ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

妙見山別院

2016年04月25日 22時30分56秒 | 社寺仏閣

リハビリを兼ねて自転車で近場を散策してみました。墨田区側に渡って、本所の北辰妙見山に寄ってみました。

真冬に修行僧の水行が行われるところとして報道されます。何故?!「幼少の勝海舟が犬に噛まれ重傷となった折、父小吉はここで水垢離をし病気平癒を願ったことから、それが今に受け継がれ、毎年2月15日に修行僧による水行が行われます。」とのことです。

★ランドマーク墨田区の能勢妙見山別院能勢妙見山の唯一の東京別院で、能勢妙見山の東京別院は正式名称を「妙見山別院」というそうです。能勢頼直の代に江戸の下町本所に下屋敷を賜ったため、安永3(1774)年屋敷内に堂宇を建立し妙見大菩薩のご分体をお祀りしたのが始まりだそうです。

こちらは勝海舟もお参りに来た寺院のようです。胸像がありました。

お寺のHPのよると「妙見山別院は親子鷹でおなじみの勝小吉と勝海舟親子の熱烈な信仰を得ていたことで有名です。そのため、山内には勝ゆかりの品が多く所蔵されておりました。その多くは関東大震災と東京大空襲の二度の災禍で焼失してしまいましたが、勝の筆による掛け軸や写真などは今も現存しております。境内には勝海舟翁を偲んで、地元有志の建てた胸像もあります。」とありました。

本山は大阪府と兵庫県の県境にあるようです。 

能勢妙見山本山は「北極星信仰の聖地、日蓮宗霊場「能勢妙見山」は北極星の神様である妙見大菩薩をお祀りし、源氏を祖とする能勢氏ゆかりの寺院です。北極星は人の運命を司る星々の王と言われ、星の動きを支配し運気を好転させて下さることから開運の神様として知られています。」ということらしいです。

本堂

狛犬

こちらはお稲荷さん。

鷗稲荷

お稲荷さんは神田佐久間町の上屋敷にあったものが、明治の初めにこちらに遷座されたのだそうです。

水神

いずれも能勢家由来のものらしいです。

花が印象的でした。

壺の花はどうなっているのかわかりませんでした。

寺院ですが

お参りするといろいろとご利益があるようです。

 

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正覚寺・鬼子母神(中目黒)

2015年11月11日 21時42分45秒 | 社寺仏閣

目黒区の保健所が開催した特定給食衛生講習会でノロウイルス予防を中心とした話をさせていただきました。退院後初めての講習会で足元もまだ不完全ですが、2時間ほぼ立ったままで話させていただきました。会場は目黒区役所の大会議室でしたので、少し早めに出かけて周辺を散策しました。駒沢通りの面して正覚寺があったので寄ってみました。11月7日になくなったシグママコトさんの通夜があるようです。山門から中に入ってみました。女性の像がありました。昭和9年に建てた三沢初子の像です。

山手通り側に由緒書きがありました。

★ランドマーク正覚寺実相山正覚寺は、元和5年(1619)に日栄上人によって開かれた日蓮宗の寺です。初めは碑文谷法華寺(現、円融寺)の末寺でしたが、元禄の頃、不受不施問題の影響を受けて身延山久遠寺末になりました。
仙台の伊達家との関係が深く、4代藩主綱村の生母である三沢初子が本寺住職4世日猷、5世日登両上人に深く帰依し、客堂や庫裡等は初子の邸宅が寄進されて建てられたといわれています。初子は浄瑠璃や歌舞伎で有名な「伊達騒動」の登場人物「千代萩の政岡」のモデルともいわれる人物です。また、綱村も生母初子の菩提を弔うため当寺へ特別の保護をしたといい、現在も伊達家の紋の入った建具などが残されています。
なお、鬼子母神堂には伝教大師作と伝えられている鬼子母神像が、祖師堂には11代将軍徳川家斉が江戸城中で深く帰依していたという日蓮聖人木像が安置されています。
墓地には三沢初子の墓(都指定文化財)があり、境内には6代目尾上梅幸の弟子尾上梅朝が演じた先代萩の政岡を元に、昭和9年(1934)に建てられた初子の銅像があります。(目黒区教育委員会掲示より)。本堂

