには庚申塔があります。

古地図では右側の大橋に通じる日光街道から入ると

突き当り奥にイチョウの大木あります。

イチョウの木の周りに

千住大橋と芭蕉が旅立つところ様子が書かれています。

こちらは南詰になります。

こんなふうに書かれているようです。

境内のアジサイはまだ少ししか咲いていませんでした。

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