ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

霊巌寺・江戸六地蔵

2016年05月19日 23時22分03秒 | 社寺仏閣

リハビリを兼ねて自転車で門前仲町まで行き、帰りに清澄庭園に近くで、江戸六地蔵のある霊巖寺に行ってきました。

江戸六地蔵(えどろくじぞう)は、宝永から享保年間にかけて江戸市中の6箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像です。
江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706年)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立しました。

病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものだそうです。

江戸六地蔵一覧
第一番 品川寺 宝永5年(1708)品川区南品川3-5-17(東海道)

第二番 東禅寺 宝永7年(1710)台東区東浅草2-12-13(奥州街道)

第三番 太宗寺 正徳2年(1712)新宿区新宿2-9-2(甲州街道)

第四番 真性寺 正徳4年(1714)豊島区巣鴨3-21-21(中仙道)

第五番 霊巌寺 享保2年(1717)江東区白河1-3-32(水戸街道)

第六番 永代寺 享保5年(1720)江東区富岡1-15-1(千葉街道)

昨日見た東禅寺が3カ所目だったので、品川寺、太宗寺とこれで4カ所見ることができました。永代寺は廃寺になって地蔵尊もないようです。

霊巌寺の山門です。

左手に

松平定信の墓があることと銅造地蔵菩薩坐像の碑がありました。

右手にはこんな碑もあります。

本堂です。

江戸六地蔵の碑

江戸六地蔵の5番目と書いてあります。

奥に松平定信の墓がありました。

門は閉まっています。

★ランドマーク松平定信の墓松平定信(1758~1829)は8代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白川藩主となり白河楽翁を号していた。天明7年(1787)6月に老中となり寛政の改革を断行、寛政5年(1793)老中を辞している。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本、御家人などの借金救済)七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の建て直しを計った。
 また、朱子学者でもあり「花月草紙」「宇下の人言」「国本論」「修身録」などの著書もある。

上が定信の墓、下は、松平定信の夫人の墓です。

本堂の裏に墓地があり、霊巌寺の六地蔵がありました。

門前にある江東区の案内です。

★ランドマーク霊巌寺霊巌寺は寛永元年(1624年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建された。数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなった。

明暦3年(1657年)、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になったという。万治元年(1658年)に徳川幕府の火事対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転した。

霊巌寺には、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ、今治藩の松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在する。また、境内には江戸六地蔵の第五番が安置されている。

幕末江戸の7大火葬場(荼毘所)のひとつ、境内除地に火屋があり火葬執行の責任者が置かれていた。

古地図にある永代寺方面から寺の並んでいる通り(二つ目通り=清澄通り)を抜けて霊巌寺に来ました。

 

 

 

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