こちらは

鬼子母神堂のようです。古地図にも正覚寺と鬼子母神と描かれています。正覚寺と祐天寺の間を通っている道は現在目黒通りとなっています。江戸名所図会より

鬼編犯科帳などでは目黒の不動尊が時々登場します。一度は訪れて見ようと思っています。

入り口のところに碑が建っています。

開運鬼子母善神と書かれています。 鬼子母神の説話の中で特に有名なものが、「鬼子母はもとは邪神でインドの王舎城の町にきては手当たり次第に人間の幼児をさらってきては、自分の可愛い子供達に人間の子供達を食べさせようとしていたのです。
 人々がこれを憂えてお釈迦様に救いを求めたので、お釈迦様は人々の悲しみを憐れんで彼女の愛子賓伽羅(びんがら)を鉢の底に隠してしまわれた。鬼子母は七日間もの時間、地獄の世界から仏様の世界まで隈無く探し求めましたが愛子賓伽羅を見つけることができず、ついにお釈迦様のもとに来たって、子供の行方を尋ねました。
 お釈迦様は鬼子母の懇願に答えて、“おまえは万子があるのにただ一子を失って憂悲苦悩している。ところが世間の人々は一子、あるいは三子五子であるのに、しかもおまえはその子供を殺したのではないか”とその悪行を厳しく戒められたのです。
 鬼子母はやっと自らの悪事の罪を悟り、賓伽羅が戻れば二度と人の子供を殺さないと悔いたのでした。そこでお釈迦様は鬼子母に鉢の下の賓伽羅を見せしめました。ところが鬼子母がどのような神通力を用いても子を取りだすことができません。鬼子母はお釈迦様ににすがって賓伽羅を返して下さい願いました。
 そこでお釈迦様は、『三帰五戒(さんきごかい)』という教えを守り、常に守る事を約束させました。鬼子母はお釈迦様に従い、三帰五戒の教えを受けて、それからは困っている人を助け、仏の道を説き弘める人を守護する誓いを立てられ大善神となりました。」というものだそうです。

こちらは布袋さん。鬼子母神堂の脇に建っていました。

お稲荷さんとお地蔵さんです。mukssi

昔、明治の頃はこの辺りは多くの牧場があったようで、こんな標識がありました。どれが供養塔かわからなかったのですがどうもこれのようです。

駒沢通りの山門の脇の石碑

区役所に行くので駒沢通りを昇っていきました。少し時間があったのと、昼食場所を探しながら、ほぼ坂の上まで歩いてしましました。坂を少し下ったところにレストランがあったので入ってみました。魚定食がなくなったということでビーフシチューを注文しました。注文してから1800円ということで財布の中身を調べてしまいました。よくよく見ると11月9日開店したばかりでした。

サラダは小さい皿に葉物が載っておりドレッシングも塩辛く食べにくかったです。出てきたビーフシチューは

味はまずますだったのですが、肉が半分以上焦げ付いていました。ドレッシングが塩辛いことや焦げ付いていることを伝えようと思いましたが、食べに来ることもないかと思い、お金を払ってそのままごちそうさまを言って店を出ました。コーヒーは付きましたが、スープも欲しかったですね。後から入った女性2人もビーフシチューでしたので、目黒あたりでは昼食に1500円以上も使うのかと下町の私は思ったところです。

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回向院

2015年10月12日 20時09分28秒 | 社寺仏閣

リハビリを兼ねて近郊を散策しています。保健所の時代に愛猫が亡くなったのだけれど、どこで葬っていただけるのかという電話がたびたびあり両国の回向院でやってもらえますと答えていました。何度か訪れていますが、詳しくは散策していませんでした。

今回じっくりみることができました。由緒書きです。

江戸切絵図

江戸名所図会に描かれている回向院です。

こちらは回向院御開帳の図です。大人の塗り絵より。墨田区で作ったものもありました。

★ランドマーク回向院お寺さんのHPでは「回向院は、今からおよそ360年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。

この起こりこそが「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」として現在までも守られてきた当院の理念です。」とありました。ということで動物の慰霊に関する碑がたくさんありました。猫の供養塔です。これは小鳥の碑奥には古い供養塔がありました。

参道を入ってすぐの左手に「力塚」がありました。さすが大相撲の発祥の地と思いました。

「力塚の碑は、昭和十一年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲と当院とのつながりを示す象徴になっています。」

のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。

横難横死(おうなんおうし)とは、予期しない災難や非業の死をとげること、だそうです。

これは関東大震災の横死の碑

海難者の碑

 有名人の墓として武本義太夫の他
 
ここで最も有名なのは鼠小僧の墓です。
墓石の前にある石を削って持っている金回りがよくなるとか持病が治るといわれてます。

こちらは水子塚

1793年(寛政5年)、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は、水子供養の発祥とされている。2月第一土曜日14時から水子塚の前にて水子総供養を、その他は隔月毎に本堂にて水子供養を行っているそうです。

江戸市民に知られていたこの矩形の板石の塔は、正面に小作りながら端正なお顔の地蔵菩薩坐像が浮彫りされ、その下に「水子塚」という大字が刻まれています。

塩地蔵「右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから、「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。

腐食がひどく年代など判明しませんが古いもので、「東都歳時記」所載の江戸東方四十八ヶ所地蔵尊参りには、その四十二番目として数えられています。」

帰りがけに和服を着たご婦人がたくさん集まっていました。

ここから両国橋に向かいました。

 

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逗子大師・延命寺

2014年11月04日 22時14分30秒 | 社寺仏閣

逗子の施設を訪問しました。3回目になります。なかなか周辺を散策できませんでしたが、今回は近くの延命寺に寄ってみました。荷物をロッカーにと思って探しましたが、そのまま重い荷物を持って歩いてしまいました。

JRの逗子駅から裏道を通って行きました。

京急と川の間の細い道を歩きました。たどり着いたところ、脇に逗子の地名発祥の地の碑はありました。

表からは門と本堂

延命寺は奈良時代、天平年中 行基菩薩が開基せられ御自作の延命地蔵菩薩像を安置し本尊とされたのが由来です。平安時代に入り、弘法大師(空海)が下野の国、二荒山(現在の栃木県)に登山の折、この地に立寄り、当山の地蔵尊を安置する厨子を設けたそうです。それ以来、住民尊信の的となって、いつしかこの地一帯を「厨子」と呼ぶようになり、「逗子」という地名の起源となったそうです。

逗子の弁財天

鐘楼

三浦道香主従の墓

 北条早雲によって岡崎城を攻められた三浦道寸は、弟道香の守る住吉城に退いたが、住吉城も攻められ落城した。
 道寸は三浦の新井城に逃れたが、道香は最期まで戦い、7騎で落ちのびた末、延命寺で自刃したと伝えられている。

延命地蔵尊

本堂と

同行2人修業大師像、犬が2頭同行四郎犬と九郎犬、

これとの関係ではなさそうですが、動物愛護慰霊碑がありました。

仕事が終わった後、新逗子に向かう途中に亀岡八幡宮がありました。亀岡八幡宮は逗子の鎮守さんです。

ここの隣は逗子市役所でした。市役所前にありました。

帰りは新逗子駅から京急に乗りました。

 

 

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中山・法華経寺

2014年08月05日 23時42分00秒 | 社寺仏閣

昨年に続いて下総中山にある施設を訪問しました。午前中で中山の仕事は終えて午後は市川の施設を訪問するので、その間の昼食と休み時間を活用して、法華経寺を再訪しました。黒門です。総門とも呼ばれています。古風にして雄大、太田資順筆の如来滅後、閻浮提内、本化菩薩、初転法輪、法華道場の額を揚げてあるそうです。

寺に着く前に市川市の公園があり昨年はネコさんがたくんさんいたので、寄ってみました。昨年は耳カットの地域猫さんがいたのですが、今年は2匹で耳カットなしです。クロネコさんは昨年もいたような気がします。ここからさらに歩いて山門に着きました。三門・赤門とも呼呼ばれています。広壮な建物で、扁額「正中山」は桃山から江戸時代に活躍した本阿弥光悦筆によりろそうです。

 参道の途中に荒行道場があります。中に入ってみました。梅の木です。太宰府天神や亀戸天神を思いだしました。参道にある荒行堂です。 

華経寺に着きました。正面に見えるのが五重塔です。写真を撮ろうと思ったら、いきなり隣の人が塔は正面に入れて撮らないとアドバイスがありました。案内にある江戸名所図会です。真ん中に五重塔が書いてあります

★ランドマーク日蓮宗大本山正中山法華経寺:お寺のHPより鎌倉時代の高僧日蓮大聖人が最初に教えを説き、開いた零跡寺院です。
 中山の地は日蓮聖人の法難の際の安らぎの地であり、説法の地でもあります。日蓮聖人御真刻の鬼子母神が安置されている鬼子母神堂は、江戸三大鬼子母神にも数えられ、信仰厚く、子育安産、病気平癒の祈祷、社運隆盛のための参詣の人も多く訪れます。
 日蓮宗の祈祷根本道場で11月1日から2月10日まで寒百日大荒行(世界三大荒行の一つと言われている)が行われることでも知られている。
 中山三法類(親師法縁、達師法縁、堺法縁)の縁頭寺である。国宝である日蓮聖人の御真筆(立正安国論、観心本尊抄)や五重塔、法華堂等国指定重要文化財の建造物や、市指定文化財の本阿弥光悦筆の扁額など、境内には多くの文化財があります。また、境内には千葉県で一番大きな「中山大仏」もあります。
 春秋の彼岸法、お千部、お会式、日蓮宗大荒行堂開設や聖教殿のお風入れ(11月3日)もある。
 春のお花見、節分会、そして初詣では、参拝客で広い境内も賑わいます。

塔の近くに寄ってみました。左手に見えるのが

★ランドマーク法華経寺祖師堂寺のHPによると:「祖師堂 大堂とも云う。延宝6年(1678)第48世日純上人代に上棟式が行われ、17年の歳月をかけ、元禄15年(1702)落慶式が行われた。屋根は当時でも非常に珍しかった、比翼入母屋造りのお堂であった。しかし色々な問題から、巨大な破風を持つ入母屋造りに改造され、優雅な姿の祖師堂から、威厳高い祖師堂へと変身した。度々の改修工事を行い、昭和62年より日常大聖人第700遠忌事業として、10年の歳月をかけ、解体修復工事が行われ、平成9年、復元が完成し、創建当時の比翼入母屋造りの祖師堂になった。
ご安置しております日蓮聖人像は、中老日法上人の作で、両脇には当山歴代6祖の御像を奉安いたします。祖師堂正面には太虚庵光悦筆になる「祖師堂」の大額を揚げる。国指定 重要文化財」と書かれていました。

奥に行くと鬼子母神堂です。 尊神堂とも云う。高祖日蓮大聖人、御親刻の鬼子母神像を安置する。怨魔退散、子育ての守護神として崇められているそうです。

左手には日蓮宗大荒行堂です。★ランドマーク日蓮宗大荒行堂寺のHPによると「全国的に有名な日蓮宗荒行は毎年11月1日より翌年の2月10日まで行われ、全国から大勢の僧侶が集まり、寒壱百日間に及ぶ修行は荒行の名に恥じない厳しいものだそうです。

荒行僧の1日は早朝2時に起床し朝3時、1番の水行から午後11時の1日7回、寒水に身を清める「水行」と「万巻の読経」「木釼相承」相伝書の「書写行」があり、朝夕2回、梅干1個の白粥の食事の生活が続く。

自行の35日が明けると家族、檀信徒との面会が許される。この頃になるとヒゲや頭の毛は伸び、ほほはこけ、目ばかりが光る青白い姿となる。

また朝夕の木釼相承は寒風の中で行われ、手や足のひびやあかぎれが裂け、血が吹き出してくる。
こうして続けられる苦修練行は、読経堂内の「凡骨将死」「聖胎自生」という対句のとおり、まさに「死と蘇生」の宗教的体験が秘められている。と書かれています。

今回はさらにその奥の聖教殿に行ってみました。建築家伊東忠太氏の設計。法華経寺の寺宝を保管している。11月のお風入れの際には、その一部を公開しています。

帰りがけに参道の店で飼われているネコさんを撮ってきました。穏やかな顔をしていました。

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